夏のカレー{シャバシャバどろどろ}
暑い夏場に入った時、近所に新しく『カレー専門店』なるものが出来、繁盛し始め、ちょっとした評判になってきていた。
物珍しさもあり試しに店に入って注文してみると、俺の頼んだ欧風カレーにはとろみがついていなかった。欧風、というからには、日本人なら皆、当然、あのどろりとした『海軍カレー』を思い浮かべるというものだろう。
俺は怒りながら、ひどい欧風カレーを出してきた、無駄にこ洒落たこのカレー専門店の女店長に、正当な言葉を投げ掛ける為にカウンターまで出て行ってやった。
「おい! 欧風カレーっつったら、どろどろの海軍カレーだろうよ?! なんだ、この店のカレーは!!」
言ってやると、カウンターから女店長が出てきて、俺に向かって頭を下げた。
「申し訳ない事で御座います、当店の欧風カレーにはとろみはついておりません。メニュー表に記載が御座いますので、とろみのついた物をご用意致しましょうか?」
「当たり前だ! それから、どうせ廃棄にするんだろ?! だったらこのシャバシャバな腑抜けカレーも俺が喰ってやる! 感謝しろよ!!」
女店長は俺に深々と頭を下げた。
フフン、と俺は自分の権利を言論により勝ち取った優越感と共に、ジャガイモと人参、玉ねぎ、豚肉のゴロゴロ入っているらしい、とろみのしっかりついた『懐かしカレー』とやらを注文してやった。
そして、その『懐かしカレー』が届くまでシャバシャバの『欧風カレー』を食べ進める。
不味いって訳ではないが、美味くもない。それに具材が全部消えるほどに全てが蕩けてしまっており、歯応えが1つもなかった。
「こりゃ、カレーじゃねぇなあ、オイ!!」
俺は店内じゅうに聴こえる大きさの声で、この店のカレーの出来の悪さをわざわざ喧伝してやった。俺は偉い。食べ応えのないカレーを、高い金払って誤って喰っちまう、そんな被害者を一人でも救おうとしているのだから。
「……お客様、お待たせしております。こちら、昔懐かしカレーと、サービスのマンゴーラッシーで御座います」
いまいち覇気がなく、感情の読めない男性店員が、俺のテーブルに新しいカレーと、なんだか良く解らない飲み物を運んできた。
「あ? にーちゃん、らしー? てのは何なんだよ?!」
接客をまだ解っていなさそうな若い男性店員に、経験を積ませてやるため、俺は利き手の右でテーブルに置かれた白い液体入りのグラスの上部を掴み、ぐらぐらと回した。
「……ラッシーは、ヨーグルト飲料です。当店のものは、プレーンやマンゴー、キウイなどがございます」
愛想なく、むっつりと男性店員は淡々と答える。こりゃあ、バイトだな。てんで、接客がなっちゃあいない。
「にーちゃーん?! こっちは客だぞ、『お客様は神様』だ!! おめーは自分の店が客に迷惑かけてんの、分かってねーんじゃねーのぉ??!! 反省して腰低くしなきゃまずいだろ、なんなんだよ、その態度は!!!」
俺はバイトの兄ちゃんの為に、わざと、怒鳴ってみせてやった。
若いヤツらは、こうやって世間ってものを解っていかなけりゃあ、ならないんだ。俺は憎まれ役を買って出てやっている。店が静まりかえるのが気持ちのすく思いがして心地良かった。
「……申し訳ないです、ごゆっくりお召し上がりにください」
バイトの兄ちゃんは、顔が見えなくなるぐらいに頭を下げて俺にそう言うと、店のカウンター奥に消えていった。
「はは、泣かしちまったかね」
今の若いのは気骨ってものがない。あれっぱかりの事で男が泣くなんざ、情けないもんだ。周りに叱ってやる者がいなかったのかもしれない、とにかく甘やかされ過ぎなんだ。
あーあ、と肩をすくませてから、俺は運ばれてきた『懐かしカレー』をスプーンでよそい、口に運んだ。
欧風カレーのシャバシャバとは違い、しっかりとした具材にどろどろのルー。
そうだよ、これが、カレーだ。これで良いんだよ。
「有るんなら、はじめっから出しゃイイんだよ……まぁ、そんなには美味かぁねぇけど」
シャバシャバのカレーと、どろどろのカレーを俺は食べ比べる。まぁ、両方あれば、そこそこ満足のいく味にはなった。
「カレー専門店なんていうから期待したんだがね、ナンだの、じゃすみんライスだの、スパイスの追加だの、訳の分からねぇもんばっかに拘って、ややこしくしやがって。ちっともカレーを解ってねぇ」
シャバシャバのカレーを白米に全部流しこみ、スプーンで混ぜ込んで口に入れる。
かーっ、これだもんなぁ、と俺は嘆いた。
「これのどこがカレーなんだよ。ただの汁じゃねぇか」
カレーは肉と野菜とルーのどろどろとした食感が大事なんだ、このシャバシャバ腑抜け汁じゃ、食った気がしない。
「ま、こっちの方がマシだよなぁ」
俺はどろどろのカレーを白米にちょいとかけて、スプーンで口に運び、咀嚼する。
「ん、まあまあだよな、まあまあのカレーだよ。でもなぁ、種類ばっかり多くてちゃあんとしたカレーがコレ1種類ってんだから、詐欺みたいなモンだよなぁ、ひでぇ店だよ」
確かにひどい店だ、と俺は感じた。たまたま俺の場合はシャバシャバとどろどろの2つを喰えたからまだいいが、一品だけ喰うんだったら、どう考えても量が足りない。
「カレーっつうのは、腹持ちが良いもんだ、ふつうはよ。たっぷりのルーに、頼まねぇでも大盛りの飯が盛られて来るもんなんだよ。こんなんでいい値段とりやがるんだから、この店の経営はクズだね、クズのやり方だ」
俺はカレーを喰い終えて、らしー? とやらを飲んだ。美味くねぇ、マンゴーの甘味が嫌らしくねっとりと喉に絡みつきヨーグルト飲料の爽快感がまるで台無しだった。
「まともなドリンクもねぇんだな、この店はよお! こんなもん、カレーには合わねぇよ! ったく、最後の最後に気持ち悪ぃもん飲ませやがって!!」
こんな店に払ってやる金なんかねぇ、と毒づきながら、俺は席から立ち上がり、そのままカウンターを通り過ぎて店外に出ようとした。まともなモンを出さない店に払う金など俺は持ち合わせていなかったから当然だ。
どろどろのカレーと気持ちの悪いドリンクを俺の席に運んできた、バイトだろう若い兄ちゃんが、恨めしそうに俺を睨み付けてくるのが目の端に入ってきたが、構わずに店の自動ドアーを開かせ、俺は堂々と足を外へ向けて出した。
ーー……ミーンミンミンミーン……ーー
店の外へ出ると、そこには古びた町並みが平らに広がり、大音量の蝉時雨が降る、懐かしい昔の日本の夏の光景が広く拓けていた。
「……は……、え?」
俺は言葉を失い、しばらく立ち尽くした。
向かいの通りに、だらしなく胸を開けた昭和の婆さんが、柄杓とバケツで玄関先に打ち水をしている。
歯の抜けた坊主頭の男児らが俺の目の前をタンクトップに短いズボンで大口あけて歓声を上げながら走っていき、道の端ではおかっぱの女児がゴム毬をついたり、あやとりをしたりしながらクスクスと笑っている。
今みたいに気温も暑すぎず、道路も舗装されておらずに下からの熱気も感じない。
「ーーここだ、これだよ、俺のいた、俺の知ってる、日本の夏は……! なんだよ、こんなとこにあったのかよ……俺の、懐かしい、夏……!!」
俺は涙を浮かべながら、目の前の光景に一歩を踏み出す。
「ーーご精算がまだですよ、お客様ーー」
後ろからふいに女の声で話し掛けられ、俺は身を縮ませた。
ーー振り向くと、さっき出たカレー専門店の女店主が、店を背に立っていた。
「……なんだ、おまえ……」
広がる昭和の町並みから、カレー専門店と女店主だけが令和の今風に浮き上がって存在しており、ひときわ異彩を放っている。
「……お客様、お忘れものは御座いませんか」
女店主がにこやかに俺に問う。
「わ、忘れもんなんか、俺にはねぇぞ! そ、それよりーー、そんなことより!! 俺は俺の夏に帰るとこなんだ、今から俺は俺の夏を取り戻しにいくんだよ、邪魔すんな!!!」
「……ご精算はなさらないので?」
「だから、それどこじゃねぇんだ! しねぇ、しねぇよ、俺は早くあの懐かしい夏の方に行かなきゃいけねぇんだから!!」
俺は昭和の夏に向き直り、駆け出した。
「おおい、俺を入れてくれ、俺はそっち側だ! ……そっちの夏に戻してくれぇ!!」
「ーー残念ですーー」
女店長の声が俺の背中に短く掛かった気がするが、俺にはもうそんな事はどうでも良かった。
俺は俺の夏に帰る。カレー、あのカレーをたらふく喰うんだ。間違いのない、本物のカレーを……本当の夏に帰って、食堂で喰ったあのカレーを……!
ーーバシャリーー
空から雨が降ってきたのか、突然俺は全身水浸しになっていた。
「?!」
訳が分からず、取り敢えず自分の両手を見る。
「ーー水、じゃ、ない?」
俺にかかった液体は、茶色とオレンジ色の中間のような色味をしていた……。
顔を上げ、打ち水をしていた婆さんを見ると、恐ろしくキツい般若のような形相で俺を真っ直ぐに見据え、柄杓を俺に向けて差し延ばしている。
「……な、なんだよ、婆さん……、何怒ってんだ?」
ふいに、着ている半袖のシャツの裾を誰かに掴まれた。
なんだ、と見やると、さっき走っていた男児たちが真っ黒な目で俺を見上げていた。
「なんで食べたのにお金はらわなかったの」
「悪いこと、したね。おじさん」
「もう仕方ないね、悪いことしたんだから」
彼らは口々に言い、いつの間に寄ってきたのか、女児たちも俺を取り込みキャキャキャキャ、と嗤っていた。
「ーー悪い、こと? 俺が……いつ、そんな」
ーーどちゃりーー
また謎の液体が降り、俺の体を濡らした。
今度のは、前に浴びたのより重みがあり、身体に液体だけでなく何か質量のあるものもドスドスと当たった。
「なんなんだ、こりゃ」
男児と女児、婆さんが嗤い、蝉時雨がやたらとうるさい。
液体の正体を確かめるべく、俺が空を見上げた、そのとき。
ーー上空から、巨大な銀色のスプーンのような物が俺目掛けて振り下ろされて来るのを、俺は見付けてしまったのだったーー