妃の奇跡〜忘れられた妃ですが、女神から神託を授かりました〜
千年帝国と呼ばれる国がある。光の女神ルミナスの加護を与えられたとされる、大陸最古の国。その皇族、アヴァロン王朝の血族もまた、光の女神の加護を賜り、長命である。
第五側妃レーテは今や、忘れられた妃だ。
元は、ガルシア伯爵家の長女。婿を取り、家を継ぐ立場だった。しかし、婚約者であった第六皇子、アダルセリスに皇位が転がって来たことで、事態が変わった。
先代の皇帝ディオレサンスは血気盛んで、戦好き。皇帝だった頃は周辺諸国に戦を仕掛けまくり、最終的に戦死。それでもこのグランツ帝国が無事なのは、外交に長けた元皇太子と、一騎当千の実力を持つ兵達、そして聖女のお陰。だがディオレサンスの死後すぐに、父親によく似て戦好きな第二皇子が皇太子を暗殺した。理由は、平和を求める皇太子が即位したら、戦がなくなるから。しかし結局、第二皇子も皇太子暗殺の黒幕として捕らえられ、皇位継承権を剥奪された。
これにより、皇位は第三皇子が継ぐはずだった。しかし、第四皇子、第五皇子が、皇太子の婚約者であり、次期皇后と目されていた公爵令嬢に横恋慕。その新たな婚約者となる予定だった第三皇子を暗殺し、熾烈な争いを繰り広げた。だが、二人してお互いの策にかかり、死亡。公爵令嬢は自身が皇子三人の身を狂わせたことを嘆き、自ら修道院へ。
そんな酷いとしか言いようがない経緯から、アダルセリスは末っ子皇子から皇帝へ。幸いだったのは、一連の騒動で混乱した国を数年で立て直せるほど、アダルセリスが優秀だったことぐらいか。
しかし、レーテは皇后にはならなかった。いや、なれなかった。
先帝が戦死する少し前、聖女セレスティーネが老衰で亡くなった。聖女は希少な光魔法の使い手の中から一人だけ選ばれる、女神の代理人だ。新たな聖女に指名されたのは平民の少女、ルチア。彼女が年頃の若い娘だった為、修道院に行ってしまった公爵令嬢の代わりに、皇后にも選ばれた。
レーテは家を継ぐ為にも、アダルセリスとの婚約を取り消すつもりだった。アダルセリスのことは好きだったが、仕方ないと諦めて。だが、妹、オルテンシアの恋人が侯爵家の四男で、継ぐものがないことから、考えを改めた。貴族の子女でも、嫡子でない者は、貴族に婿入りか嫁入りをしない限り、平民になってしまう。王家から、レーテに側妃の地位を用意するという報せがあったこともある。レーテは次期女伯爵の地位を、オルテンシアに譲り渡した。
元々、レーテよりもオルテンシアの方が頭が良かったというのもある。レーテが後継者だったのはあくまで、未来の夫となるアダルセリスが優秀だったから。アダルセリスの助力込みで、長女のレーテに継がせても問題ないとされただけ。
だが、レーテは側妃になって後悔した。グランツ帝国では皇帝のみ、重婚が認められている。皇帝は最低でも六人、妃を娶らなければならないという決まりがある。それは、アダルセリスも同じ。かつて、グランツ帝国に六つの公爵家があった頃の名残りだ。当時は、六つの公爵家それぞれから一人ずつ、妃を迎えていた。
本当ならば、レーテだけの夫になるはずだった。アダルセリスの妻も、レーテだけのはずだった。愛する夫を他の女と共有する。それが、レーテには耐えられなかった。ならば、アダルセリスではない他の人と結婚して、お互い唯一の伴侶となる方がマシだったかもしれない。
レーテは側妃一年目にして体調を崩し、自身の宮に引きこもるようになった。それでも、特に問題はない。妃はあと五人もいる。幼少期からずっと婚約していたのだからと、お情けで妃に迎えられた伯爵令嬢よりも、身分も教養もある側妃達と、唯一無二の聖女たる皇后が。
気が付けば、二十年が経っていた。
レーテが暮らす宮殿は通称、ラピスラズリ宮という。後宮にある六つの宮殿にはそれぞれ、宝石の名前が付いている。
レーテはこの宮殿を気に入っている。レーテの唯一の自慢である、鮮やかな瑠璃色の瞳と同じ色をした宝石の名を冠しているから。だが同時に、悲しくもある。幼かった頃、アダルセリスとお揃いだと言って笑った記憶があるから。
その宮殿の敷地内には、小さな教会がある。元はなかったのだが、体調を崩し、教会へ行くことが難しくなったレーテの為に、アダルセリスが建ててくれた。
ガルシア家は先祖代々、敬虔な光の女神の信者だ。幼い頃から毎週日曜日に家族で教会で祈りを捧げるのが日課だった。それは、アダルセリスも知っている。
今日もレーテは、教会へ行く。基本的に、体調が良い日は毎日赴く。少しでも歩かないと、ただでさえ少ない体力が更になくなる。主治医にも、少しでも体力を付けるようにと言われている。教会との往復はちょうどいい距離だ。
教会の奥にある祭壇の前に跪き、胸の前で手を組む。心の中で光の女神への祝詞を述べる。数分にも満たない時間だが、身心が清められ、スッキリとする。気のせいかもしれないが。
「レーテ様、」
後ろに控える付き添いの侍女が、レーテの名を呼ぶ。普段ならばありえない。レーテの祈りを邪魔してはならないと、決められているから。
レーテは反応しようとした。どうしたの、と。祈りを遮られても、レーテは怒らない。嫉妬に身を焦がして体調を崩したのだから、少しでも穏やかな気持ちで在り続けたいと思って。
だが、身体が動かなかった。祈りをしている体勢のまま、閉じた瞼を持ち上げることすら出来ない。まるで、金縛りに遇ったかのよう。何事かとパニックになる前に、耳鳴りがした。
『オスカルの乙女、レーテ。そなたに神託を授けましょう』
見知らぬ女性の声が聞こえる。どこか優しく、だが、厳かな。
もう乙女なんて歳じゃないです、なんて言えるような雰囲気ではない。
『このグランツ帝国の破滅を、防ぎなさい』
同時に流れ込んで来たのは、この国が辿る未来の映像。その内容のおぞましさに、レーテは息を呑む。
「何故、わたしなのでしょうか」
声が出た。
『あなたがオスカルの正統なる継承者、オスカルの乙女だからです』
なんですか、それは。
そう聞く前に、身体の硬直が解ける。床に倒れ込んだレーテに、侍女が駆け寄る。
「レーテ様! 大丈夫ですか!?」
一気に疲れた。身体が重い。本当は大丈夫だと言いたいけど、指一本どころか、口さえ動かない。
「誰か! レーテ様が!!」
侍女が叫ぶ。教会の外に控えていた護衛騎士達の足音を聞きながら、レーテの意識は闇へと落ちた。
目が覚めると、ベッドの上だった。いつも使っている、自分のベッド。レーテは上半身を起こそうと、身体に力を入れる。
「レーテ様? 目覚められたのですね」
側にいたらしい侍女が身体を支え、手伝ってくれた。
彼女、ジゼルは、一緒に教会に行った子ではなく、レーテの実家からついて来て、長年仕えてくれている。このラピスラズリ宮における侍女達のまとめ役でもある。
「ありがとう……。わたしは……」
「レーテ様は教会でお祈りの最中、倒れられたのです」
「あぁ、そうだった……」
差し出されたコップを受け取り、水を飲む。一気に飲んでしまって、喉が渇いていたことに気が付いた。
「供をしていたタリアによると、突然、ステンドグラスから差した光がレーテ様に当たって、その光が消えたと思ったら、レーテ様が倒れられたと」
その不自然な様子に、侍女のタリアはレーテの名を呼んだのか。
「そうだったんだ。……わたしもよくわからないんだけど――」
レーテは、先程の謎の体験のことを話す。
「それは……光の女神ルミナスからの神託ではないでしょうか」
ジゼルが言う。レーテもそれを疑ったが……。
「まさか、ありえないよ。聖女のルチア様ならともかく、なんでわたし?」
「レーテ様も光魔法の使い手……神に選ばれた御方ではありませんか」
ジゼルの言う通り、レーテは希少な光魔法の使い手で、聖女候補の一人でもあった。
だが、レーテも家族も、レーテが聖女に選ばれると期待したことはない。聖女に求められるのは、光魔法の中でも、治癒、浄化、結界など、補佐系魔法の実力。聖女である皇后ルチアも得意とする。しかし、レーテはそれらがあまり得意ではない。逆に、攻撃系魔法が得意。ただ、聖女は聖騎士達に守られる存在なので、戦える必要はない。
「ですが、これから起こる未来、レーテ様の御力が必要なのかもしれません」
「でも……」
レーテが見せられたのは、大量の魔物の侵攻によって、グランツ帝国が滅びる未来。
グランツ帝国が光の女神の加護を賜り、聖女を有している理由は、領土の隣にある魔物の領域――魔界の存在からだと思われる。グランツ帝国は魔界からやって来る魔物を倒す為に武力を鍛え、魔法の腕を磨き、光の女神ルミナスと聖女を尊んでいる。
レーテは光魔法……というよりかは、強力な攻撃系魔法の使い手だ。だが、それは昔の話だと思う。二十年も引きこもっていた為、攻撃系魔法を使う機会はない。昔は貴族令嬢ながら、婚約者であったアダルセリスの暗殺を目論む者達を返り討ちにして来たので、むしろ鍛えられていたが。忘れられた妃と揶揄され、妃の中で唯一子供もいない側妃の命を狙うような暇人はいないだろう。
「陛下にはご報告しましょう」
ジゼルに言われ、レーテは頷く。国の一大事でもある。この国の皇帝に伝えないわけにはいかない。
だが、気は進まない。
「会いたくないから、代わりに伝えてくれる?」
「レーテ様。又聞きよりも、当事者の話の方が正確です。国を揺るがす一大事かもしれないのですから、ちゃんと陛下とお話ししましょう」
ジゼルの言うことは正しい。相手がアダルセリスでなければ、レーテも進んで話しただろう。
「…………わかった」
身分はレーテが上でも、乳姉妹であり、幼少期から仕えてくれているジゼルには頭が上がらない。
すぐさま、使者を送る。
でも、レーテにはそれが気に食わない。本当なら、そんなことをしなくても気軽に会えただろう。そう思ってしまう。ふとした瞬間に、アダルセリスとのもしもを考える。だから会いたくない。会ったらまた考えて、虚しくなる。
「少しでも綺麗な格好でお迎えしましょう」
と、ジゼルに押されて、着替えさせられる。まだ身体が怠いので、コルセットを締める必要がないエンパイアドレス。病床に伏せってから、長年重宝している。
負担にならないよう、小振りのラピスラズリがあしらわれたネックレスをつけ、髪も結わえる。ハーフアップだけど。
四十近いおばさんがする髪型ではないとレーテはいつも思うのだが、侍女達がさせたがる。嫌がらせなどではない。レーテは未だ、少女のように若々しい。美女揃いの他の妃達でも、レーテほどの若さを保っている者は誰一人としていない。それが、侍女達は自慢なのだ。
ただ、敢えて言うなら、アダルセリス。直系の皇族は長命ゆえ、老いも緩やか。アダルセリスも、レーテとそう変わらない若々しさを保っている。
レーテは皇族の血を引いているわけではない。ガルシア家の家族も、歳相応に老いている。三歳下の妹と並べば、母と娘にしか見えない。むしろ、甥や姪とほとんど同い年のように見える。だが、父方の祖父、先々代のガルシア伯爵トールは、年齢の割に若々しい容貌だった。
アダルセリスはすぐに来た。皇帝は暇なのか、それともちょうど時間が空いていたのか。レーテはなにも知らない。アダルセリスと会ったのも数年ぶりなぐらい、今の二人は疎遠だ。レーテが彼の来訪を頑なに拒んでいるということが主な原因だろうけど。
「レーテ」
久しぶりに見たアダルセリスは、変わらぬ美貌と若々しさだった。それはレーテも同じだが、自分ではよくわからない。
金色の髪に、鮮やかな瑠璃色の瞳。その顔を見て、「あぁ、好きだな」と思う。嫌いに、いや、無関心になれたら、どれほど楽に生きられるだろうか。
「お久しぶりです、陛下。このような格好で申し訳ありません。体調が優れないのです」
もう、幼かった頃のように、「アディさま」とは呼べない。
「……あぁ、聞いている。無理はするな」
「寛大な御心に感謝いたします」
レーテはか細い声で言う。
いつからだろうか。アダルセリスに会うと、胸が苦しくなるようになったのは。
「実は、陛下にお話があって、大変失礼ながら、お呼びさせていただきました」
と前置きして、ジゼルに話したことを再び話す。アダルセリスは黙って聞いていた。しかし、表情はどんどんと険しくなる。
「モンスターインベイドが近いうちに来ると。それも、このグランツを滅ぼせる規模の」
「ですが、本物の神託かはわかりません。わたしの幻覚かもしれませんし」
「それはないだろう」
アダルセリスはベッド脇の椅子に腰掛けている。
「確かに近々、魔界の方で魔物の動きが活発になっていると報告を受けている。モンスターインベイドの前兆だろうな」
神託の信憑性が高くなり、レーテは表情を曇らせる。
魔界の近くには、ガルシア伯爵家の領地もある。社交界のオフシーズンは基本、両親と妹一家はそちらにある本邸で暮らしている。最悪、モンスターインベイドに直撃されかねない。
「……皇后陛下はなにも仰っていませんの?」
本当は他の女の話など出したくないが、仕方ない。
「聞いていないな。そもそも、神託を賜ったことはないようだ」
「そうですか」
そんなこともある。女神が神託を授けることすら稀だ。歴代聖女の中には毎日のように神託を授かっていた者もいるようだが、数百年前、世界中で戦争が絶えなかった頃の話らしい。
「では、どうしてわたしなんかに……」
「推定女神は、オスカルの乙女、継承者と言っていたそうだな」
「はい」
「レーテが継承者として思い至るのはガルシア伯爵家だが、なにか言い伝えとかはないのか? 建国から血が続いている家の一つだろう」
グランツ帝国には多くの貴族家が存在するが、建国から続く一族は、数えるほどしか残っていない。家名は残っていても、血が代わっていることはよくある。
そんな中でも、ガルシア家は建国以来、細々とながら血を繋いでいる。瑠璃色の瞳が、その古い血の証。同じく建国から続くアヴァロン王朝に生まれたアダルセリスも同じ色の瞳を持つ。だから、第六といえど、直系の皇子が婿入りする予定だったのだ。数千年続く、古き血筋を守る為に。
「存じ上げません。もしかしたら、祖父ならばなにかを知っていたかもしれません。ですが、祖父は急死してしまいましたから……」
先々代当主であるレーテの祖父、トールは、レーテが十歳になる前に亡くなっている。突然死で、爵位もまだ、長男であるレーテの父、ライスに継承していなかった。もしも口頭で伝えることがあったならば、それは出来ないままだっただろう。本当にそんな話があるかは知らない。
「とりあえず、義父上かオルテンシアに聞いてみてくれ」
オルテンシアは幼少期、どこへ行くにもレーテに付いてきて、レーテと同じことをしたがった。だから、アダルセリスもオルテンシアをよく知っている。
ちなみに、アダルセリスはレーテよりも四歳年上。
「わかりました。では、わたしにガルシア領に行く許可をください」
「は?」
レーテの申し出に、アダルセリスの表情が崩れる。
「なにが『では』だ。許可するわけがないだろう」
「直接、父と妹に聞いて参ります。ついでに、モンスターインベイドが来たら防衛に協力して来ます」
「駄目だ。許さない」
ぐっとアダルセリスが上半身を乗り出す。その分、顔が近くなる。レーテは反射的に顔を背けた。
普通なら、夫の顔が近づこうが、妻は平気なのかもしれない。きっと、他の妃達も。だが、レーテはアダルセリスに会うのは数年ぶり。
というか、結婚して間もなくに体調を崩してから、閨も共にしていない。だから子供もいない。レーテが望んだのもある。子供を産んで、その子を皇位継承権に巻き込みたくないと言えば、アダルセリスは許してくれた。彼自身がそれにより、大きく未来を変えられたからというのもあるだろう。
「わざわざ危険地帯に行く必要はない」
「わたしの故郷です。家族も、領民もいます。それに、わたしの攻撃魔法はご存知でしょう」
多分、ずっと鈍っている。思った以上に使えなくなっているかもしれない。それで、死ぬかも。
「あぁ、知っている。身を以て」
ずっとその魔法に守られてきたのだから。
アダルセリスは頷く。しかし、どこか絞り出すように言う。
「だが、おまえは私の妃だろう」
「そうですね。ただし、忘れられた。なにもしていない妃」
でも、別にいいと思った。ここで公務も妊娠もせず、ただ伏せって引きこもっているだけの穀潰し。そんな妃が一人減ろうが、むしろ、喜ばれるだけだろう。そして、新たな妃に名家の令嬢か、他国の王女が迎えられるはずだ。アダルセリスは四十過ぎだが、肉体は若いまま。二十代と変わらない。問題なく子供も作れるし、皇帝の子供が多くても損はない。
「陛下もご存知でしょう。わたしは、ガルシア女伯爵となる為に育ちました。わたしに今の立場は荷が重かったけど、せめて、やれることはしたいんです」
折れたのはアダルセリスだった。一週間後、レーテは結婚して初めて、故郷に戻った。
「ジゼル、本当にいいの?」
ガルシア領に向かう馬車の中で、レーテはジゼルに問いかける。
いつ、モンスターインベイドが起こるかもわからない今、魔界に近い場所にあるガルシア領に向かうことは、死地に行くようなものだ。
「はい。私はレーテ様に付いて行きます。たとえそこが地獄であろうと。それに、ガルシア領は私の故郷で、両親や弟一家もいますから」
現在、ジゼルの両親と弟、その妻子は、揃ってガルシア伯爵家に仕えている。領主家族がいるのなら、彼らもそちらにいる。
そして、レーテが護衛として連れて来た騎士のほとんども、ガルシア領出身や育ちだったり、家族がいたりする。元はガルシア伯爵家に仕える騎士達で、皇帝に嫁ぐレーテに付いて来てくれた者達だ。
「いつ、着くのかな」
レーテの体調との兼ね合いもあり、出発が遅れてしまった。道中も、身体が弱いレーテの体調を気遣って行けと、アダルセリスに厳命されている。そのせいか、進みは遅い。
「陛下は既に、フォーサイス辺境伯爵領にいらっしゃるんですよね」
フォーサイス辺境伯爵領は、ガルシア領と魔界の間にある領地だ。もし、モンスターインベイドが起これば、最前線となるであろう場所。
起こる具体的な時期はわからないが、時期は今頃だろうと当たりを付けている。
というのも、見せられた未来の中、モンスターインベイドが起こっている最中に、大旗が立てられているのを見た。あれはこの時期にフォーサイス領で行われている祭りの際に立てられるものだ。そして、デザインは毎年変わる。フォーサイス領にある学校に通う子供達がデザインしているらしい。調べてみると、今年のものと同じだった。だから、旗が立っている祭りの前後一ヶ月以内に、モンスターインベイドが起こると予想した。
アダルセリスはその最前線に、軍人、騎士、魔法師を従えて行った。あと、聖女である皇后ルチア、その子供である皇太子クリストファーと皇女マリアーネーナ。彼らは母親の血を継いでか、光魔法の使い手だ。
「……そうだね」
レーテは両手を組んで、祈る。ここは教会ではないが、きっと届くと信じている。アダルセリスが、前線に行った者達が、無事であるようにと。
四日を掛けて着いたガルシア領でも、厳戒態勢が敷かれていた。もしもフォーサイス領が突破されたら、ここで侵攻を止める。そんな気迫が感じられる。
ガルシア伯爵家の屋敷を訪ねる。記憶の中のものよりも古びた、だけど変わらないデザインの実家に、滲みかけた涙を拭う。
使用人も忙しない中、出迎えてくれたのは女伯爵である妹、オルテンシア。オルテンシアとレーテの容姿は、一言で言えば反対。
髪と目の色は同じく、黒と瑠璃色。身長も同じ。だが、オルテンシアはスレンダーな体型で、ストレートの髪、切れ長の瞳。レーテは凹凸がわかりやすい体型で、癖っ毛、大きく丸い瞳。
「久しぶりね、レーテ姉さま。話は聞いているわ。アディさまがうちに寄って来たのよ」
「……アディさまが?」
オルテンシアにつられて、アダルセリスの愛称が飛び出す。
「フォーサイス領に行く途中にね。一人で抜け出して来たみたい。それで、オスカルについて聞かれたわ」
何故、アダルセリスが聞くんだ。レーテが来た理由の半分が消えるではないか。
「わたしも父さまも初耳よ。でも父さまが、祖父さまから、姉さまが女伯爵になったら渡すようにって言われたものがあるらしいわ。姉さま以外が伯爵になっても渡すなって、厳命されたって」
「わたしが女伯爵じゃなく、側妃になったから渡せなかったんだね」
父のライスは防衛準備の指揮に忙しいらしく、代わりにオルテンシアにそれを手渡される。
「アディさまにも見せたわ。緊急事態だし、いっかなって。でも結局、それがなにかわからないし、オスカルの意味が書いてあるわけでもないから、祖父さまに言われた通り、姉さまに渡せって言われたの」
それは、ただの金色の棒が付いたペンダントだった。下の方の先はやや尖っている。それだけ。特になにかが書いてあるわけではない。
だが、握った瞬間、カチリとなにかがハマった気がした。
「――わたし、行かなくちゃ」
アディさまのところへ。モンスターインベイドがやって来る地へ。直感的に思う。
そう言うと、オルテンシアはニヤリと笑った。
「姉さまなら言うと思ったわ!」
だから、オルテンシアは父に指揮を押し付けたと言う。父ならば、阻止するから。
「アディさまは姉さまを危険な目に遭わせないようにって煩かったの。でも、姉さまが黙って大人しくしているわけないものね。抜け出すの、手伝うわ」
流石に、ジゼルや騎士達を最前線までは連れて行けない。ジゼルは非戦闘員だし、騎士達も、故郷と家族の為にここへ来たのだ。
密かに馬を用意してもらう。レーテの愛馬は既に亡くなってしまったらしいので、その息子に当たる馬を借り受けた。
「姉さま、健闘を祈るわー!!」
「そっちこそー!!」
大きく手を振る妹に背を向け、走り出す。
乗馬も二十年ぶり。体力が持つかはわからない。だが、他に足がないので仕方ない。光魔法で無理矢理、体力や体調を回復させて進む。治癒は苦手だが、出来ないわけではない。
道中、地響きが鳴る。地震のよう。
だが、違う。これは、
「来たね、モンスターインベイド」
魔の気配が濃くなる。その先に、いる。魔物も、アダルセリスも。
どれほど走ったか。なけなしの体力は本来なら、底を尽きている。だが、光魔法で回復し、騙し騙しやって来た。魔力がある限り、動き続けるつもり。
「見えた!」
グランツ軍の最後尾が見えた。
モンスターインベイドは一言で言えば、魔物の行列。普段、連携しないはずの魔物だが、モンスターインベイドの際は何故か、隊列を組んで前進するのみ。だから迎え撃つこちらも、横に広がる必要はない。基本、列から逸れる魔物はいないから。
前方に軍人や騎士。後方で魔法師達が遠距離攻撃を仕掛ける。更にその後ろで、聖女を筆頭とした光魔法の使い手が怪我人を治療したり、魔物が放つ穢れを祓う。穢れに肉体が浸され続けると、著しく体力を消耗し、命にも関わる。
「止まれー!! 何者だー!!!!」
魔法で拡声された声が響く。
レーテの姿は、軍の方から見ると異様だった。二メートル以上もの大きな白馬が、その巨体に見合わない速度で爆走して来たのだから。
「は? ブランシュ?」
アダルセリスがあんぐりと口を開ける。美貌の皇帝がしていい顔じゃない。
二メートルを越える巨体は、ガルシア領産の馬の特徴だ。魔界から漏れる魔力の影響を受けて、一見は魔物のような見た目の荒々しい馬が育つ。
なお、より魔界に近いフォーサイス領で育てると、人間には制御出来ない魔馬が爆誕するので、敢えて育てない。
だが、フォーサイスで育ったのか? と言われるほど凶暴な巨馬がいた。それが、ブランシュという雌馬。
血の気が多く、どんな調教師にも従えることは出来ない暴れ馬。とうとう厩を脱走しめ、その先にいた少年のアダルセリスに突進した。そして、レーテの攻撃系魔法にぶちのめされた。以来、ブランシュはレーテにのみ従順になり、彼女の愛馬となった。
グランツ軍は劣勢だった。モンスターインベイドは十年に一度の頻度で起こるが、今回のものは例年の十倍以上と言っても過言ではない。魔物は多く、より強力な力を持っている。列の幅も広い。女神がわざわざ神託を降ろした理由が、よくわかる。これが一気に帝国内に雪崩れ込めば、滅びも免れないだろう。いや、最悪、この大陸全てが蹂躙されかねない。
あまりに危険過ぎると、アダルセリスは前線から最後尾の方まで退かされた。
皇太子であるクリストファーも帝都まで撤退するよう言われたが、下がらなかった。貴重な光魔法の使い手を一人でも減らすことは愚行だと、父帝と部下達に訴えた。
死を恐れず、勇敢なのは皇族の特徴だ。だが同時に、頑固で無謀でもある。
そんな皇族が集まる最後尾に突撃して来たのが、屈強な白馬に跨った華奢な貴婦人。第五側妃レーテ。
「レーテ!!」
アダルセリスが思わずといったように叫ぶ。馬に駆け寄ろうとして、「陛下、危険です!」と護衛騎士達に止められる。
「まさか、第五側妃殿下……ですか?」
クリストファーが目を見開いて、馬上のレーテを見上げる。
それもそうだろう。こんな凶暴そうな馬にドレスのまま乗って爆走する女性など、普通はいない。だが、ここにいる。しかも、病弱でいつも引きこもっている、忘れられた妃。
「何故、ここに来た!」
「光の女神ルミナスの期待に応えに来ました」
レーテはブランシュの息子から飛び降りる。
「期待? なにかわかったのか?」
「わかったような、わからないような……。でも、何故、女神がわたしに神託を授けたのかは、なんとなく」
そうは言いつつも、長年怠けていた身体は悲鳴を上げている。
レーテはさっさとやって終わらせてしまおうと、その場に膝を突く。まるで、教会で祈るように両手を組む。だがいつもと違うのは、手の中に祖父から贈られたペンダントがあること。
誰かが息を呑む。
空は曇天だった。モンスターインベイドの時はいつもそう。だが、一条の光が差し込み、レーテに当たる。まるで、舞台のスポットライトのように。しかし、それよりも、ずっと神々しい。
ラピスラズリに星が瞬くと称される、太古の血の証明たる瞳。瑠璃の中に潜む煌めきが光を増し、黄金に染まった。
赤い唇が動く。
「――雷よ」
光が落ちる。轟音と魔物の悲鳴が耳を劈き、地響きが大地を揺らす。
遠く、幾千、幾万を越える魔物の行列に、雷が落ちていた。無数に、絶え間なく。それは雨のように、曇天から降り注ぐ。
「……まさか」
誰もが絶句した。
なにも知らない前衛の者達は怯み、しかし気が付く。雷は魔物のみを傷つけ、その近くにいる人間達には、なんの影響もないと。これは、
「女神の奇跡か……?」
だが、最後尾にいる者達は知っている。目の前に、聖なる魔力の奔流に長い黒髪を遊ばせながら祈る妃がいるから。
これほどまで大規模にして高威力の攻撃系魔法は存在しない。いや、理論上は可能だ。ただし、圧倒的に魔力が足りない。
というか、雷という自然現象を魔法で再現すること自体が難しい。自然の操作は神の領域。その上、雷は光魔法に属する。光魔法の使い手の大半は、治癒や浄化、結界に長けている為、攻撃には向かない。世界全てを探しても、天から雷一つを落とせる者さえ、いるか、いないか。そんなレベル。
しかし、アダルセリスとレーテの幼少期を知る年層の者達は思い出した。
第六皇子で第五側妃の息子ながら、天才と名高かった長兄、元皇太子にも迫る優秀さゆえに、よく命を狙われていたアダルセリス。人間、魔物を問わない数多の刺客からアダルセリスを守り続けたのは、婚約者であったレーテ。そのレーテが最も得意とした攻撃系魔法こそ、雷だった。
「そういえば、古い文献で読んだことがあります」
不意にそう言ったのは、現在の皇太子、クリストファーだった。
「グランツ帝国が興る前、この土地で魔界から魔物の侵攻を止めていた一族が、オスカル――神の槍と呼ばれていたと。彼らは光の女神より、雷の権能を与えられたとも。そして、オスカルはグランツ帝国建国と共に別の名に変え、今もグランツ国内から魔界に睨みを利かせていると、書いてありました」
アダルセリスは息を呑む。それが答えだ。
思い返せば、ガルシア伯爵家の亡き先々代当主、レーテの祖父、トールもまた、雷による攻撃魔法を得意とする光魔法の使い手であった。彼はレーテの魔法の師匠でもある。
女神が今代聖女であるルチアではなく、レーテに神託を与えたのも、女神からオスカルの先祖へ、先祖からレーテへ受け継がれた雷の権能を使って、モンスターインベイドを止めさせる為。求めていたのは、ただの光魔法ではなかったのだ。
雷が止む。暗い雲は風に乗って消え、青い空と眩しい太陽が現れる。
終わったのだ。モンスターインベイドが。
そして、滅びの未来は避けられた。
それから、レーテは気絶した。いつも冷静沈着なアダルセリスが大騒ぎして、聖女にして皇后ルチアと、皇太子クリストファー、皇女マリアーネの、国内でも有数の光魔法の使い手三人がかりで治癒魔法をかけられた。だが、すぐに駆け付けた医師の診断により、過労と一気に魔力を消費した反動だとわかった。治癒魔法で過労は取れても、魔力までは回復しない。
気が付けば、レーテはラピスラズリ宮に帰って来ていた。その日のうちに、アダルセリスと共にペガサスの馬車で戻って来たらしい。
皇后とその子供達に治癒魔法をかけられたという話を聞いて、レーテはまた気絶したくなった。聖女にして皇后、その子供である皇族(うち一人は皇太子)にそんなことをしてもらうなんて、畏れ多すぎる。
しかし、そのお陰だろうか。ここ二十年、病気がちだったレーテの体調はすこぶるいい。病気、怪我知らずだった結婚前に戻った気分だ。
だが、気が向かないこともある。
「神女様!」
「レーテ様!!」
「レーテ妃殿下!!」
アダルセリスが、馬鹿正直に国民に対して、レーテがモンスターインベイドを殲滅したと公表してしまったのだ。口裏を合わせる前に気絶したことが悔やまれる。帝都からも、レーテの雷は見えたらしい。忘れられた妃から一躍、英雄になってしまった。
その上、アダルセリスはクリストファーや教会のトップの教皇を巻き込んで、オスカルに関する文献を調べまくった。
結果、過去に、代々、オスカル一の雷の権能の使い手を、男性なら「神使」、女性なら「神女」と呼んでいたことを突き止めた。アダルセリスと教皇はそれぞれ、皇帝権限と教会権限でその称号を復活させ、レーテに授けた。
そして今は、モンスターインベイドの勝利を記念したパレードが行われている。
いつもは戦死者を弔い、一定期間喪に服すのだが、今回、怪我人はいれど死者はいなかった。あれほど大規模なものだったが、優秀な光魔法の使い手である聖女とその子供達がいたお陰だろう。だがなにより、史上最速で殲滅が完了したからというのが大きい。本来ならば数日、長くて一ヶ月以上かかるところを、発生から一時間以内に終わらせたのだから。
その為、パレードの一番の主役はレーテ。勿論、前線に行ったアダルセリスやルチア、クリストファー、マリアーネ、大勢の騎士、軍人、魔法師、医師もいるが。
レーテは目立つことが苦手だ。第五側妃なのに、皇后を差し置いてアダルセリスの隣に座っている。
ずっと公務をサボってきたツケがまわって来た気がする。微笑が引き攣っていないか、心配だ。
「楽しくないか」
「はい」
頷いてから、仮にも皇帝の妃として、皇族としては冷たい返事だと思い至り、付け加える。
「目立つのは苦手なので」
「そうだったな。だが、義父上と義母上は泣いていただろう」
レーテの両親、先代ガルシア伯爵ライスと、その妻のウィステリア。二人は着飾ったレーテと、その隣に立つアダルセリスを見て泣いていた。レーテが、神聖さを示す為に純白のドレスを着ていたから。まるで、花嫁衣装のような。
皇帝と皇后の結婚式はあるが、皇帝と側妃の結婚式はない。ただ、書類に署名し、教会でそのことを女神に報告するだけ。
特に母はそれを、悲しんでいた。まだアダルセリスがただの皇子だった頃、レーテと母とオルテンシアで、あーでもないこーでもないとウエディングドレスのデザインを考えた。刺繍が得意な母は、毎日コツコツとベールに刺繍を入れてくれていた。レーテも、それを被る日を楽しみにしていた。だが、完成する前に、アダルセリスの即位と、レーテが側妃になることが決まった。
「いくつになっても、子供の晴れ舞台は嬉しいのではありませんか? わたしは子供がいないので、知りませんけど」
言ってから、後悔する。レーテに子供はいないけど、アダルセリスにはいる。でも、その話は聞きたくない。
「私もよくわからない。子供達とはあまり接しなかったから」
貴族、皇帝ともなればそんなこともよくある。子育ては乳母任せ。現に、アダルセリスも親と遊んだ記憶はない。生まれて間もなくに母を亡くした。幼少期は帝都を離れ、早々に決まった婚約者であるレーテがいるガルシア領で育った。
「なぁ、レーテ。まだ子供は欲しくないのか?」
突然、そんなことを言われる。
「当然でしょう。なにがあるかなんて、わかりませんもの」
皇太子は皇帝の第一子であり、聖女の息子であり、光魔法の使い手で、聡明なクリストファーと決まっている。貴族も国民も納得しているし、歓迎している。その地位は盤石。だが、人はいつ、なにが起こるかわからない。
その下に、皇子が五人、皇女は四人いる。
グランツ帝国では女性にも皇位継承権があるが、彼らが全滅しないとは限らない。確率は低くても、可能性はないとは言えない。レーテとアダルセリス、その兄達のように、皇位に翻弄される人生を子供に与えるなんて、嫌だ。
「ここだけの話だが、近いうちに退位するつもりだ」
「は?」
レーテは目を見開いて、アダルセリスを見上げる。
「顔」
と耳元で囁かれて、慌てて微笑み、民衆へ顔を向けて手を振る。
「皇太子のクリストファーももう二十を過ぎているし、結婚もする。民もクリストファーが皇帝になることを喜んでいる。早々に任せても、この国は揺らがないだろう」
グランツ帝国の皇族は皆、長寿。普通の人間の三倍以上の寿命を持つ。死ぬまで皇帝で在り続ける者もいれば、早々に退位して第二の人生を歩む者もいる。
「私が退位する時、一緒に来てくれないか」
また、アダルセリスを見てしまう。
共に煌めく瑠璃色の瞳が、互いを見つめ合う。
この国で重婚が出来るのは皇帝、ただ一人のみ。ゆえに、退位して皇帝でなくなった時点で、重婚も禁じられる。だから、生前退位する皇帝はその前に、妻一人を残して、他の妃と離婚しなければならない。全員と離婚する皇帝もいるが。
「…………皇后陛下じゃなくて?」
「あぁ」
手を振っていない方の手、左手を握り締められる。
一体、何十年ぶりか。最後に手を繋いだのは多分、結婚する前。少女時代はよく手を繋いで、デートした。
「皇帝であることを厭うているのではない。だが、一からやり直さないか。ガルシア領でも、どこでもいい。ただ一人の夫と、妻として」
それで、アダルセリスがレーテ以外の女と結婚した事実が、他の女との間に子供がいる事実が、消えるとでも思っているのか。
いや、アダルセリスはそんなことは思っていないし、消す気もないのだろう。
それでも、望んだ。本来、辿るはずだった未来を。
「レーテ。愛している」
声が震えていた。思わず、レーテは笑う。目元に滲んだ涙はそのままに。いつも気が強いくせに、こういう時は怯む。昔と変わらない姿に、胸が熱くなる。
ずっと、無視していようと思っていた。自分が穏やかに暮らす為に。でも、今からでも始められるのなら、
「わたしも。わたしも、ずっと、愛してる」
その手を取っても、いいのかもしれない。