序章
1
気絶していたのは数秒のことだったらしい。
悠は自分の体が何か柔らかいものの上に載っていることに気付いた。特に顔の下が柔らかいような――
「うあっ!」
下にあるものの正体に気付き、悠は慌てて体を起こした。その声で目覚めたらしい優莉の顔が直ぐ下にあった。が、周りが薄暗く、はっきりとは見えない。あまりにお約束の展開に悠は顔を赤らめたが、優莉には気付かれなかったようだ。近くに落ちていた眼鏡を拾って掛ける。幸いにも割れたり歪んだりはしていなかった。
「みんな、無事か?」
竜司の声が聞こえた。悠が声の方へ視線を巡らすと、竜司はエレベーターの操作パネルの下に座り込んでいた。さらに視線を巡らし、壁際に重なって倒れている譲と美音が見えた。譲は美音と壁に挟まれた格好だ。二人も気がつき、体を起こす。
天井の照明は消えていたが、扉の隙間から入り込む光で人の顔くらいは判別がついた。鳴っていたBGM――Over The Rainbowのオルゴールアレンジ――も消えていた。
「何なんだよ。事故か?」
「少なくとも、ロープが切れて奈落の底、って感じでは無さそうだな」
悠の声に竜司が答える。
「さすがに開かねーかな」云いながら、竜司が開ボタンを押すとエレベーターの扉はゆっくりと開いた。
光が入ってきて思わず目を細める。が、次の瞬間――
「え?」「は?」「なに……」「どうなってんの?」
竜司、譲、優莉、悠が呆然として声を漏らした。美音は声すら出なかった。
エレベーターの扉の外には、荒野が広がっていた。
「な……どういうことだよ」云いながら竜司が扉の外へと手を伸ばす。
「ちょっと待った!」悠はその腕を引き戻すと、デイパックからボールペンを出して、扉の外に突き出してみた。異常は見られない。
悠はボールペンを放り投げた。普通に落ちた。乾いた地面の上に落ちた音も聞こえる。
「なにしてるんです?」譲の問いに、
「次元の断層でもあったりしたら、体が真っ二つになってしまうかもしれないからな」
真面目な顔をして答える。
「大丈夫そうだな」
竜司がそっと腕を伸ばした。問題なく扉の外に出る。腕を伸ばしてグッパッと拳を開いたり握ったりしてみせてから、おもむろに歩き出す。
「おい、もっと」慎重に……と悠が云う前に竜司の体は完全に扉の外に出た。
体を伸ばしながら空を見上げる。左右が切り立った岩壁になっており、青空は3割くらいしか見られない。
悠も外に出てみた。呼吸も重力も問題ないようだ。「どこだ、ここは」
続いて優莉が出てきた。「なによ、これ? テレポート? タイムスリップ?」
竜司はエレベーターの側面にまわろうとしたが、側面は無かった。
「悠、来てみろよ」
悠は竜司のそばに行ってみる。「おお、これは――」
扉は完全な2次元となっているようで、真横にまわるとなにも見えなくなった。
「ドラえもんのタイムマシンの出口ってこんな感じよね」優莉が云った。
「じゃぁ、タイムトラベルなのか?」
「そんなの知らないわよ」
云い合う二人を放っておいて、竜司は扉の裏側を歩いてみた。普通に歩ける。扉があるべき場所を見てみるが、荒野の風景が続いているだけだ。
扉の正面に戻ると、エレベーターの箱の中を改めて見る。こちらからは奥行もしっかりある、ありきたりなエレベーターの箱だ。
まだ箱の中にいる二人に声を掛けた「おーい、大丈夫か?」
「大丈夫? 怪我はない?」譲が手を差し伸べた。美音はまだぺたんと座り込んだままだったのだ。譲の腕に捕まって、なんとか美音は立ち上がった。
「二人とも怪我とかはないようです」譲は竜司に答え、美音に云った。「僕らも出てみよう」
譲の腕に捕まったまま、美音もおっかなびっくりの態でエレベーターの外に出た。
「大丈夫?」と美音を気遣って優莉は振り向き、「ああっ!」と大声を上げた。
「消えてる!」
他の4人も振り向いた。さっきまで見えていたエレベーターの箱は、忽然と姿を失い、荒野が広がるばかりであった。いや、なぜか皆の荷物だけがそこに残されている。
「マジか……」
「ドラえもんのとは違うの? 帰り道が判らなくなっちゃった……」
悠と優莉が呆然と声を出す。
「さて、どーしたものかな」
あまり緊張感のない声で竜司が云った。
昨日まで、普通の高校生として普通に日々を送っていたはずだ。なんらかのフラグが立った覚えもない。
5人は思わず昨日までの生活を思い返していた。
2
「おーい、相模、お呼びだぞ」
同級生の山田が相模悠に声を掛けた。悠が教室の出入り口を見るとほっそりしたシルエットが立っていた。そこの空間だけ華やいで見えるのは気のせいか。その美貌を認めて、悠は声を掛けた。「あ、楓センパイ」
放課後の教室のざわめきがトーンを落とした。噂の美少女を見ようと、何人もの、特に男子生徒は身を乗り出した。
悠が楓の元に行くと、いわゆる「鈴の鳴るような声」で楓が云う。「何してるのかしら。始めるわよ」
「え、もう始めるんですか。すいません、今行きます」
自分の机に戻って通学用のリュックを手に取る。その周辺にいた級友の田中と林に「じゃあな、お先」と云い、少し離れたところにいる優莉に「じゃ、先に行ってるわ」と云うと、教室を出て行った。
「楓さん、相変わらずキレーだなー。ほとんどすっぴんなのになぁ」
「おれも同じ部に入ればよかったなー」
田中と林が口々に云うのを軽くにらみつけるのは、新堂優莉だった。もちろん、二人には気付かれないようにだったが、別の二人が気付いたようだった。
「あっれー、いいの、優莉? 相模くん、行っちゃったよ」そんな優莉に西風紗栄子が声を掛けた。
「同じ部なんだから一緒に行けばいいのに」東雲香菜が続けて云う。
「今日は書記の引き継ぎがあるんだって」
「えー、書記の引き継ぎなんて、たいしたことないでしょ」
「アヤシイ」
紗栄子の問いに、香菜が付け加える。
「なにが怪しいのよ。だから、部会の前にちゃっちゃと済ませちゃうらしいよ」
優莉の言葉を二人は聞いていないようだった。
「テキは手強いぞぉ。何しろ学園一の声も高いあの松濤院楓さんだもんなぁ。微笑まれたら女のあたしでもドキッとしちゃったよ」
「サエちゃんまで墜ちそうになるとは。美しくてスタイルもよくて品行方正で声もかわいくて。ウリちゃんも幼なじみだからって油断していると足下すくわれるわよ」
「ちょっと、二人して何の話をしてんのよ!」
「そういえば、もう一人の幼なじみは? 部長になったんでしょ」と紗栄子が辺りを見回した。
「あそこ」
優莉が指さした先には、ちょっとした人だかりがあった。全て男子学生で、みな何かしらのスポーツのユニホームを着ている。
「今日こそは野球部の練習に来てくれよ。あんたを連れて行かないとオレがセンパイにドヤされるんだよ」
「無理云うな。今日はうちの部会だから出られん。部長が出ないわけにはいかないだろう」
「じゃぁ、明日の練習試合には来てくれる……よな」
「待てい、明日はサッカー部の公式試合があるんだ。なぁ、助っ人頼んますよ。主力が怪我しちゃってさ」
「公式試合なら自分たちの実力だけでやれ!」野球部のユニホームを着た大橋が云うと、
「うるせー、そっちこそ練習試合なら鷹宮サンの力を借りる必要もねえだろ」とサッカー部の曾根崎が云い返す。
「あー、どっちにしろ明日は無理だ」
「じゃあ、日曜日のバスケ部の試合に――」
「いや、テニス部に力を貸してください!」
級友たちがどこか遠慮がちに、ごり押しできないでいるのは、竜司が1歳年上だからである。鷹宮竜司はさる事情で、この吉祥学園に入学した次の日から1年間休学していたのだ。本人は普通に同学年として接してくれとことあるごとに云っているが、だからといって忌憚なく話せるのは悠と優莉だけだった。二人とも竜司の幼馴染みだったからだ。
「あっちは相変わらずモテてるね」
「いや、あれはモテるとは云わないでしょ」
紗栄子の感想に優莉がツッコむ。
「背は高いしイケメンだし頭はいいし年上なのに遠慮させないように気を配っているし、こんなハイスペック高校生もなかなかいないわよねぇ」香菜が嘆息しながら云う。
「話したい女子はいっぱいいるのに、あのヤローどもが邪魔してるんだよなぁ」
「あら? サエちゃんもお話ししたかったの?」
「あたしゃ別に――今は彼氏がいたって遊ぶ暇ないだろうし」
「じゃ、私もそろそろ行くわ」優莉が立ち上がりながら云った。「あなたたちは部活は?」
「あー、あたしも行かないと」バレーボール部の紗栄子も立ち上がった。
「茶道部は今日はお休み」
「うー、あたしも休みたい」
「あなた、大会近いんでしょう」優莉が紗栄子の肩を叩いた。「期待のエースなんだから、がんばんなさいよ」
「へーい。じゃーね」
「サエちゃんもウリちゃんもがんばってねー」
「あ、待ってくれ優莉、おれも行くよ」竜司が自分のリュックを手に取って優莉の元にやってきた。
「あ、鷹宮くんもバイバイ」
「おう、じゃーな、東雲さん」
「話はついたの?」廊下を並んで歩きながら優莉が訊いた。
「日曜日にハンドボール部ってことになった」
「え、そんなのできるの?」
「やったことないから分からん。ま、なんとかなるだろ、練習試合だし」
「そう云って、なんとか以上のことをやっちゃうんだから、もはや異常よね」
「おい、そこは褒めるところだろ」
「褒めるところが多すぎて異常だって話」
「褒められてるのか貶されてるのか」
「さすが竜ちゃん、ってことよ」
廊下の一角でだべっていたらしい女子生徒の一群が、ピタッと口を閉じて一斉に優莉を見た、というより睨んだ。
だれ、あの女、鷹宮くんに図々しい――
ああ、確か幼馴染みって人――
「あちゃー、ごめん、昔のクセで」
「気にすんな。普段気を付けてくれてるのは分かってるから。クラスに馴染めたのもおまえと悠のおかげだし」
他のクラスメートたちが気後れする中、悠と優莉だけは同級生として気楽に接していた。それを見て他の級友たちも徐々に近づいて行けたのだ。
「私たちは特別何かしたわけじゃないし」
「でも同じクラスで助かったのは確かだ」
「いやあ、改めて云われると照れるなあ」
そんな優莉を見て、竜司は思わず笑みをこぼした。それを見た女子生徒の何人かが床にへたり込んだのは余談である。
3
アウトドア活動部
その扉にはそう書かれた紙が貼ってあった。どこの部室も似たような看板だ。
その扉をカラリと開けて竜司と優莉は部室に入った。その刹那、優莉は顔をしかめた。
「埃っぽーい。1回大掃除した方がいいわ」
「あ、先輩方、こんにちはー」
一学年下の藤咲美音が挨拶した。
「美音ちゃん、今日もかわいいわね」
「やーん、優莉センパイこそ相変わらずおウツクシイですー」
「何やってんだか。あ、部長、お疲れさまです」
「何云ってる。もう部長はおまえだろう」
周りを見渡してから優莉が云った。「あれ、悠たち、先に来てたんじゃないんですか?」
「ん、まだ――あ、来た」
優莉が振り返ると、悠と楓が入ってくるところだった。「あれ? どこでやってたの、引き継ぎ」
「食堂の隅っこで」
なんで、わざわざそんなところで、と優莉がツッコもうとしたが、
「じゃあ、部会を始めます」竜司の声で果たせなかった。
この9月に新執行部体制となり、部長の竜司が進行を務めた。副部長兼書記が悠、会計が優莉、庶務が1年生の美音と萩沢譲である。
部会自体は30分程度で終わったが、その後に備品チェックを行い、翌日の土曜日に執行部の5人で足りない備品の買い出しに行くことが決まって、この日は解散となった。
「優莉、悪いけど今日はまだこの後引き継ぎの続きがあるから」
家が隣同士の悠と優莉は、時間が合うと一緒に帰っていた。竜司も家は近いが、大体どこかのスポーツ系の部の練習に行っているので、帰る時間はなかなか一緒にならない。
「まだ、終わってなかったんだ」
ちなみに会計の引き継ぎは、すでに済ませてある。
「優莉ちゃん、ごめんね。悠くん、借りるわね」
「べ、別に私に断る必要はないですよ」
「じゃぁ、優莉、タラーズに寄ってかないか」竜司が声を掛ける。タラーズはよく行くカフェの名前だ。学園の最寄り駅である武鷹の駅前にある。
「あ、ボクも行きたいです!」と美音が手を挙げて云った。
「もちろん、いいぞ。譲はどうする?」
「すみません、今日は用があるので」
「了解。じゃあ、優莉、美音、行こうぜ。お先っす」
「おお。明日10時なー」と見送る悠が挨拶を返した。
「じゃぁ、私たちも行きましょうか」楓が悠に声を掛ける。
「え、ここでするんじゃないんですか」
「私もコーヒー飲みたくなったから、どこかで飲みながらしましょうよ」
微笑んで云う楓の顔を見て、思わず鼓動が早まる悠だった。
翌日。
新宿で集合した5人は、アウトドアショップで目的の物を買いそろえた。エレベーターホールで悠が自分と竜司が持つ紙袋をのぞき込みながら数え上げた。
「ドームテントにランタン、断熱シート、ペグ、ブルーシート、ガスが3つ、アルファ米が10食――他に買い忘れはないよな」
譲と美音はそれぞれ自分のクッカーと寝袋、断熱シートを買っていた。今までは部の備品を使っていたのだが、これを機に自分のものを買うことにしていたのだ。優莉だけが手ぶらである。
エレベーターがここ5階に到着すると、中は誰も乗っていなかった。
「貸し切り状態ですねー」
エレベーターの中では、オルゴール調の音楽が鳴っていた。
「何だっけ、この曲」
「『Over the Rainbow』でしょ」
悠の質問に優莉が答える。
「ああ、そっか」と悠が云ったその時――
エレベーターがガタガタと揺れ出し、その後浮遊感が彼らを捉えた。
「きゃあああ!」美音が悲鳴を上げる。
「うそっ、墜ちてんじゃ――」優莉が狼狽した声を上げる。
「ヤバい!」としか、悠も云えない。
再びエレベーターが震動し、5人とも床に転がった。
「うわっ!」たまらず譲も悲鳴を上げ、
「痛っ」さすがに竜司も冷静なままではいられなかった。
数瞬の後、震動が収まった。さっきまでが嘘のように、エレベーターの中が静寂に満ちる。
5人は倒れたまま、動かなかった。