さくら
彼は桜の雨の中で泣いていた。とても、とても悲しそうに。
進路について呼び出された中学校からのその帰り道。
「ねえ、君。こんなところでどうしたの?」
小さい背中に話しかけても反応はない。震えて泣くばかり。彼の隣にそっとしゃがみこみ、手元を覗き込んだ。彼の小さな手には透き通るような白の羽を持った小さな蝶がいた。
足元には花畑が広がったかのような虫かごがあった。彼がこの蝶のために作ったのだろう。
(育ててた蝶が死んじゃったのかな)
動くことのない綺麗な白い羽の上に、彼の涙が降る。まだ小学校低学年くらいだろうか、こんな小さい子が静かに泣く姿は、彼がどれだけこの蝶に愛情を持って育ててきたのかが分かる。
私まで悲しくなってしまうほどに。
「この子ね、」
隣から消え入るような高い声が聞こえた。
「この子、ずかんで見たときにほしいって思ったの。」
「虫の図鑑で見たの?」
「うん。だからね、お父さんとようちゅう探しに行ってやっと見つけたの。」
それでね、と話す彼の少し舌足らずな言葉に耳を傾ける。この蝶との思い出を必死に話す姿は蝶の死を整理して必死に受け止めようとするものだった。彼は蝶の事をまるで自分の大切な友達かのように話す。
私がこのくらいの年齢のとき、たった一匹の虫が死んだだけでこんなに悲しんだだろうか。彼の心は豊かで綺麗だ。
「今日ね、ぼくが起きたら、いつもはお花にとまってぱたぱたしてるのに、今日はね葉っぱの上で寝ててね、」
そこで言葉を切った彼の目からまた大粒の涙がこぼれる。止まる気配のない涙の背中をそっと撫でる。
そっかあ、と呟きながら撫でる私に時々、うん、と返してくれる。
(弟がいたらこんな感じなのかな)
そんな事を考えながら背中をさすっていると、だんだんと落ち着いてきた彼はゆっくりとこちらを覗き込んできた。
濡れた瞳はとても澄んでいてゆらゆらと揺らしながらも、じっ、と見つめてくる。その純粋さに吸い込まれそうになっていると彼はだんだんと頬を赤らめる。
どうしたのだろう、と疑問をこめて彼に微笑んでみると、一瞬目を見開いたかと思えばさっと顔を逸らされてしまった。
小さいとは言え立派な男の子。知らない女の人にわんわん泣いた姿を見られるのは恥ずかしいのだろう。
「あの、おねえちゃん、、だれ・・・?」
「私はらいかだよ。この近くに住んでるの。君は?」
「ぼ、ぼくは...っていいます!あそこの小学校に通ってます!」
これが、彼と私の出会いの話。
◇◇◇
今年も桜の季節がやってきた。
多くの自然に囲まれた私の地元には、県外からも多くの花見客がやってくる程に花見の名所がたくさんある。あちらこちらで咲いてる桜の中で地元の人しか知らない場所がある。
通学路から少し外れたところにある丘の上の桜。むしろ地元の人も桜がありすぎてそこの桜は当たり前の物としてこれといって注目されない。近くを通るときに「今年も咲いたな」ぐらいの横目で流し見る存在。
でも私にとって、私たちにとっては大事な桜。
「今年も春だねぇ」
「うん、そうだね。やっぱりここの桜がぼくは一番好きだな。」
「私も。ここが好き。落ち着くなあ」
隣にはまだあどけなさが残る少年。5年前ここで出会ったあの男の子。
あの日から桜が咲いてる季節は彼と過ごすようになった。あの日頬をほんのりと赤らめた彼に、明日もおねえちゃんに会える?と聞かれその可愛さに即答した。
「今はどの子を育ててるの?」
「今は綺麗な青い羽の子。上の方は普通の青なんだけど下の方は濃い青でそれが綺麗なんだ。」
「グラデーションになってるのね。見てみたいなあ。」
「まださなぎだからもう少ししたら見れると思う。」
楽しみね、と微笑むと彼は綺麗な瞳をよりいっそう輝かせて笑った。
彼は綺麗なものがとても好きらしい。蝶だけではなく花や時には生き物でもないハンカチなどの布製品だったり、はたまた栞。
そこらへんに落ちていそうな普通の石の時もあった。彼の目に綺麗と映った物をとにかく集めては私にも見せてくれる。
(普通の灰色の石を見せられた時は、反応に困ったなあ・・・)
彼が最近見つけた綺麗で気になっている物の話をとても楽しそうに話す。私は彼の笑顔を脳内に焼き付けるように見つめる。
桜が咲いてる時以外でも会おうと思えばいつでも会えるのだがお互いになんとなくこの時期だけと決めている。
桜が散ると、また来年、と1年を歩きはじめる。
今年で、最後。
今日はそう決めて彼と会っていた。
私は都内の大学へ進学する。本当は高校も向こうへ進学する予定だった。けれど、親や先生に引きとめられ向こうへの高校進学は諦めた。
親たちはずっと近くにいてほしいようだったが、私はそうされまいと地元の高校で勉強をし、全国模試でもトップクラスの成績を出し続けた。私のやる気と能力を見せ付けるために。
そうしてやっと夢への一歩を踏み出せたのだ。
ここの桜が散る頃、私はもうここにはいない。
会話が緩やかになってきた頃合を見て、私はゆっくりと言葉をつむぐ。
「...くん。あのね、私この桜が散る前にここから出て行くんだ。」
彼は何を言われたのか理解できないようで口をぽかんと開けたまま固まっている。
「都内の大学に進学するの。やっと夢に向けて歩き出せるんだ。だからね、来年からもう会えない。」
私の言っている事が理解できてきたのか、彼の顔がだんだん歪んでいく。
涙を浮かべ、唇を強く噛みきつく一文字に結んでいる。
両手をぐっと固く握り締めその強さで震える腕。少しうつむく彼の表情からは悲しみと少しの怒りも見えた気がした。
「だからね、最後またここで君と___」
言い終わる前に彼は走り出してしまった。涙に濡れた風が私の頬を撫でた。
次の日も、その次の日も桜の元へ行ったが彼に会える事はなかった。
そして出発する前日、最後に桜の姿と思い出を目に焼き付けておこうと思い足を運んだ。
もしかしたら会えるかも、と淡い期待を込めながら。
丘をゆっくり登っていくと小さな人影が見えた。その見慣れた後ろ姿はあの時と同じ様にうずくまっていた。
「来てくれたんだ」
そう声をかけゆっくりと振り返る彼の表情はとても綺麗で純粋な笑顔だった。
◇◇◇
「まもなく電車が発車します。駆け込み乗車はおやめください!駆け込み乗車はおやめください!」
毎日の聞きなれた喧騒。この生活が始まってもう10年が過ぎた。
大学進学のために都内に来たばかり頃は人混みや騒音、無駄な明るさに慣れなくて後悔ばかりしていた。
何度も地元のあの田舎に帰りたいと考えたけど、それはすぐに優しくて強い光で打ち消される。
(・・・でも僕は後悔はない)
7歳の時に実家の近所にある桜の木の下で彼女と出会った。僕は物心がついた時から綺麗な物を見つけては自分の手元に置いていた。
当時、図鑑で一目惚れした白い蝶を育てていた。子供ながらに丁寧に育ててやっとの思いで羽化した時ものすごく感動したのを今でも鮮明に覚えている。この綺麗な白は自分のものだと。
けれどその白は突然動かなくなってしまった。
僕はその時初めて”死”というのを理解した。
初めての感情に押しつぶされて泣いている時に僕は彼女と出会った。すぐに僕の中で彼女は特別になった。
そしてこの感情の解決方法も教えてくれた。
『じゃあさ、この桜の木の下をこの子の新しいおうちにしよう!ここなら桜があるから寂しくないし、君も会いに来れるし!』
それから命の灯火が消えたもの達は桜の下に埋めた。
駅の改札から出ると一瞬強い風が吹いた。思わず顔を背けた先に桜が芽吹いていた。
「そっか、もうそんな時期か・・・」
誰に向けたでもない言葉が風に流された時、ジャケットのポッケにあるスマホが震えた。こんな朝から誰だ、とのそりと取り出し画面を確認するとどうやら母親からのメッセージだった。
《今年ぐらい帰ってこないの?今年も丘の桜が咲いたわよ》
大学進学してから実家には帰っていないからか、毎年母からの生存確認がくる。今年はもう一言足されて。
僕は彼女の見えない姿を追いかけて地元を出た。桜の花びらの中で彼女が楽しそうに将来の夢を語る姿は幼いながらに憧れていた。
だから僕も彼女と同じ道を歩もうと思った。彼女の存在は遠すぎて見えないけれど。
《桜が散る前に帰ろうかな》
気まぐれに返事をする。
「元気にしてるだろうか・・・」
僕の独り言は春の匂いとともに空に舞い上がった。
それから数日後。僕は懐かしい空気に包まれていた。
ギリギリ駅舎と呼べる建物から一歩出ると強い風が桜の花びらを舞い上げながら目の前を通り抜けた。
「間に合ったかな?」
仕事に都合をつけて実家に帰ってきた。一応の約束は守れたようだった。甲斐甲斐しく迎えにきた母の車に乗って家に帰る。僕の記憶より少し色が褪せた家は10年ぶりの僕でも温かく迎え入れてくれる。
一旦荷物を置いて散歩に出る。久しぶりに色々なものに会いに行きたい。
春休み中の静かな小中学校をめぐり、部活動で少し騒がしい高校を訪れる。外で練習している吹奏楽部員の近くに懐かしい人影を見つけた。
「浅間先生!お久しぶりです。」
「お?・・・おおー!お前、...か?元気か!」
近づく僕に手を振るのは高3の時の担任。この高校に20年近く勤めている先生。高校卒業以来一度も顔を出した事はない生徒も覚えているような生徒想いで大好きだった先生。
まあ、僕の場合ちょっと特殊だった事もあるだろうけど。
顧問をしている吹奏楽部に休憩を言い渡して、昇降口近くにあるベンチに腰をかける。
「お前ちゃんとやれてるのか?」
「はい。ちゃんと夢、叶えましたよ。」
悪戯した子供のようににやりと言うと、先生は一瞬驚いた表情をしたがすぐに目を細めて嬉しそうに笑う。
「お前はちゃんと叶えられたんだな。お前が彼女の姿を追いかけると言い出した時にはどうなる事かと・・・」
そうか、そうか、と噛み締めるように優しく頷くその目にはうっすら涙を浮かべているように見える。
「駒柵も嬉しいだろうな。お前が自分の姿を追って夢を叶えてくれたのは・・・」
だんだんと語尾が弱まっていく姿に寂しさが強くなる。その姿に僕はそうですね、と曖昧な返事をした。
あの後、近況報告や生活指導などたわいもない話をして先生と別れた。自分の子のように心配してくれる先生には本当に感謝しかない。
懐かしさに浸りながら帰路につく途中、僕の人生で最も重要な場所に寄り道をする。というか、今回の帰省の目的でもある。
舗装された道から少し外れてあぜ道を歩く。古びた案山子を横目に足を進めあぜ道を少し抜けた所にある丘を登る。小さい頃はちょっとした山のように感じたけど今登るとあっという間に頂上に着く。
そこには一本の大きい桜の木が花びらの雨を降らしながら咲いていた。
―――ここは彼女と出会った場所。
桜の木に近づくとその影に隠れて立つ懐かしい後姿が見えた。
「らいか姉ちゃん、久しぶり」
少し寂しそうな背中に話しかけると彼女はゆっくりと振り向いた。
「久しぶりね。何年ぶりかしら。」
「15年ぶりだよ。」
「もうあれからそんなに経ってるのね・・・。」
「らいか姉ちゃんはあの頃と変わらないね。」
「君は、すごく、背が伸びて大人になったわね。」
柔らかく微笑む彼女は僕の記憶の中と同じまま。
僕と彼女の間を桜の花びらをまとった風が吹き抜ける。そこから透けて見える彼女はとても綺麗だった。
「これで最後にしよう?」
制服のスカートを押さえて困ったように泣いて笑いながらそう告げる彼女に、僕はあの時と同じ笑顔を作った。
「あらおかえり。桜見に行ってたの?」
帰宅しリビングに向かうと洗濯物を抱えた母に問われた。
なぜ分かったんだ、という顔をした僕を見て母は笑いながら自分の肩をトントンと叩く。
ふと僕の肩を見るとそこには数枚の桜の花びらが乗っかっていた。
なるほど、と花びらを丁寧に取っていると
「あなた駒柵さんとこの娘さんに懐いてたものねぇ~」
にやにやした母の声が聞こえた。
「桜はまだかってそわそわしてたものねぇ。・・・彼女もどこかで元気にしてるのかしら・・・」
消え入るように呟かれたその声に聞こえない振りをして2階の自室に向かう。
肩に乗っていた数枚の桜の花びらを眺める。それはとても、とても綺麗で・・・
僕は綺麗なものが好きだ。集めて自分の手元において置く。
でも命あるものの灯火が消えた時、それらを慰めるように桜の下に、僕の籠の中に埋めた。
寂しくならないように。
「また、桜の季節に会いに来るよ。」
桜の木の下ってわくわくしますよね。