叶えるは彗星
数日前からの人数不足に加えて、ちょうど先生も忙しい様子だったので、科学部は一旦休部扱いとなっている。
教室を出て下駄箱に着くと、階段下のコンクリートに黒く丸い斑紋が浮かんでいた。慌てて足をローファーに突っ込んで、どんよりした空を仰ぎ見る。頬に一滴――――雫が落ちる。
それを切っ掛けにしたように、ポツポツと雨脚が早まっていく。
斑紋は大量に増えては次々と塗り潰され、コンクリートは黒一色に染まる。
仕方なく持参した黄色の雨合羽を開けると、
「うわ・・・」
中から雨の湿った香りが滲み出て、顔を歪める。
内外で挟まれ、制服に匂いが付かないか心配だ・・・。
自転車に腰を引っ掛け、ザーザー降りしきるシャワーの中に漕ぎ出でる。
フードを被っているのに、顔面に雨が打ち付ける。
眼、鼻、口がびしょ濡れ。
視界を確保する構造を考えれば、仕方ないことかもしれないが・・・。
次からは、白色の大きい雨合羽を持ってこよう。
視界が狭まる中、辺りを見渡す。特に怪しい人影はいないが、それでも監視は続いているのだろうか。
三十分も経つと、目的地である一戸建ての住宅が目に映る。
外観からは、一世帯が暮らすに足る一般家屋だと分かる。
親子が拠点とする、安眠の地。普通なら夜には団欒が築かれ、生活の光が灯る場所。
「ただいま」
誰に向ける訳でもなく、儀礼的な挨拶を小さく呟く。
なにせ対象がいない。
現在この家の住人は私一人だけ。両親がどこにいて、何をしているのか。そんなことは私の与り知る所ではないし、同時に興味もなかった。
彼らは厄介者を体よく片付けて逃げ去った。
当然だ、現代において特殊能力が益になるはずがない。
理解はする、私のことはいい。・・・しかし彼女のことだけは許さない。
それは、私がまだ五歳の頃。
そして小美野家が、叶彗詩を引き取った際の話。
-----------------------------------
ガラ、ガラガラガラ――――――――――――――。
投影機が稼働を再開する。
「何してるの―――――――!?」
私の人生の記憶は、『とある女性』の悲鳴から始まりを告げる。
およそ世間一般では母親と呼ばれるであろう『女』の顔は、もはや記憶にボンヤリとした影を落とすだけだ。
当時の私には悲鳴の理由は皆目見当がつかず、「イタズラに気付かれたかな」と能天気に構えていた。
――――『女』が発見したのは、愛娘が燃え盛るガスコンロに手を突っ込んでいる姿だった。
理由は、お人形さんキットで料理をするリ〇ちゃんを見たから。真似をしてみようと、私でも出来ると思った。
それでいざコンロを回したら、青く煌めく火が現れた。
綺麗だから触ってみた。
すると、不思議と実態はなくて掴めなかった。
それが段々と楽しくなって、暫くの間炎をこねくり回していた。
一分も経った頃だろうか、洗濯物を片付けた『女』がそれを見た。娘の幼さゆえの、無知ゆえの狂気を――――見た。
今思えば、その悲鳴は至極当然のものだった。
因みに、火が熱いものだと知るのは、もう少し先の話になる。
呆然と突っ立っていると、『女』は修羅の容貌で私の手を引いた。
「分からない、痛い」と訴えても、手の力は緩められることなく、なおも増していく。
「どうしようどうしよう・・・あなた!!紫花が・・・紫花が火傷を!!!」
『男』が慌てて私の手を見ると、すぐに落ち着いた顔で『女』を諭す。
「落ち着いてご覧、火傷なんてどこにもないじゃないか」
「―――――うそ・・・」
『女』は目を限界まで見開いて、娘の手を凝視した。
「・・・違う!!違う、違うの。これを見て」
ヒステリックに叫び、『女』が指すのは焦げて黒ずんだ袖口だった。
・・・・・・・。
しばし沈黙。
「だって二年前に能力は消えた・・・だろう?」
「私を疑うの!?」
「そういう訳じゃ・・・・そう。見間違いの可能性もあるんじゃあないかな」
狂乱する『女』と宥める『男』。その両者の対応の差には、目撃の有無以外に理由があった。
「・・・あなたは否定派でしょう。そうだったら、どうするの」
『女』に背後から強く抱きしめられた感触は、今もリアルに残っている。
「・・・どうもしないさ。君こそ僕を疑うのかい」
「あの子の件だって勝手に決めたじゃない!紫花も勝手に連れて行くんでしょう!!!」
「娘だぞ、そんな訳ないだろう!!」
熱も、怒りも伝染し、飛び火する。
「・・私は反対だった!!どうして他人の子なんか・・・・・!!」
「妹の最後の願いだ、何が悪い!!?」
「治療費が馬鹿にならないでしょう!!無責任に感情任せで動かないでって言っているのよ!!」
「感情的なのは君だろうが―――!!」
嵐のような罵詈雑言だった。
話は脱線し、争点は繰り返され、論理は捻じ曲げられる。
哀れな子羊たる私は、両耳を押さえ、震えながら嵐が去るのを待ち続けた。
小美野紫花の叔母であり、小美野うたの母―――叶彗曲。
彼女は代々続く否定派の家と絶縁していた。
詳細は不明だが、ミュージシャンになる夢を『否定』されたことが原因のようだ。
記憶にないが、私も亡くなる前に幾度か会って、歌を聞かせてもらったらしい。
小美野うたが聞いている『zisser』は、叶彗曲と相方のコンビだった。
やがてプロデビューが間近に迫った時期に、なぜか『zisser』は解散される。
彼女らの曲を聴くと、懐かしい気持ちになるのは、もしかしたら―――。
-------------------------------------------
彩甲斐病院、とある一室。
光が水晶体を貫き、脳が穏やかに世界を認識していく。静かに体を起こし、フッと息を吐いた。
動揺はなかった、不思議な納得が身を包む。
何故義理の姉妹が、同時に里親に養われているのか。姉の家族は今どこで何をしているのか。それらの長年の疑問が、一気に音を立てて氷解する。
今の記録は私が二歳の頃のもの、きっと自我すら芽生えていなかっただろう。
見知らぬ男女が言い争って子供が蹲る光景、それが何を意味するのかは一瞬で理解できた。
「優しすぎだって・・・」
つまり紫花姉ぇの家族を壊したのは、私だった。
「ふふっ」
笑えて来る。
自我もない状況で他人を不幸に貶める邪悪さ、まるで死神、或いは貧乏神ではないか。
どうして言わないの、どうしてお前の所為だって怒らないの、どうしてお見舞いに来てくれるの、どうして隠してたの、どうして――――私を大事にしてくれるの。
どうしてどうしてどうしてどうしてどうして。
疑問だけが募り、身を焦がす程の激情に駆られる。
知らずの内に固まった両拳で、シーツに蜘蛛の巣状の皺が刻まれていく。
知らなかった、何も知らずに生きてきた。閉じられた世界で無知を理由に、姉と自分とを同等に考えていた。それが酷く汚らしいエゴに満ちた傲慢であることも知らずに。
奪った居場所で、我が物顔で威張る愚か者が小美野うただった。
「恨まれているのかなぁ、私を憎んでいるのかなぁ」
噛み締めた唇から目が覚める程赤い血が一滴流れ、シーツの皺に落ちる。
一滴―――二滴――――三滴。
巣は獲物の血に染まり、妖艶な美しさを醸し出しつつあった。
鏡に一度入った亀裂は消えない。例えその部分を切除したとしても、ひび割れはそこかしこで拡張を始めており、崩壊は秒読みの段階に到達した。
―――鏡を最後に砕く役目は、やはり彼女が一番相応しい。
一分――五秒――四秒




