過去既知
学生の一日は、朝のホームルームから始まる。
赤子の仕事が泣くことならば、学生の仕事は勉強をすることだ。
寝ぼけた頭を切り替える為の、一種の儀式と言い換えてもいいだろう。プライベートの私服を纏った自分から、学校の制服を纏った自分になる。
己が「かくあるべし」と定義する、学生としてのキャラクターを形成する時間だ。
「珍しい、詩風が遅刻か。小美野は何か知ってるか?」
「・・・・・」
予感があった。
あの断裂を経て、彼が何食わぬ顔で登校して来るはずがない。
底が見えない程に深い傷は、もはや一朝一夕で埋まる溝ではなかった。互いの胸中に、癒える見込みすらない傷跡が刻まれたはずだ。
せめてそう在って欲しい・・・と願うのは、愚かなことなのだろう。
「おい、小美野?」
理解出来ない人間は、いる。
むしろ世の中なんて無理解の人間だらけだ。
究極的には、自分が自分という殻を被っている以上、他人を完全に理解することは出来ない。
それでも妥協して、在るがままを受け入れて、そうやって生きて行く。
ではどうしても変えられない意志が在ったら?
自分という一己の人間が、存在の主柱にしている部分が汚されたなら・・・ぶつかる他あるまい。
「ねぇ・・紫花?」
「え――――?」
その・・呼び方は。
意識が急浮上、立ち上がって振り返る。
目に映る姿は正しく――――、
「どうしたの、先生呼んでるよー」
悪戯で、嗜虐的な笑みを携えた両国由夢だった。
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担任教師に「風邪じゃないですか」と、適当に返事をする。
ホームルームが終わり、一限目は数学。
教室を移動する彼女を、慌てて追いかける。
人が溢れてきた廊下を駆け、目当ての少女の肩を叩いて、
「・・・な、名前!なんで」
息も絶え絶えな私に対して、両国由夢は至極冷静に応じる。
「もしかして嫌だった?友達ならいいのかなって思ったんだけど」
・・・違和感がドクドクと脈動して、何かが違うと告げる。
氏名、愛称。いずれも所詮は記号であるが、しかし名は体を表す。呼び方一つを取っても、それまで培った関係が滲み出るものだ。
それが―――ない。
それは関係の浅さ、短さを起因とするものではない。
なぜなら、話しても話しても、両国由夢という少女の本質が見えてこないから。
知ろうと努力しても、霞を掴むように擦り抜ける。
それこそ鏡を見て、悪性的な自分に話しかけている気さえしてくる。
言霊は空虚さに満ちているのに、馴れ馴れしく心に寄り沿ってくる違和感を何と形容すべきか。
「ああ、幼馴染の特権・・・とか?」
ショックを受け、酷く悲し気な顔を作る。
「私は駄目、なんだ」
その不安に押し潰されそうな、庇護欲を掻き立てる表情を見て心を痛めない人がいるのだろうか。
悔恨の念が沸々と湧き立ち、傷だらけの心をさらにズタズタに切り裂く。
「―――あ、ごめん。全然大丈夫、ただビックリして」
「本当?あー良かった、なら私のことも由夢って呼んでいいよー」
彼女は表情をすぐさま反転、晴れ渡る笑顔を浮かべる。
感情の起伏が激しいと呼ぶべきか・・・感情が軽いと呼ぶべきか。
会話と行動の節々に、作為的なものを感じるのは気のせいだろうか。
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驚くほどに時間が早く流れ、あっという間に放課後になってしまった。
学校ってこんなに退屈な場所だったっけ?
生活から彩りが抜け落ちて、世界が味気ない灰色に塗り潰される。
「隣にいる誰か」の存在は斯くも大きいものなのか。
・・・花染千雅子も、こんな気持ちだったのだろうか。
話しかけてくれる人がいても、どこか信用できない。
自分が悪いのか、相手が悪いのか、どうやって判断するのが正しいのか自問自答する毎日。誰にも相談できず、鬱屈とした自己否定だけが積み重なっていく無限螺旋。
沼の如く深く、もがけばもがく程に体が囚われていく。やがて汚らしい液体が口から侵入して、体内の至る所までを犯していくような感覚。
嗚呼―――溺れる、心が重い。
この問題を一人で抱えるには大きすぎて、いずれ訪れる決壊を待つばかり。
・・・花染さんに、何と謝罪すればいいのだろう。
・・・どうすれば、愚かな私は許されるのだろう。
今になって、一ヶ月も経ってようやく罪に気が付いた。
私は純粋な少女の心を弄び、粉々に粉砕した。
ならばこの状況は、自分可愛さに他者を蔑ろにした罰なのでしょうか。
いっその事、心なんてなければ間違いを犯さなくて済むのに。
もう自分を救いません、他人の為だけに生きます。
だから神様・・・どうか彼女を幸せにしてください。
どうしようもなく、心が焼ける程に己が憎かった。
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―――遥か遠い、何処か。
劇場は静寂に包まれ、上映の時を静かに待ち続ける。
普段五月蠅い投影機の音もなく、現在はしばしの休止中だと伺える。
「罪の自覚とは、得てして後からやって来るものだよね。
それは即ち成長の証なんだ。
罪を知り、恥を知り、己を知れば、その分だけ他者に優しくなれるんだよ。
ああ、彼女もそう在れればいいね。
どうかな、君もそう思うかい?」
しかし投げかけられた問いは空気を振動させず、対象の人物は見向きもしない。
「――――ん、まだ聞こえないか。
一寸先は闇、五里霧中、展望のない道行は旅人の足を曇らせるよ。
もしfilmを支配したとして、状況は改善出来るかな?
世界には過去も未来も存在しない、確かにあるのは今という一瞬だけなのに。
そこら辺を勘違いしている連中には、そろそろ誅を下さないと・・・ね。
終わった過去は幻の残滓に過ぎない。
始まる未来は揺蕩う可能性に過ぎない。
過ぎ去った事象を既知の事実にする―――是即ち過去既知なり。
未来予知と過去既知。
世界を変えられるのは、詩風愛汰だけじゃないんだよ。
ね、過去からの干渉者さん?
―――ああもどかしい・・・早く僕のお喋りに付き合ってくれないかなァ」
十万文字行きました!
感謝です、ありがとうございます。
稚作は、「過去からの干渉者」と「未来からの干渉者」のfilm争奪戦を原点として書き始めました。
即ち、過去既知vs未来予知。
未来予知があるなら、その反対もあるだろうと考えた結果の「film」、お楽しみいただければ幸いです。




