青の世界
【詩風愛汰side】
ここは停留所近くの小さな公園。
和月凪柊に腕を引かれるがまま、この公園へ連れてこられた。
それにしても殺風景な公園。砂場とブランコと、変な動物の像があるだけ。
こんな面白みのない公園でも、昼時には賑わうものなのか。
かくして彼に詰め寄られる。
「何なんだよ、アレ」
それは、つい10分前のこと。
時間の割に、余りにも濃度が濃かった経験――。
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時を遡り、バス内。
隣では和月凪柊が窓枠に片手を付いて、うたた寝している。
・・それにしても、あの子は小美野紫花に良く似ていた。まぁ姉妹なら当然か。
あの約束、叶うだろうか。
左耳に装着したイヤホンからは、爽やかな曲が流れている。
popだが機械音も混ざった、不思議な曲調。
病室で聞いた曲と同様に、どうにもクセになる。スルメ曲と呼ばれる類のソレである。
イヤホンを耳にした瞬間に、ぐっと世界が広がる感覚。
目を閉じれば、音が体に染み込んでいく。
人生で始めてイヤホンをつけた時の経験を覚えているだろうか。
僕は鳥肌が止まらなかった。
それはライブ会場の特等席で、音楽を独り占めしているよう。この感覚は、誰もが一度は味わったことがあるだろう。
――それを今、感じる。
まるで生まれ変わったような、何でも出来る全能感。
体の中では、血が喝采を上げている。血液の循環が、四肢で感じられた。
ゆっくりと瞼を閉じれば、麗らかな水がイメージできる。
・・曲はサビに突入、アップテンポに。
歌声に合わせて、周囲が水に包まれる。ザザ・・ザザ、波の音が近い。
感傷的な気分で、車窓から夜空を見上げる。
この曲名は――。
「wave gap」
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刹那――視界が黒に染まった。
加えて何かが、体の隅々までを蹂躙するゾクゾクした感覚。
「お、ぇ・・!?」
エレベーターが上がるような自然な勢いで胃酸が喉を通過、慌てて口を押さえる。
暗転した景色は、強引な光に引き裂かれ――。
切れかけの電球のように、視界がチカチカ明滅する。
溜らずに瞳を閉じて外部情報を遮断、自分の世界に閉じこもる。
そこでようやく違和感に気が付いた。浮遊感、否・・・これは落下感。
世界との接点を失った体は、あまりに頼りない。
轟々と、風の音がした。
慌てて目を開けるとそこは・・。
「どこ、ここ・・」
眼下に広がるは水の世界。一面が、透き通った水で埋め尽くされている。
ここは海の真っ只中だろうか。蒼い海と空、白い雲の狭間を漂う。
こんな経験は他にない。
飛行機では鋼の機体が障害となり、窓枠から眺めることしか出来ない不可侵の領域。
スカイダイビングでもトレーナーが付き、体の動きを阻害する機材やパラシュートが付属する。
それをたった一人で独占する贅沢。
―――比類なき解放感だった。
言葉が出ない。
全身が空と一体化したような感覚に、心が浄化される。
どこを見ても、都市も人気もない空間。
現代社会の生活において、完全に人と隔絶されることは、まずないだろう。
携帯での繋がりは勿論、地球を支配する人間は、およそ世界中に展開しているはず。
それがない。
どこまでも広がる水を、 見下ろしている。美しさによる驚愕から、現実に回帰する。
遥か彼方では、弓形の地平線が見える程の高度。
・・・そこから落ちればどうなるのか。
「・・高すぎだって!」
生を掴み取るべく手足をバタつかせて空を泳ぐ。体には余計な力が入り、そのフォームは滅茶苦茶である。空に溺れ、海に叩きつけられるのは時間の問題だった。
徐々に、視界を占める水面が減っていく。
水
水
水
水
水
水
水だけ。
「なんで・・!?」
戻れ戻れ戻れ戻れ戻れ帰れ帰れ帰れ帰れ。
夢なら覚めて、あのバスに戻って―――。
「は?」
落下地点の付近に・・あれは少女?
髪は白、いっそ病的な肌の白さ。その姿は、完全に世界と同調していた。
ここまで近づかなければ、その存在に気付くことも出来なかった。
今の状況も忘れて見惚れた。
・・・死の恐怖も何処かへ。
綺麗だった。それは今まで見たこともない美しさ。
震える。
体の芯から絶えることなく、何かが溢れ出す。
視線を感じ取ったのか、少女と目が合う。
蒼い瞳が、詩風愛汰を映す。
海のように澄み切って、空のように大きい瞳が光る。
それは宝石のような雫が――。
・・泣いている?
(水が)
桜色の、小さな唇が歌うように紡ぐ。
(近い)
風が強く、当然聞こえるはずのない言葉。
(もう、ぶつかる)
柑橘系の痺れる程甘いそれが、脳内に響く。
(今右手が、水に触れて)
『ヒミツ』
パニックはいつの間にか消えていた。
意識は正しく、能力を行使する。
座標はバス、和月凪柊の隣。
再び血がごちゃ混ぜにされる感覚がして―――。
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青の世界から詩風愛汰の姿は消え去った。
ただ手が触れた水面に波紋を残して・・。
その小さな波紋は、次第に大きく広がっていく。波紋はやがて少女の足元へ届き、消える。
そこには、ただ穏やかな水面が広がるだけ。
しかし消えた波紋は彼女の周囲に限る。
自分には触れず世界へと広がっていく波紋を、少女は嬉しそうに見つめていた。




