エピローグ ~旅立ち~
「つ、疲れた……」
よくよく考えれば分かることだったのだ。
美威と飛那姫では明らかに体力に差がある。いや、ありすぎる。
逆の立場ならともかく、美威が飛那姫を追いかけて容易に追いつけるわけがなかったのだ。
峠にさしかかったところで、美威はたまらずにその場にへたりこんだ。
琴が持たせてくれた荷物の重みも手伝って、足ががくがくだ。
いさんで飛びだしたのがいけなかったとは思わないが、自分にしてはペースが速かったかもしれない。
にもかかわらず、もう日が暮れかけているのが情けないが。
(うぅ……今日中にこの山越えるつもりだったのにい……)
だらんと肩を落として、仕方なくまた歩き出す。
とぼとぼと坂を上りきって頂上付近に近づくと、目に飛び込んできたのは極彩色の赤をたたえた夕焼けだった。
「うわあー……っ」
これは本当にすごい、の一言につきる。美威はしばしその光景に見とれた。
太陽までもが春を謳歌するかのような、強烈な夕焼けだった。こんなに美しい赤を見るのは生まれて初めてだ。
そして強烈な赤を背負って、こちらに向かってくる動く影が見えたのはその時だった。
「?」
山中で得体の知れない生き物に遭遇したら警戒して当然なのだが、美威はその時ぼうっとそれが近づいてくるのを見ているだけだった。
危険を感じたのは実際に、それが襲いかかってきてからのことだ。
「えええっ!?」
飛びかかってきた生き物を、とっさに横に転んでかわすと美威はすばやく起き上がって振り返った。
熱を感じない目と視線が合って、背筋がぞっとする。
『グルルル……』
低く唸るその姿は何度か見たことがある。村近くにもよく出没していた、骸系異形の一種だ。
平たく言えば犬のゾンビである。強い異形ではないが、今の美威には攻撃はおろか、防御の方法すら思い浮かばない相手だ。
「う、うそおおっ……!」
半分くさり落ちた頭蓋からぶら下がる眼球に、再び背筋を寒気が襲った。
どうやったらこんなものが生きていられるのだろう。
(いや、そもそも生きてないわね……)
自分で突っ込みながら、ともかく逃げようと美威は背中を向けて走り出した。
だがよほど慌てていたのか、荷物の重さも手伝って、走り出してすぐに木の根に足をすくわてしまった。見事に転倒して、己の体力のなさを悔いる。
当然、異形がこの隙を見逃すはずがない。
「やあっ! いやだああっ!!」
躍りかかる異形に、嫌悪と恐怖が入り交じって美威は叫んだ。
頭を抱えたまま地面に突っ伏した美威の耳に、風を切る音が聞こえた気がした。
『ギャンッ!』
「……?!」
上から噛みつくでもなく悲鳴を上げた異形が、どさりと地面に落ちる。その音で美威はこわごわと顔を上げた。
「あ……」
まだひくひくと痙攣を起こしているゾンビの心臓付近を、一本の長剣が貫いている。その見事な剣には見覚えがあった。
「……やっと来たか」
頭の上からそんな声が降ってきたかと思うと、数枚の葉っぱとともに飛那姫がすとん、と降りてきた。
「ひなちゃん……!」
「追って来るんじゃないかと思って、ここで待っててやったんだよ」
親切だろ? 私って、と言いながら飛那姫は異形に刺さった剣を一気に引き抜いた。その体は腐臭とともに灰色の煙を上げて崩れ消えていく。
思わず口元を覆った美威とは対照的に、何ら気にする風でもない飛那姫は剣を空中に消し去った。
「じゃ、じゃあ……ひなちゃん、私も……?」
待っていてくれたということは、一緒に行ってもいいと言うことなのだろうか。
「帰れ」
わくわくして尋ねた美威は、思いきりこけた。
「ど、どうしてえー!!?」
「危ねえからに決まってんだろ! 大体何で私がお前みたいな足手まといを連れて歩かにゃあならんのだ?!」
「そんな言い方ひどい! 連れてってくれてもいいじゃない! もう決めたんだからー!」
「私の意見も聞かずに決めるか普通?!」
ぎゃんぎゃんと言い合って、美威はそれでも引き下がらなかった。
一緒に行くと決めたのだ。
逃げるのではなく、始めて自分が前向きに決意したことだ。飛那姫にとってはただのわがままかもしれないが、ここで簡単に引き返すわけにはいかない。
「駄目って言っても行くからね!」
「お前なあ……!」
「お願い! 私一生懸命足手まといにならないように頑張るから!」
「たった今、ここで異形に襲われてたのは誰だ?」
「う、ううっ……いや、だからそれは、これからがんばるってコトで」
頑として帰ろうとしない美威に、飛那姫は諦めとともに肩を落とした。
「……邪魔になったらおいてくぞ」
「うん!」
「それと、魔法ちゃんと修行しろよ。少しは使えるようになりそうだ」
「うん?」
「魔法だよ、ま・ほ・う! お前ホンットに何にも知らないんだな。感心するよ」
「……ありがとう」
誉められたのかけなされたのか分からないので、美威はとりあえずお礼を口にしてみる。当然のごとく、飛那姫からは盛大なため息が返されたが。
「まあ、いい。おいおい教えてやるよ」
「うん!!」
飛那姫は本当に嬉しそうに応える美威の顔から、複雑な気分で目をそらした。
まあ良いか、なんて思ってしまったのは、どうしてだろう。自分がすごく穏やかな気持ちでいることも、にわかには信じられなかった。
(私らしくないな……)
そう思いながらも、心のどこかでほっとしている自分がいた。
飛那姫は一人苦笑いで頭をかいた。ここで待っていたことが、既に物語ってしまっているではないか。
「……呪われた子なんかじゃないよ」
「……え?」
呟かれた言葉にはっとして、美威は飛那姫の顔を見返した。
「きっと、美威の村には魔法士とか、魔術士がいなかったんだろう? まあ、農村では魔法なんか見たことないのが普通だしさ。気味悪がられても無理ないよ」
「……うん」
事実として、飛那姫はそう伝えてくれる。
もしかしてこれは、遠回しになぐさめてくれているのだろうか。
「剣も魔法も、良い悪いは本人の使い方次第なんだよ、ようするに。そう思うだろ?」
「うん、そうだね……」
それは、今回のことでよく分かった。
目から鱗が落ちた気分になれたのも、飛那姫のおかげだと思っている。
もう、これを人を傷つけるためだけの力だとは思わない。
「ひなちゃんの剣は、誰に習ったの?」
「……先生だよ」
その問いに、飛那姫は寂しそうに笑って答えた。
「剣だけじゃない。魔法も、勉強も、他にも数え切れないほどいろんな事を教えてもらった」
「そう、なの……」
ああ、とふいに美威は分かってしまった。
この人はきっと、失いすぎたのだ。
「ひなちゃん、ひなちゃんの好きな人達って今……」
「死んだよ。みんな」
予想通りの答えだった。
他にも聞きたいことはたくさんあるはずなのに、言葉が続かない。
「……じゃあ、やっぱり辛かったよね」
それだけ言うのが精一杯だった。
「そう、だな」
辛かった時のことを思い出してか、ちょっとうつむいてから、飛那姫は再び顔を上げた。
「全部終わった時、自分はこのまま死ぬだろうと思ってた。それでかまわないと思ってたんだ……」
「ひなちゃん……」
「だけどさ、やっぱり……生きてみるのも悪くないよな、きっと……」
(あ……)
笑った。
飛那姫がこんなに穏やかに微笑むのを、初めて見た気がした。
美威は何だかくすぐったいような嬉しさで胸が一杯になって、自分も心の底から笑って返すことが出来た。
「行こう、日が暮れる前にちょっとでも進んどかないと」
「うん、行こう、ひなちゃん!」
「……飛那姫だ」
「え?」
「私の名前、ひなじゃなくて、ひなきなんだ」
「そうなの? なんで今まで……じゃあ、名字は?」
ちゃんと最初から教えてくれればいいものを、どうして黙っていたのか。
「姓は……紗里真だ。紗里真、飛那姫。覚えておいてくれるだけでいい。そして、誰にも言わないで欲しい」
「紗里真……って、あの、大国の名前だよね?『鮮血の31日』に滅びた」
その言葉にピクリと肩をふるわせた飛那姫は、そのまま黙ってしまった。
聞いてはいけないことを聞いてしまったような気がする。考えを巡らそうとして、美威はふと気がついた。
国の名前を姓に持つことができるのは王族だけだ。その姓を持っているということは、飛那姫は王族の血を引いている……?
「あ……」
滅びた国の、もう還らない大切な人達。
「じゃあ……ひなちゃんは……」
つながった答えはあまりにも悲しくて、尋ねる言葉を途中で詰まらせた。
たった1日で、理不尽に奪われた国の話を思い出す。
それがもし本当なら、目の前の自分と変わらない年の子が突如として失ったものは、どれほどのものだったろうか。
その様子を見ていた飛那姫は、右手をあげてポンポン、と不器用に美威の頭に手のひらを弾ませた。
「馬鹿げた話だろ。信じるのか?」
「だって……すごく分かっちゃったから、信じないわけ、ないよ……」
「そっか……」
美威より少しだけ背の高い飛那姫が、精一杯大人の顔をして、呟く。
2人の間に少しの沈黙の時間が流れる。先に沈黙を破ったのは、飛那姫の呆れたような声だった。
「……どうでもいいけど、お前その荷物何? 何でそんなにでかいの?」
「えっ? あ、これは……琴おばさんと正おじさんが、色々詰め込んでくれたから……」
すごく暗い気持ちになりかけていた美威も、一気に現実に引き戻されて顔を上げる。
「色々って……そんな重いもん背負ってたら進まないだろが」
「それ、出てきてから気が付いた」
馬鹿だな、とぶつぶつ言いながら、飛那姫は美威の背中から荷物をひったくるように取り上げた。
自らの軽すぎる荷物を美威に放り投げてよこすと、自分は重い方を背負って歩き出す。
言葉も態度も悪いけど、この人は優しいと、美威はあらためて思う。
「ほら行くぞ」
「あ」
ありがとう、と顔をあげて美威の視線は前方に釘付けになった。
あまりの見事さに、目を留めずにいられなかったのだ。
「ひなちゃん見て見てっ、すごいきれい!」
赤く空を染め上げていた太陽は、山の向こうに落ちようとしていた。
積もった雪にオレンジがかった光が反射して、まともに直視できないほどまぶしい。
これから月が出て、朝にはまた太陽が昇るのだ。
その美しい色を見送りながら、美威はこれから先もこの夕焼けのように素晴らしいものを見ていくことが出来るのだと、確信にも近い気持ちを抱いて、わくわくするのを押さえることが出来なかった。
第一章完結です。
続く第二章は、二人がもうちょっと大人になってからのお話。




