葛藤
一軒の家の角を曲がろうとして、どしんと何かにぶつかった。
跳ね返った拍子に雪の上に情けないほど尻餅をついて、美威はうめき声を上げる。
「みいじゃないかい!」
降ってきた声の主に助け起こされて、美威は琴の顔を安堵とともに見上げた。
「なんで外に……家でおとなしくしてろって言っただろう?!」
「琴おばさん! ひなちゃんが……!」
その一言でさっと琴の表情が変わった。
「ひなが、何だって?」
「行っちゃった……氷の化け物を倒すって……」
「何だってえ?!」
琴が地響きに負けないくらいの声を張り上げたとき、すぐ近くから悲鳴があがった。
「うわあぁぁぁぁぁぁっ!!」
「「!」」
弾かれたように、二人は声のした方に首を回した。数軒先の屋根の向こうに、何か巨大な手のようなものに捕まえられた一人の男の姿があった。
蒼白の表情で、必死に叫んで助けを求めている。
琴と美威が呆然とする中、男の体は更なる高さまで持ち上げられた。
美威は今までに感じたことのない、禍々しい気配を感じた。
姿の全体を見なくても分かる。間違いない、あそこにいるのが氷の異形なのだ。
「助けてくれえーっ!!」
必死に叫ぶ男を助ける術は、二人にはなかった。
冷えた汗を流しながら琴は考えた。今自分に出来るのは、手をつないでいる先の小さな子供一人を逃がすことだけだ。
辛そうに男から顔を背け、美威の手を引っ張って、走りだそうとする。
「待っておばさん、あの人……!」
「無理だよ美威! あたし達にはどうすることもできないんだ!」
「……そんなっ」
その言葉にかすかな抵抗を覚えて、美威は踏みとどまった。
(どうすることも、できない……?!)
本当にどうすることもできないのだろうか。
力は、あるのに。
「美威! 何してるんだい! 走るんだよ!!」
琴の声に我に返って、美威は戸惑った。
自分は今、何を考えていたのだろう?
「ひいぃっ!!」
すでに男をつかまえる腕からその上半身部分までが、屋根の上にはっきりと見て取れた。
それは巨大な氷の塊だった。
おそらくはその表現が一番正しいのだろう。体の全てが氷の結晶で構成されていて、人に似た形をとっている。
全身からは静かに黒い冷気が放たれていた。
顔と思われる、胴体から隆起した部分に、横に細い冷酷な輝きの赤い目が二つ、見て取れる。
それが一瞬光ったような気がして、男の体が大きく振り上げられた。
あのまま、地面に叩きつけるつもりなのか。
(殺されちゃう!)
「だめーっ!!」
何もしないまま、目の前で命が奪われることだけは耐えられなかった。
自分がどうにか出来るわけがない、恐ろしい化け物だと、分かってはいた。
それでもなんとかしたい、助けたい、その気持ちが勝った。ただ反射的に、体が動いてしまっただけなのかもしれない。
とにかく美威は琴の手を振りほどいて、そちらへ走り出した。
その時。
ぐらり、と氷の巨体が横に揺らぐのを美威は見た。
(……えっ?!)
顔を歪めたような、しかしおそらく表情などないだろうその冷たい目をさらに細めた異形は、体勢を立て直しながら背後を振り返ろうとした。
だが、首を回した瞬間、弾けるようにして目の前に飛びだしてきた塊に一閃の攻撃を受け、再び大きくよろめいた。
巨体は後ろの民家を押しつぶしながら倒れ込んで、雪煙を上げる。
しかしすぐにそこから頭を起こすと、異形は殺気のこもった目を前方の雪の上に向けた。
白い地面の上に立つ、一つの小さな影。
その姿に、美威は息を飲んだ。
「ひ……」
(ひなちゃん?!)




