プロローグ ~冬のはじまり~
重い。
自分の体だというのに、どうしてこれほどまでに言うことを聞かないのか。
たかだか30kgそこそこの体重だ。それが今はとてつもなく大きい、鉛の塊の様に重く感じる。
自分の通ってきた道に点々と残る、血の足跡を振り返って飛那姫は顔を歪めた。
雪の白さに映えて、まるで地獄へと続く道標のようだ。
「痛……い、な……」
いっそ早く楽になってしまえばいいのに。
死など怖くはない。もう、すべき事はすべて終わったのだから。
呼吸をすることさえ苦しいのは、折れた肋骨が肺を圧迫しているせいだろう。
吐き出す白い息が見えなくなるのも、じきに違いない。
この山中で倒れて、異形達の餌食になるのも一興だ。奴らを多く滅してきた自分には、似合いの死に方かもしれない。
今更、そのことに罪悪感などないけれど。
「終わったんだ……」
声に出して呟いてみて、飛那姫はふと、自分がもうずっと歩き続けている事に気が付いた。
何処へ行こうというのか。帰るべき場所はおろか、家族さえとうに失いというのに。
今の自分に、何がある。
一体。
私は何に向かって、進んでいる?
(この先に何があるというんだ……)
奇妙な脱力感と無力感にとらわれながら、飛那姫は冷たい地面の上を歩き続けた。
あるいは、自らも気付かないうちに助けを求めていたのかもしれない。
この苦しみから救ってくれる「誰か」を求めて。
(父様、母様、兄様……師匠、みんな。全部、終わりました……)
「すぐに、お側に……」
自分の血と、そうでない血が混ざって全身が赤に染まっている。この上着ももとは白であったはずなのに、今ではどす黒い赤色だ。
ふふ、と飛那姫は口元に皮肉な笑いを浮かべた。醜い己の姿には嘲りしか浮かばない。
(まるで子鬼だな……この姿は)
そこらに池か湖でもあったら、映してみたいものだ。
復讐を終えた人間は鬼に変わるという、あの言い伝えが本当かどうか確かめてみるのもいいだろう。
もっとも、この寒さでは水など凍りついてしまっているだろうが。
「……?」
ふと、感覚の端に捉えたかすかな黒い気配に、飛那姫は顔を上げた。
(なんだ……?)
腹の底に重くのしかかってくるような、邪悪な波動を持つものが、近くに潜んでいる。
今ここで異形の化け物が現れようと現れまいとどうでも良いと思えたが、そう思いながらも飛那姫は首を回してみた。
道から少しはずれた竹藪の中にそれはいた。
氷の塊。
どす黒い冷気を吐き出しながら、冬眠中の熊のように。
顔を出し始めた太陽の、東からの光を避けるようにうずくまって。
(氷の異形……か。冬には似合いだ)
その体の全体を見ることは出来ないが、かなりの大きさであることは確かだった。
「冬の冷気を食ってやがるのか……睡眠中にエネルギーをため込むつもりだな」
このまま放置しておいたら、やがてこの異形は山を下りて人里に近づくだろう。
必ず死者が出る。
「……関係ない、か」
この汚れた手で人助けなんて、おこがましい。
それにどのみち、本体がこんな分厚い氷に阻まれていては、手の出しようがない。
なんの感情も浮かばないまま、飛那姫は異形を見つめていた。
(もう私には、こいつを倒すだけの力も残されていない……)
「……ここであったのも何かの縁かもな……ひょっとして私は、お前に殺されるのか?」
氷の異形はその問いには答えずに、静かに眠り続けていた。
この分だと、目覚めるにはまだかかりそうである。
それまでに、自分はきっと生きてはいないだろう。
まるで他人事のようにそう思いながら、飛那姫は竹藪を後にした。
没落の王女は前章よりも先に、この第1章が書かれました。
飛那姫と相棒の、出会いの記録になっています。