潜入
東岩から綺羅の国までは、商人用の沿道を通れば一本道だった。
私は道中に通りがかった馬車の荷台に潜り込んで、綺羅の国に入った。
元々は父様の統治する、紗里真という名だった大国。
この地には2年ぶりに足を踏み入れたことになる。
たどり着いた綺羅の国は、城下門近くから重苦しい雰囲気を漂わせていた。
城下町には活気と呼べるようなものが感じられない。
市場に並ぶ品物は少なく、それを手に取る人もまばらだった。
すれ違う人達は、どことなくすさんだ顔つきをしている。綺麗な服を着た人も、少しのお洒落をしている人も皆無だ。
大国は、その日を生きていくのに必死な貧民の国になり果てていた。
ここにたどり着く前までは、どんな町の姿を見ても失望しないと思っていた。
大国を手にした綺羅の王の噂は聞いていたし、父様の統治しない国に何かを期待する気すら起きなかったからだ。
でも実際に目にしてみると、心は重く沈んだ。
自分がいた頃の面影すらない、さびれた町を見るのは辛かった。
そこに住む人は変わっていないはずなのに、あの頃のように幸せそうな顔をした人を探すのが難しかった。
どこを見回しても、やるせなさばかりが募る。
父様がこの町を見たらなんと言うだろう……
どうしようもなく腐敗してしまった、この町の現状を見たら。
(……民の暮らしが、ここまでひどくなっているとは……)
私はやりきれなさを押し殺しながら、城下町の道々を進んだ。
目立つ明るい茶の髪を隠すのに、上着のフードは目深にかぶって歩いた。
見回りの兵士があちこちにいたが、見とがめられることはなかった。
城下町の地理ならまだ覚えている。大通りに出ると、道の向こうに懐かしい城が見えた。
外観があまり手入れされていないように見えたが、同じような姿でそこにあった。
懐かしくて泣きたくなるのと同時に、恐ろしさがこみ上げてくる。
城に近づけば近づくほど、逃げ出したくなる自分がいた。
2年前にここで、何があったのか、記憶の中の映像が薄れることはない。今も目を閉じれば瞼の裏に、たくさんの死体の山が見える。
(行くんだ……その為に、帰ってきたんだから)
おそらくは玉座の間にいるだろう、綺羅の斉画王。
そして、兄様やその師の命を奪った大臣、ビヴォルザーク。
私の復讐は、あの二人の首を獲るだけでいい。
それ以外は、手にかけたくない。
城門の前には堀になった水路がある。
遠目から見た跳ね橋は上げられたままで、見張りの兵の数も多かった。
正面からの侵入は難しいだろう。
私はかつて自分が逃げ出した、城の背後を取り囲む林側に回り込むことにした。
林に隠れたまま城壁の上を見上げたら、ふいに、逃げてきた時のことを鮮明に思い出してしまった。
ああ、この場所だった。
あの古井戸があって、私は城に背を向けて逃げた。
何も出来ずに、ただ逃げたんだ。
「……っ!」
気持ち悪さのあまり、吐き戻しそうになって私は口元をおおった。
喉を焦がすような酸っぱさがせり上がってきて、泣きたくなる。
何を思いだしても、これから自分がしようとしていることを考えても、胸が悪くなるようなことばかりだった。
「しっかりしろ……」
私は小さく呟いて酸っぱいつばを飲み込むと、自分の頬を叩いた。
弱気になって、過去に振り回されている場合じゃない。
なんのためにここまで来たのか。
「……大丈夫」
私はあの時よりも強くなった。
この手には神楽もある。
だから、大丈夫。
息を整えて、城の2階部分を見上げる。
見張りの兵が通り過ぎていった隙を狙って、林から飛び出すと一足でバルコニーに跳び乗った。
このあたりは、確か城の厨房付近だったはず。
窓に寄ってそっと覗いたら、中では夕食の支度の最中だった。
威張った料理長らしき男は、自分の知っている料理人ではなかった。
鮮血の31日と呼ばれるあの日に、職業や性別、年齢も問わずに城の中のほぼすべての人が命を失った。
働く人間も、すべて入れ替わっていると思って間違いなさそうだ。
私は人目が薄れるのを見計らって小さく窓を開けると、すばやく室内に体を滑り込ませた。
音もなく閉めた窓に、侵入を気付いたものはいない。
身をかがめたまま大きな作業台を回って、そっと厨房を出た。
ここの左側にある階段を登って、少し進めば玉座の間だ。出来れば誰にも会わずにそこまで辿り行きたい。
でも、城のいたるところにいる兵士と会わないで進むのは不可能なことだった。
階段を回ったところで、一人の兵士が上から下りてくるのに出くわした。
「……誰だ?」
いぶかしげに近づいてくる兵士に、私は無言の笑顔で答えた。
「城の者ではないな? どこから入った?」
兵士が油断して間合いに入った瞬間、みぞおちに掌底を打ち込んだ。
苦しそうな息を吐き出して、兵士は床に崩れ落ちた。
気を失わせるのはたやすいけれど、転がしたままではまずい気がする。
どこかに隠すべきかと考えていたら、今度は階段の下から足音が聞こえてきた。
(まずい……)
多分、誰かと会わないで進むのは無理だ。
倒したとしても、すぐに気付かれる。
それなら、時間と勝負するしかないだろう。
私は倒れた兵士をそのままに、階段を駆け上がった。
城の3階部分には、玉座の間がある。
かつてはその扉の先にいる父様を追って、温かい気持ちでくぐった扉だった。
今はこんなにも冷え切った恐ろしい気持ちで、その扉を見つめている。
「おい、子供が……」
玉座の前にいる、近衛兵の一人が私を指さした。
剣士が合計4人……
剣を抜く時間は与えない。
私は全身に魔力をこめた。
追っ手相手に磨いてきた体術で、4人が私を敵だと認識する前に、気を失わせるだけでいい。
数秒の後、声にならない声をあげて、最後の一人が崩れ落ちる。
打撃と一緒に相手の体に魔力を流して、脳の神経を麻痺させるこの方法は、師匠から教わった。
魔力で身体機能を上げる能力を持つ、私だから出来る体術だと。
殺さなくてもすむように、教えてくれた。
「師匠……」
師匠は怒るだろうか、ここまで来てしまった私を。
それとも哀れむだろうか。
私はひやりとした金属の取っ手に手をかけると、重厚な扉を押し開けた。
何の合図もなしにこの扉が開かれることはない。
中にいた全員が、こちらを振り返った。
歩兵の剣士が6人、学士風の男が2人、そのうちの1人はどこかで見覚えのある顔だった。
ビヴォルザークの姿は、そこになかった。
そして、玉座には……
「これは……まさかとは思いましたが、本当に王女様でしたか」
相変わらずのしわがれた声で、玉座に座った男が口を開く。
あの時と変わらない冷たい目に、薄ら笑いを浮かべて。
まるで、私が来ることを知っていたかのような口ぶりだった。
「久しいな、斉画王。お前の首……もらい受けに来たぞ」
キン! と硬質な音を響かせて顕現した神楽を、憎い仇に向けて構えた。