苦渋の選択
床に手をついた俺の前に、崩れ落ちた男の剣が乾いた音を立てて転がった。
飛那姫は凍り付いたような表情で、鎧姿の兵士を見下ろしていた。
今、何が起こった?
ドアを開けたら、兵士が立っていた。
手にしていた剣が光るのが見えた。
剣が振り上げられる前に、飛那姫が俺を引っ張ったのか?
飛那姫は兵士の首元を掴んで、家の中に引き入れた。
戸を閉めて、壁にあったロープで手早く男を後ろ手に縛り上げていく。
「飛那姫、一体何をやって……」
「杏里さん」
俺の言葉を遮って、飛那姫が立ち上がった。
その瞳に風漸の葬式の時の、あの何かをかみ殺すような揺らぎが見えた。
「私……もう、行かなくちゃ」
その一言で、飛那姫が何を言いたいのか伝わったらしい。
杏里は、さっと顔色を変えた。
「飛那姫、それは……」
「約束して欲しいんだ」
「約束?」
「私のことを、忘れるって。もう……二度と名前を呼ばないって」
飛那姫の口から出た台詞が、俺には理解できなかった。
絶縁を求めているとしか思えない、そんな約束を何故……
杏里には、もっと受け入れがたかったのだろう。
唇を震わせたまま、青い顔で飛那姫を見つめていた。
「誰が来ても、何を聞かれても、私がここにいたことを言わないで欲しい。いなかったことに、してほしい……」
「飛那姫! あんた、なんて馬鹿なことを……」
「もう嫌なんだ!!」
あまりに酷な約束に杏里が憤った瞬間、飛那姫が声を荒げた。
心の奥に閉まっていた何かを吐き出すように。
耐えきれず口にしてしまったかのようにも見えた。
「私と関わったことで誰かが死ぬのはもう嫌だ! 誰にも、死んで欲しくない……!」
おそらくは心からの本音だったのだろう。
事情を全て知らない俺にも、その真剣さと覚悟は伝わってきた。
杏里は、息を飲んでその場に立ち尽くしていた。
跡が付きそうなほど握りしめた、小さな拳が俺の目の前にあった。
「飛那姫、それでも、あたしは……」
杏里は首を横に振って、視線を落とした。
お互いに譲れない何かがあるのだということが、見ていてもどかしかった。
飛那姫は杏里の次の言葉を遮るように駆け寄って、抱きついた。
弱く押しつけられた額は、身重の杏里への気遣いだったのだろうが、全てを投げ出して甘えられないようにも見えた。
うつむいた顔は、泣いているよりもよほど辛そうだった。
「杏里さん、大好き……!」
「……飛那姫」
「叱られても、大好き。いつも優しいから、大好き……色んなこと教えてくれて、おいしい料理を作ってくれて、私を大事にしてくれて……」
杏里は飛那姫の頭を抱えて、強く抱きしめ返した。
「あたしだって、あんたが大好きなんだよ……」
杏里は明らかに別離を拒んでいた。
この手を離したくないと、言葉で言わなくても飛那姫には伝わっているだろうと思えた。
「杏里さん、大好きだから……死んで欲しくない。お腹のこの子の為にも」
「っそんな言い方……!」
「きっと、綺羅の兵士が私を探しに来てる……私がここを出たら、杏里さんとは無関係だよ。もう絶対に、名を呼ばないで」
「飛那姫!」
飛那姫は、杏里の肩をそっと押した。
これが最後だと、有無を言わせない強さで杏里から離れると、俺を振り返った。
何かをあきらめたようで、それでいて強い、静かな目だった。
「弦洛先生、杏里さんをお願いします」
「……分かった、と言いたいところだが、どこへ行く気だ?」
「ひとまず、今この東岩に来ている兵士を全部始末します。それから……綺羅に」
「綺羅に?」
「約束が、あるんです」
謎めいた言葉を吐きながら、飛那姫は縛った男の首元を引っ張って持ち上げた。
子供の力とは思えないくらい軽々と、男は飛那姫に引きずられていった。
「杏里さん……体、大事にしてね。今までありがとう」
飛那姫は戸口に立って、一度だけ、杏里を振り返った。
笑っているのに、泣いているように見えた。
「飛那姫……待って……」
杏里がよろりと、飛那姫に向かって手を差し出した。
すぐ目の前にいるのに、抱きしめたくても、止めたくても、もう届かない距離にいるように見えた。
「ごめんなさい……さようなら」
カランカラン、といつものウィンドベルの音がした。
風のように身軽に、飛那姫は男を引っ張ったまま外へと飛び出して行った。
「飛那姫……!!」
杏里は、その場に崩れ落ちるように膝をついた。
静かになった店内に、嗚咽がもれた。
俺はそこでようやく、自分が座りこんでいたことに気がついた。
なんとも言えない重苦しい気持ちで立ち上がる。
「杏里……大丈夫か」
声をかけると、杏里は首を横に振った。
「弦洛、あたし……悔しいよ。あの子はやっぱり一人で戦うつもりなんだ……!」
「俺は、詳しいことを知らん……飛那姫は一体、何をしにここを出て行くと言ったんだ?」
「……復讐」
「何?」
「仇討ち、だよ……」
俺は飛那姫が出て行った戸口を振り返った。
人の悲鳴や、叫び声のようなものが聞こえた気がした。
この家の一歩外はもういつもの東岩の、のどかな空気ではないように思えた。
窓から外を見たら道の先に兵士が数人、倒れて動かなくなっているのが目に飛び込んできた。
先ほどの後ろ手に縛られた兵士もその先に転がされている。
地面に散った赤い色が見えた。
まさか、これをあの子が……?
背筋が寒くなるような感覚があった。
外に出て一番近くにいた兵士にかがみ込むと、気を失っているだけだと分かった。
息があることにほっとすると、俺は外傷を確認した。
意識は無いが、傷は右手の指だけで、いくつか切り取られて出血しているようだった。
見れば、他の兵士も同様だった。
この手では、もう剣は握れまい。
ふと仰いだ冷え切ったねずみ色の空は、じきに4月になるとは思えないほど、重く低く広がっていた。
たった一人でここを出て行った少女が見上げていたこの空の色を思うと、俺の心はひどく痛んだ。
戦闘出来なくすればいいのなら、手指を斬り付けるのが一番てっとり早いです。
鍔迫り合い(つばぜりあい)の時は、耳が傷つくことが多いとか。
次回は、亡国紗里真の地へ。




