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没落の王女  作者: 津南 優希
第一章 滅びの王国備忘録
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終末

 風が、焦げた臭いを運んできた。


 どこかでたき火をしているのだと、その程度にしか考えていなかった。

 息を切らせて走って、寒さを忘れてしまうくらい、きっと浮かれていた。

 早く師匠に報せたい、杏里さんに赤ちゃんが出来たことを。


 町外れの家を何軒か通り過ぎて、坂の向こうを見上げる。

 いつものゆるい上り道。

 黒い煙が立ち上っているのを見つけた時も、まだ私はそれがなんの煙なのか分かっていなかった。


 坂の途中でやっと、赤い炎に包まれて、煙をあげている家が目に入った。

 燃えているのが師匠の家だと気付いた時には、私はなんのために走っていたのかすら忘れてしまった。


 走る足が止まった。

 ひざが震えた。

 息を飲んだ瞬間に吸い込んだ冷たい空気が、耳の中でキーンと鳴った。


 家の前の坂道には、何人かの綺羅の兵士が倒れているのが見えた。

 心臓のあたりが締め付けられるような、重苦しい感覚を覚えた。


 襲撃が、あったのだ。


 大丈夫。

 師匠なら大丈夫。

 簡単にやられたりしない。

 そう思いながらも、胸騒ぎが止まらなかった。


「師匠……!」


 私は早鐘を打つ心臓を抱えて、坂を駆け上った。

 燃える家の熱が、風にあおられて私の方にまで襲い掛かってくる。

 首を回したら、道からはずれた草むらにくたびれた革のブーツが見えた。


 心臓の音は、耳元で聞こえそうなほど大きくなった。


「……っ!」


 駆け寄って膝をつくと、私は切れるほど唇を噛んだ。


 なんで。

 どうして。


「……師匠っ!!」


 仰向けの状態で、師匠が倒れていた。

 右肩と、お腹に大きな血痕が見て取れた。

 私は血で染まった上着を掴んで、震える手で青白い顔に触れた。


「師匠……?!」


 かろうじて呼吸があった。

 でも、切り裂かれた傷は、一目で致命傷と分かる程の深さだった。

 手のひらに触れたぬるりとした赤い血が、地面にしたたり落ちるほどに多く流れていて、目を背けたくなる。


「嘘だっ! 起きて! 起きて師匠……!」


 言葉を続けようとして、嗚咽が漏れた。

 悪い夢だと言って欲しい。目を開けて、冗談だと言って欲しい……!


 血にまみれた胸にすがりついたまま、何をどうしていいのかも分からなかった。

 その時。

 震える私の頭に、力ない大きな手が触れた。


「……!」


 顔を上げると、師匠が薄く目を開けて私を見ていた。


「……飛那姫、か……?」

「っ師匠!」

「わりぃ……しくじっ、た……」


 口元に笑いを浮かべた師匠が、呟くような小さい声でそう言った。

 上下する胸が、苦しそうに、乱れたリズムを刻んでいた。


 聞きたいことが、たくさんあった。

 言いたいことも、たくさんあった。

 もうきっと、時間がないのに、何を伝えればいいのか分からない。


「師匠……あのね……! 杏里さんに、赤ちゃんが出来たんだよ!」


 口をついて出たのは、そんな言葉だった。

 師匠がほんの少し、驚いたような表情を見せた。


「……それ、ほん……とうか……?」

「弦洛先生が、そう言った……」

「……そうか」


 穏やかな顔で、師匠が息を吐き出した。


「杏里に、伝えて、くれ……すまん……あとは、頼む……って……」

「嫌だよ! そんなの伝えたくない!」

「飛那姫……」


 師匠が、目だけで笑った気がした。

 そしてもう一度、浅くて長い息を吐きだした。


「泣くな……笑え……」


 それが、師匠の声を聞いた最後だった。

 私の頭を撫でていた手が、重力に負けたように、草むらに落ちた。


「師匠……?」


 呼吸が、どんどん浅く、弱くなっていくのが分かった。

 流れ出た血の量が、少し先に訪れる残酷な未来を物語っていた。


「師匠……一体、誰が……」


 いつどんな時に、誰と戦っていても、遅れを取ったことなどなかった師匠が。


 負けたのか。

 どうして……


「どうして……!」


 浅い呼吸の音が、すぐ側で燃えている炎の弾ける音にかき消されていった。

 火の粉が飛んできても、熱いとすら感じなかった。


「師匠……聞こえてる……?」


 血が飛んでいる以外は、眠っているように穏やかな師匠の顔を見つめる。

 杏里さんや弦洛先生を呼びに行っている時間は、ないと思った。


「私、綺羅に行くよ……師匠は怒るかもしれないけど」


 言いながら、涙が止まらなかった。

 怖くて、悔しくて、苦しかった。 


「終わらせるから、もう……」


 もう、こんなのは嫌だ。


 私は恐ろしく長く、短い時間をそこで祈っていた。


 師匠が目を開けることは、二度となかった。

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