終末
風が、焦げた臭いを運んできた。
どこかでたき火をしているのだと、その程度にしか考えていなかった。
息を切らせて走って、寒さを忘れてしまうくらい、きっと浮かれていた。
早く師匠に報せたい、杏里さんに赤ちゃんが出来たことを。
町外れの家を何軒か通り過ぎて、坂の向こうを見上げる。
いつものゆるい上り道。
黒い煙が立ち上っているのを見つけた時も、まだ私はそれがなんの煙なのか分かっていなかった。
坂の途中でやっと、赤い炎に包まれて、煙をあげている家が目に入った。
燃えているのが師匠の家だと気付いた時には、私はなんのために走っていたのかすら忘れてしまった。
走る足が止まった。
ひざが震えた。
息を飲んだ瞬間に吸い込んだ冷たい空気が、耳の中でキーンと鳴った。
家の前の坂道には、何人かの綺羅の兵士が倒れているのが見えた。
心臓のあたりが締め付けられるような、重苦しい感覚を覚えた。
襲撃が、あったのだ。
大丈夫。
師匠なら大丈夫。
簡単にやられたりしない。
そう思いながらも、胸騒ぎが止まらなかった。
「師匠……!」
私は早鐘を打つ心臓を抱えて、坂を駆け上った。
燃える家の熱が、風にあおられて私の方にまで襲い掛かってくる。
首を回したら、道からはずれた草むらにくたびれた革のブーツが見えた。
心臓の音は、耳元で聞こえそうなほど大きくなった。
「……っ!」
駆け寄って膝をつくと、私は切れるほど唇を噛んだ。
なんで。
どうして。
「……師匠っ!!」
仰向けの状態で、師匠が倒れていた。
右肩と、お腹に大きな血痕が見て取れた。
私は血で染まった上着を掴んで、震える手で青白い顔に触れた。
「師匠……?!」
かろうじて呼吸があった。
でも、切り裂かれた傷は、一目で致命傷と分かる程の深さだった。
手のひらに触れたぬるりとした赤い血が、地面にしたたり落ちるほどに多く流れていて、目を背けたくなる。
「嘘だっ! 起きて! 起きて師匠……!」
言葉を続けようとして、嗚咽が漏れた。
悪い夢だと言って欲しい。目を開けて、冗談だと言って欲しい……!
血にまみれた胸にすがりついたまま、何をどうしていいのかも分からなかった。
その時。
震える私の頭に、力ない大きな手が触れた。
「……!」
顔を上げると、師匠が薄く目を開けて私を見ていた。
「……飛那姫、か……?」
「っ師匠!」
「わりぃ……しくじっ、た……」
口元に笑いを浮かべた師匠が、呟くような小さい声でそう言った。
上下する胸が、苦しそうに、乱れたリズムを刻んでいた。
聞きたいことが、たくさんあった。
言いたいことも、たくさんあった。
もうきっと、時間がないのに、何を伝えればいいのか分からない。
「師匠……あのね……! 杏里さんに、赤ちゃんが出来たんだよ!」
口をついて出たのは、そんな言葉だった。
師匠がほんの少し、驚いたような表情を見せた。
「……それ、ほん……とうか……?」
「弦洛先生が、そう言った……」
「……そうか」
穏やかな顔で、師匠が息を吐き出した。
「杏里に、伝えて、くれ……すまん……あとは、頼む……って……」
「嫌だよ! そんなの伝えたくない!」
「飛那姫……」
師匠が、目だけで笑った気がした。
そしてもう一度、浅くて長い息を吐きだした。
「泣くな……笑え……」
それが、師匠の声を聞いた最後だった。
私の頭を撫でていた手が、重力に負けたように、草むらに落ちた。
「師匠……?」
呼吸が、どんどん浅く、弱くなっていくのが分かった。
流れ出た血の量が、少し先に訪れる残酷な未来を物語っていた。
「師匠……一体、誰が……」
いつどんな時に、誰と戦っていても、遅れを取ったことなどなかった師匠が。
負けたのか。
どうして……
「どうして……!」
浅い呼吸の音が、すぐ側で燃えている炎の弾ける音にかき消されていった。
火の粉が飛んできても、熱いとすら感じなかった。
「師匠……聞こえてる……?」
血が飛んでいる以外は、眠っているように穏やかな師匠の顔を見つめる。
杏里さんや弦洛先生を呼びに行っている時間は、ないと思った。
「私、綺羅に行くよ……師匠は怒るかもしれないけど」
言いながら、涙が止まらなかった。
怖くて、悔しくて、苦しかった。
「終わらせるから、もう……」
もう、こんなのは嫌だ。
私は恐ろしく長く、短い時間をそこで祈っていた。
師匠が目を開けることは、二度となかった。