命の足音
飛那姫と風漸が東岩に戻ってきてから、10ヶ月が経とうとしていた。
季節は厳冬。2月。
雪が薄く地面に降り積もる頃。
飛那姫はなじみの魔道具屋のカウンターに座っていた。
沸かした牛乳の入ったコップで、冷えた指先を温めている。
「あったまる~……」
なんてことのない1日の昼過ぎが心地いいのは、家の中が暖かいせいだろうか。
外の寒さに反して、暖かい家と人の側が余計に恋しく感じるようになるのは、飛那姫だけではないだろう。
「おかわりあるよ。もっとちゃんと暖まって行きな」
テーブルに並べた魔道具を手入れしながら、杏里が微笑む。
飛那姫はコップから上る湯気ごしに、杏里の作業を眺めていた。
「そういえばさ……」
杏里が思い出したように呟いた。
「来月、あんた誕生日なんだって?」
「え? うん……師匠から聞いた?」
「ああ、10歳になるんだってね。特別な歳じゃないか。ちゃんと祝わないと」
楽しそうにそう言う杏里から、飛那姫は少しだけ視線をそらす。
3月31日。
(そうだ、来月は……誕生日……)
8歳の誕生日に起こった出来事を思い返すだけで、飛那姫は胸が塞がるような思いがする。
もうあれから2年近く経つということにも、実感が沸かなかった。
落としたままの視線の横から、手が伸びる。
温かい指先が、飛那姫の頬をつまんだ。
「うぃっ?」
「なんて顔してんだい、馬鹿だね」
杏里がカウンターの前に立って、困った顔をしていた。
「ごめんなさい……」
「謝らなくていいんだよ。あたしも急に祝おうなんて言って悪かった」
「いや、杏里さんは何も……」
「飛那姫、あんたは幸せにならなきゃいけないよ」
ふいに、杏里がそんな言葉を口にした。
ずっとそう願っていたかのような口ぶりで。
「あんたを愛していた人達はね、本当は一番にそれを望んでいたはずだ」
「杏里さん……」
「風漸や、あたしもそう願ってる。だからね、あんたはもっとわがまま言ってていいんだよ……」
「……」
飛那姫はわがままはもう言わないと、兄様がいなくなった頃に自分が誓ったことを思い出す。
自分を取り繕うのは大分うまくなったと思う。希望を口にしないのも、理不尽を飲み込むのも。
杏里は頬から手を離すと、飛那姫の髪を撫でた。
「嫌なことを思い出すなとは言わないけど……これから、いいことだってたくさんあるよ」
「……うん」
「だからさ、来月は……」
「……?」
言葉を切った杏里に、飛那姫は顔を上げた。
部屋の灯りが後ろにあるせいか、杏里の顔色が少し悪いように見えた。
「杏里さん?」
静かに波が押し寄せるように、胸がざわめいた。
下からのぞき込んだ杏里が、カウンターの縁に手をかけて口元を手で覆う。
どこかで見たことのあるような光景に、飛那姫の心臓が大きく嫌な音を立てた。
飛那姫はコップをカウンターの上に置いて、立ち上がった。
イスが、ガタンと音を立てて転がったが、それを気にしている余裕はなかった。
8歳の誕生日の悪夢が、脳裏に蘇る。
(母様……令蘭……!)
飛那姫はカウンターを回ると、膝をついてその場にしゃがみ込んだ杏里の背中に手を回した。
「杏里さんっ?!」
「っ……大丈夫。ちょっと気分が悪いだけで……」
無理に笑顔を作ろうとする杏里の顔色は悪かった。
過去の恐怖が一気に湧き出てきて、飛那姫の心は温度を失っていった。
怖い。
怖くてたまらなかった。
震える手で、杏里の服を握りしめる。
「やだっ……杏里さんっ!」
その時、カランカランというウィンドベルの音とともに魔道具屋の入口が開いた。
入ってきたのは短い赤茶の髪に切れ長の目をした男だった。
「杏里? 飛那姫……どうした?」
カウンターの前で座り込む二人を見て、町医師の弦洛はいぶかしげに眉をひそめた。
「弦洛先生っ! 杏里さんが……!」
「何?」
足早に駆け寄ると、弦洛は杏里の横に膝をついた。
「杏里、どうかしたのか?」
「いや……大したことないんだ……ちょっと気分が悪くて。このところ食も進まないから……貧血かもね」
杏里はそう言うと、飛那姫に向き直った。
「飛那姫、なんて顔してるんだい……あたしは大丈夫だよ」
杏里と同じくらい青い顔をした飛那姫を抱き寄せて、安心させるように言う。
しがみつき返してきた小さい手が、小刻みに震えていた。
「杏里さん……本当に、大丈夫?」
「ああ、この通り」
「死んじゃったり、しない?」
「しないよ。馬鹿だね」
怖いことを思い出させてしまったかもしれないと、杏里は苦い気持ちになる。
その様子を見ていた弦洛は、立ち上がると椅子を一脚引き寄せた。
「大丈夫かどうかは医師の俺が判断しよう。座れるか? 杏里」
「ああ、すまないね……」
弦洛は椅子に腰掛けた杏里の脈を取って、いくつか質問をしながら診察を始めた。
「……杏里、横になれるか?」
しばらく診察した後、難しい顔をしながら弦洛が言った。
杏里は壁際のベンチに移動した。
弦洛は横になった杏里の腹や腰に、先日出来上がったばかりの最新式心音器をあてて注意深く音を拾っている。
しばらく何事かを考えていたが、若い医師はため息をつきながら立ち上がった。
「……これは、俺の手には負えないな」
「え?」
思ってもいない台詞が、弦洛からこぼれる。
この有能な町医師でも手に負えない症状ということなのか。
杏里も眉をひそめた。
「後で、専門の人間に連絡を取っておく」
「ま、待ってよ弦洛。それって……」
飛那姫がまた不安げな表情になっているのを見て、杏里は焦る。
これ以上、この子を動揺させてはいけないという気持ちが一番強かった。
「おめでとう杏里……良かったな」
「え?」
突然の祝いの言葉に、杏里と飛那姫は目を丸くして弦洛を見上げた。
「おそらく、懐妊だ」
「……は?」
ほとんど表情を変えないまま伝えられた内容に、杏里は声を失った。
言葉の意味が分からない飛那姫は隣でまだ不安そうにしながら、杏里と弦洛を見比べている。
「飛那姫」
「は、はいっ」
名前を呼ばれて、飛那姫は飛び上がる勢いで立ち上がる。
「風漸にも報せてやれ」
「……師匠に? え? なんて?」
「お前が父親だろうと、そう言ってやれ」
「え?」
弦洛の言っている言葉の意味がよく分からず、飛那姫は杏里を振り返った。
放心したようにお腹を押さえている杏里を見て、やっと思い当たる。
「……赤ちゃん?」
「そうだ。病気じゃない、安心しろ」
飛那姫は全身の力が抜けていく気がした。
(病気じゃない……毒でもない……)
さっきまで恐ろしい気持ちに支配されていたのが嘘のようだった。
飛那姫は泣きそうな気持ちで杏里の首に飛びつくと、ぎゅうっと抱きしめた。
「杏里さん、おめでとう……!」
「飛那姫……ありがとう」
髪の毛を撫でる杏里の手が、すごく優しく感じた。
(どうしよう、うれしい……!)
風漸に報せろと言われたことを思い出して、飛那姫はがばっと杏里から離れた。
「私、師匠に報せてくる!」
満面の笑みでそう言うと、飛那姫は魔道具屋を飛び出して行った。
上着を着ないで行ってしまったことに気付いて弦洛が呼び止めたが、飛那姫の耳には入っていないようだった。
「……すごい喜びようだな」
「ふふ、だって、あの子の妹か弟になるだろうからね」
そんな未来が、くればいい。
何でもない、平凡で幸せな未来が。
開けた扉からは冷たい2月の空気が入り込んできた。
灰色の空に少しだけ心細い気持ちになりながら、杏里はそっと自分のお腹に手を添えた。
早く飛那姫が風漸をここに連れてきてくれればいいと、そう思いながら。
出産の場合、医師ではなく助産師が診ることになります。
杏里は未婚ですが、まぁ、一緒に住んでいないだけで結婚したも同然な二人なので……。
この時点で一番舞い上がっているのは飛那姫かもしれません。
次回は、この回の時間軸からちょっと遡ってスタートです。