願う幸せ
「じゃあゆっくりおやすみ、飛那姫」
「うん、ありがとう……」
布団に潜った飛那姫を見て、杏里は部屋の灯りを消した。
部屋を出ようと、扉に手をかける。
「杏里さん、ごめんね」
唐突にかけられた謝罪の言葉に、杏里は振り返った。
顔の半分まで布団をあげた飛那姫が、申し訳なさそうな目をして杏里を見ている。
杏里は扉から手を離すと、もう一度ベッドの側の椅子に腰を下ろして、飛那姫のおでこの髪の毛をかき上げた。
「何がだい?」
「師匠を……風漸を、ここから連れて行っちゃって、ごめんなさい」
子供ながらに自分が風漸を連れて行ってしまったと思って、ずっと気に掛けていたのだろうか。
杏里は小さく笑って、飛那姫の柔らかい髪を撫でてやる。
「あんたが謝ることじゃない。あいつが決めたことだよ」
「でも、私がいなければ……」
「何言ってるのさ。どう見てもあいつは好きでやってるよ。好きであんたの側にいて、あんたを護ってやろうって思ってるんだ。自分がいなければなんて、言っちゃだめだろ?」
そう言って、杏里は飛那姫のほっぺを軽くつねった。
「あたしはね、逆に感謝してるんだよ」
「感謝?」
「そうだよ。何やってもつまらねえって顔してたくだらない男を、あんたが生き返らせてくれた」
「私が?」
「ああ、あいつ、いい顔してるだろ?」
「……そう、かな?」
「いや、いい顔って、別に見た目の話じゃないからね?」
笑って杏里は椅子を立った。
「とにかくもう遅いから寝な。おやすみ、飛那姫」
「おやすみなさい……」
今度こそ扉を開けると、杏里は部屋を出た。
階段を降りて、狭い廊下を進むとキッチンに続く扉を開ける。
小さいテーブルの横の椅子に、風漸がだらしなく腰掛けていた。
「飛那姫は寝たか?」
「ああ、一杯飲むかい?」
「決まってるだろ」
杏里は棚から出した酒瓶とグラスを二つ、テーブルに置く。
グラスに酒がつがれるのを見ていた風漸が、ぽつりと口を開いた。
「俺、お前に言わなきゃいけないことがあったんだ」
「なんだい、また何かロクでもないことかい?」
「俺な、心臓の病で、もうすぐ死んじまうらしい」
世間話でもするかのような口調で伝えられたのは、冗談でも嘘でもなかった。
そんなことは知っている。
いっそ、冗談にしてしまいたいくらいだと、杏里は苦々しく思う。
「……本当にロクでもない話だったね」
「悪いな、酒がまずくなっちまう」
「そもそも、その酒も止めた方がいいんじゃないのかい?」
「勘弁してくれ。残り少ない命だ。好きなように過ごすさ……」
それは本心から出た言葉だったろうが、すべてが本当というわけでもないだろうと杏里は思った。
今、酒を止めれば命が助かるというのなら、風漸はそうするに違いないから。
「……飛那姫は、どうするの?」
杏里は重く沈んだ気持ちで、聞いておかなくてはいけないことを尋ねる。
少し先の未来に起こることなら、後に残されるあの子のことを考えておかなくてはいけないだろう。
どこにも身よりはないと聞いている。
「俺が死んだら、あいつはきっと目的を果たしに行くだろう」
「目的?」
「ああ、それこそロクでもない話だ」
「……聞いてもいいかい?」
「そうだな……お前には話しておいた方がいいだろうな」
そうして風漸は、酒を片手に飛那姫に何があったかを杏里に話して聞かせた。
一夜で滅びた大国の話、そこに住んでいた小さな王女から聞いた話を。
国を出て逃げてきたあの子と、出会ってからのことも全て。
飛那姫が唐突に失ったものの大きさと、その苦痛がどれほどのものだったかは、きっと想像に難くない。
「……あの子に、そんなことが」
杏里は肺の奥から深いため息をついて、目頭を押さえた。
「だから、俺に剣を教えてくれって言ったんだ、あいつは」
「復讐なんて……まさかたった一人でするつもりなのかい?」
「そうだろうな。多分、あいつは俺のことも巻き込む気がない」
一緒に戦ってくれと、誰かに言おうとすらあいつは思っていないだろう。
風漸はそう言って、グラスに残った酒を全部飲み干した。
「止めないのかい?」
杏里は憤った気持ちで、風漸に尋ねた。
天才だろうと、どれほど力があろうと、子供に敵討ちをするように仕向けるなんて間違っている。
「止めたいさ……だが復讐を止めること自体があいつの負担になる」
「だって、馬鹿げてるよ? 一人でなんて、無理に決まってる。それでもし飛那姫が……」
「俺だって止めたいんだ……!」
風漸が少し声を荒げる。
杏里は眉をひそめて、何かを噛み殺すような表情を見返した。
「あいつの、先生との約束は……呪いみたいにあいつを動かしてやがる。俺がいくら言ったところで、あの呪いを解くことはできない」
「風漸……」
「杏里、俺、あいつには……ちゃんと幸せになって欲しい」
小さな声で「らしくないだろ?」と続ける風漸に、杏里は首を横に振った。
「飛那姫といて、子供っていいなぁ、ってはじめて思ったんだ……」
「うん……」
「杏里、お前ももう30になったろ? 誰でもいいから、そろそろ結婚して子供くらい作っておけ」
「はあ……? 余計なお世話だね。大体なんだい、その誰でもいいからって……」
軽口を叩かれただけだとは思ったけれど、杏里の胸はズキンと痛んだ。
結婚して一緒にいるのなら、小さい頃からずっと好きだった人とがいい。
その夢はきっともう、叶わないけれど。
「俺な、お前にも……幸せになってほしいと思ってる」
うつむいた風漸の顔からは表情が読めない。
もしかしたら、本気で言っているのだろうか。
「……何、言ってんだい。それこそらしくないよ」
「……そうかもな。でも、本当……」
ふいに途切れた言葉に杏里がいぶかしげな視線を向けたとき、風漸の体が椅子からずるりと横に滑り落ちた。
「風漸?!」
弾かれたように立ち上がった杏里が支える間もなく、大きな体が床に崩れ落ちる。
転がった椅子の立てる音が、何かの警笛のように聞こえた。
「ちょっと……! しっかりしなよ!」
「……もう、薬がなくってな……それで、弦洛のところに」
「だったら! 先にそっちに行かなきゃ駄目だろう?!」
抱え起こした風漸の体は少し冷たかった。
顔色は悪く、額には汗がにじみ出ている。
杏里の脳裏に最悪な予想がよぎって、背中に悪寒が走った。
その体をもう一度床に横たえると、勢いよく立ち上がって部屋の扉を開け放った。
「弦洛を呼んでくる!」
走り出た外は、新月で暗かった。
わずかな家々の灯りを頼りに、杏里は診療所までの道をひた走った。
目の前で倒れられたことに、まだ自分の心が大きなショックを受けている。
あんな姿は見たくなかった。
本当に死んでしまうかもしれない、そう考えるとただ恐ろしかった。
「弦絡……!!」
ドンドン、と既に閉まっている診療所の扉を叩く。
(お願い! 出て来て!!)
何回目かに叩いた後、内側から鍵の開く音がして、すっと扉が開いた。
「杏里か。どうした?」
もう休んでいるだろう時間なのに、愛想のない男がすぐにでも外に出られそうな服装でそこに立っていた。
「弦絡っ! 風漸が……!」
全速力で走ってきたから、息が切れてうまくしゃべることが出来ない。
しかしその名前を聞いた町医師は、すぐに診療所の中にとって返すと手早くカバンにいくつかの道具と薬を詰め込み、走り出てきた。
「店か?」
「ああ、頼むよ……!」
杏里は走り出した弦洛の後を追って、自分もまた可能な限り走った。
間に合って、と心の中で叫びながら。
弦洛は杏里の2歳上の32歳設定です。