幼い日の約束
「西の国にはどんな動物がいますの?」
鈴を転がすような、高い無邪気な声。
これは子供の頃の私だ。
緑の生い茂る庭園の小径を、誰かと歩いている。
手をつないだ先を見上げたら、背の高い銀髪の男の子がいた。
優しそうな雰囲気が兄様と似ていて、なんだか安心感を覚える。
私が投げかけた質問に、深くて濃い緑の瞳がこちらを向いた。
「うーん、そうだね。こことあまり変わらないと思うけれど……馬も牛も、犬もいるし……あ、でもね、僕は聖獣を飼っているよ」
「せいじゅう?」
はじめて聞く名前だ。それはどんな生き物なんだろう。
小さい私がキラキラした目で見上げると、綺麗な顔立ちの男の子は春の陽みたいに朗らかに笑った。
「見た目はただの犬だけれど、とても珍しい生き物なんだって。僕が5歳の時から一緒で、すごく賢くて強いんだよ」
「強い?」
「うん。姫がもっと大きくなったら見にくるといいよ。背中に乗せてあげる」
「えっ? 背中に乗れるんですの?! 本当に?!」
そうだ、小さい頃から動物好きだった私にとって、あれはとても魅力的な提案で……
「本当だよ。力も強いし、空も飛べるからね」
「空も?? 行きます! 行きますわ! 私、西の大国に行きたい!」
「うん、いいよ。おいでよ」
優しい目を細めて笑う男の子の顔を、私はよく知っている気がした。
声変わり前の高い声は、聞き慣れないけれど。
「約束ですわよ? 絶対!」
「そうだね、約束。姫が大きくなったらね」
私が右の小指を出すと、自分の小指を絡ませて指切りしてくれた。
ふふふ、とうれしそうに笑って見上げる私を、彼がまぶしそうに見返す。
「その”せいじゅう”には、名前がありますの?」
ふと気になって尋ねた私に、彼は「もちろん」と頷いた。
「インターセプターって言うんだよ」
形の良い唇が答えたところで、夢は途切れた。
「……」
突然光のある世界に浮上したような、くすぐったい感覚があった。
夢と現実の境目が、ひどく薄い。
うっすら目を開けたら、ここ最近見慣れてきたベッドの天蓋が見えた。
意識は徐々に現になじんできて、手のひらを包んでいる心地よい温もりを感じた。握られた手に、この上ない安心感を覚える。
(……兄様? 美威?)
ぼんやりと視線を泳がせたところで、目に飛び込んできた見覚えのある銀髪に、一瞬思考が停止しかけた。
……何故、この人がここにいるんだろう。
その姿を見て、はっと、目覚める直前に見ていた夢の内容を思い出す。
(え? ちょっと待って。あれが、アレク……?)
すっかり忘れたと思っていたのに。
私も覚えていたのだ、子供の頃のアレクを。
幼いときの、小さな約束を。
一人驚きを隠せないまま、ぼうっと目の前の銀髪を見つめる。
どうにも自分の置かれている状況が把握できない。ここは、自室だ。それは分かる。
(……寝てる、んじゃないよね?)
私の左手を両手で握って、額に押し付けたまま目を瞑っている顔を、まじまじと眺めてみた。
まるで何かに祈っているみたいに見える。
幼かった頃の面影は薄いけれど、整った顔立ちは昔から変わらないんだなぁ、長いまつげも銀色なんだ……そんな風に見ていたら、なんだか愛しさがこみあげてきた。
「……っ」
話しかけようとしたら、かすれた息だけが自分の口からもれた。
なんだろう、話そうとすると息苦しいし、体が異常にだるい気がする。
そもそも私、どうして寝てたんだっけ……?
「……ア、レク……」
小さかったけど、やっとかすれた声が出た。
アレクは、一瞬肩をふるわせたかと思ったら、おそるおそる目を開けてこっちを見た。やっぱり寝てたわけじゃないんだ。
「……飛那姫?」
信じられないものに出会ったような顔で私を見た後、端正な眉をひそめて、握る手に力をこめた。
少しずつ、その顔に安堵が広がっていくのが分かった。
どうかした? そう聞こうと思ったけど、微妙な沈黙を先に破ったのはアレクだった。
「ここで、祈っていたんだ……君が、目を覚ますようにと」
(目を、覚ますように……?)
あ……そうか、私、死にかけて……
私はそこでやっと、自分がどうなっていたかを断片的に思い出した。
父様がいて、母様がいて、師匠や先生がいた世界に、足を踏み入れたことを。
あの暗闇で出会った人達を思い出したら、まだどこかに浮いたままのような感覚が足下に戻ってきて、不安に心が揺れた。
自分の中にある、時間の軸がずれていた。
みんながつい先ほど死んで、別れてしまったかのような、奇妙な錯覚に襲われる。
(帰ってきて……良かったのか、こんな風に……)
みんなは死んでしまったのに、私は戻ってきて、良かったのか。
ここに帰ってきてしまって、本当に。
「飛那姫……私が分かるか?」
握られた手が、少し痛いくらいに感じた。痛いということは、生きているということだ。
うん……分かるよ。ちゃんと、聞こえてる。
そう答えようとする前に、なんだか胸がいっぱいになってきて声が出なくなった。すごく突然に、大切な思い出の波が一気に押し寄せてきて、頭の中がパンクしそうだ。
楽しかったことも、辛かったことも、全部がごちゃまぜになって、もう会えない人達に向かう強すぎる思慕に、息が詰まりそうだった。
アレクは戸惑うような、困ったような表情で手を伸ばすと、私の顔に触れた。
指先で拭われたことで、流れる涙に気が付いた。
取り返しの付かないことが悲しいのか、ここに帰ってきたことがうれしいのか、もう自分でも分からないけれど、目から流れていく水が抑えられない。
「せっかく目覚めたのに、そんな辛そうな顔で泣かないでくれ……」
その言葉にも涙は止まらずに、次々とあふれてきた。
「笑ってくれないか、飛那姫」
懇願するように、アレクが言った。
泣くな、笑えと。
どうしてみんな同じ事を言うんだろう。
そんな難しいことを、私に。
どうして。
「君には……幸せでいてほしいんだ」
続けられた言葉に、目を瞠った。
欲しかった答えは、あまりにもシンプルなもので。
(幸せに)
こんなタイミングで、答えがもらえるなんて、思っていなかった。
(ああ、そうか……そうだったんだ……)
笑えと。幸せになれと。
師匠が言いたかったのは、アレクと同じで。
生きて、幸せになれと言った父様と同じで。
(そんな風に、想ってもいいんだ)
自分が消えてしまうほど、誰かを想ってもいいんだ。
みんなそうして、誰かに幸せを与えて、与えられて生きている。
残されて、生かされた私が、それを願ってもいいんだ。
怖がらずに、手を伸ばしても。
(あなたはこれから、あなたの大切な人の、希みを叶えるのでしょう?)
こちらへ帰ってくる前に、出会った人の言葉を思い出す。
そうだ、そのために私は帰ってきた。
「……アレク」
握られた手を少し持ち上げて、不安そうに見下ろす頬に添えた。
指先に触れる私より低い温度が、確かにこの人がここにいることを教えてくれる。
今こうしている奇跡を、確かに感じられる。
「アレクが、好きだよ……」
濃い緑の瞳が、揺れたように見えた。
想いを伝えるのは一瞬でも、消えることのない温かさを心に届けるために。
こうして言葉にするんだ。
「……大好き」
幸せに滲んだ瞳を見れば、ここに帰ってきて良かったと迷いなく言える。
私は、この人の隣に、ここにいていい。
頬に添えたままの私の手を、愛おしさをまとわせた大きな手が包み込んだ。
「私も……飛那姫が好きだよ。傭兵でも、王女でも、君という人が」
「……うん」
今度は、ちゃんと笑えているだろうか。
この間別れた時のような、作り笑いじゃなくて。
「きっと……必ず、幸せにすると誓うよ。君の残りの人生を、私とともに生きてくれないか?」
伝えられた、泣きたいほどうれしい言葉に心がふるえても。
大丈夫。私、今、ちゃんと笑えてる。
「喜んで」
間違いなく極上の笑顔で、私は答えた。
……長い道のりでした。
次回、「結果オーライ」。




