邂逅
嵐が来る。
あまりにも静かなこの空間に、ひどく不似合いなそんな予感。
それは崩壊の兆しだった。
「……どこだ?」
呟いた声が、ぼやんと耳の奥に反響した。
水の中みたいに、音の伝わり方がおかしい。そういえば、足元も不安定すぎる。
見上げたら、紫がかった赤とも黒ともつかない天が広がっていた。
子供の頃、涙越しに仰いだ空の色と似ている。
寂しくて冷たい、星のない闇色。
沈みきってしまった太陽は、もう姿を現さないと思っていた。
そう信じながら一人眠りについて、そのまま目覚めないことを願っていた。
時間は残酷で、優しい。
あの時の私に、今の私は想像すら出来なかったろう。
たくさんの大切なものをまた手にして、誰かに愛されるようになるなんて。
そんなことを振り返れるくらいには、意識がはっきりしていた。
私は死んだのだろうか。ここはいわゆるあの世というやつか。
足下を見たら、どこまでも続く黒が、見えない闇の底にまで続いているのが分かった。
「ここは……いつもの……?」
高熱にうなされた時に現れる、あの夢の世界だ。
気だるい気持ち悪さは薄かった。鐘の音もないから気付かなかった。
それに今日は金縛りから解放されたように体が動く。声も出る。
更に違うのは、目の前に、青い光と黒い光が融合してうごめいていること。
神楽と、煉獄か……
ふと視線を投げると、少し先に黒髪の少年が倒れていた。
「……ネモ」
仰向けに閉じられた瞳が、呼びかけに開くことはない。
顔と、胸の中心にヒビのような亀裂が入っているのが見てとれた。
体にヒビが入るなんて、おかしなこともあるものだ。
ふと思い当たって目を落とすと、自分の胸元にも同様の亀裂があった。
(ああ、そうか……やっぱり、壊れるんだな)
一度魂と結びついたものを、無理矢理に引きはがした代償は大きい。
ピキピキッと細かい音を立てて、光を無くした胸元にヒビが広がっていく。
崩壊の時が目の前に迫っている。それを、肌で感じた。
「……?」
倒れたままのネモの側に、誰かがいた。黙って立つ、若い女の人。
すっと膝をかがめたのが見えた。
それとその後ろに……妖精族だろうか。耳の長い男だった。
跪いた女性が、ネモの額に触れている。髪をそっと撫でる仕草に、愛おしさが滲み出ていた。
女の人の肩に手を置いて、男もネモの顔を見下ろしていた。
二人とも私と視線を合わせることなく、ただ大切そうにネモを見下ろしている。
(誰だ……?)
ふいに、私の右肩にも誰かの手が置かれた。
その白く綺麗な手を見て、ゆっくりと振り返ったら、優しく微笑んだ茶の瞳と目があった。
「母様……」
父様もいた。
師匠も立っていた。
その後ろには令蘭がいる。
礼峰様、賢唱様。仲の良かった庭師のおじさん、料理長、精鋭隊のみんな。
先生。
ここが夢だからか。それとも、あの世だからか。
たくさんの、もういないはずの人達。
それを目にしても、感情がうまく動かない。
「迎えに、来てくれたの……?」
それだけ思った。
私すごい方向音痴だから、迷わないで逝けるようにって、みんなが心配して迎えに来てくれたのかもしれない。
「母様」
手を伸ばしてその体に触れようとしたら、母様は音もなく引いて離れた。
みんな優しい目で私を見ているのに、誰も手を伸ばしてはくれなかった。
「こちらでは、ないでしょう? 飛那姫」
母様の声だった。
懐かしい、愛しい人の声。
「手を伸ばす方が、違うでしょう? 間違えてはだめよ」
「間違え……?」
「……私達を追ってはいけないのよ。大丈夫、ちゃんと見ているから。あなたは、あなたを待っている人のところへ、帰りなさい」
「母様っ?! 父様!」
有無を言わさない決別の気配を感じて、叫んだ。
なおも手を伸ばそうとした瞬間、自分の左手首から白い光がほとばしった。
この温かい光には、覚えがある。
(……回復、魔法?)
光に照らされたみんなの姿はかき消え、全てを癒やすような心地よい光が、闇を消し去る強さで溢れていく。
闇から浮いた光の中に、綺麗な長い髪の女性が立っているのが見えた。
母様じゃない。突然に現れたこの人を、私は知らない。
透き通った白い肌と、絹のようになびいて光る銀髪。
濃く深い緑の目で、静かにこちらを見ている。
知らない人だけれど、この瞳と同じ色を持つ人を、私は知っていた。
「……お母様の仰る通りです。私が癒やしますから、戻りなさい」
澄き通る、玲瓏とした声で、そう伝えられる。
「戻る……?」
どこへ?
「あなたはまだ、生きなくては……この深淵とともに朽ちてはいけません」
「深淵? ここはどこなんだ?」
思わず聞き返した。
この人は、その答えを知っていそうな気がした。
「ここは本来人の身に宿ることのない、深き命の淵……あなたと、あの少年の魂の居場所です」
「死後の世界、ってことか?」
「いいえ……けれど魂のいる場所、という意味ではそうなのかもしれませんね。底の知れない深淵を有する者は、魔力を無尽蔵に溜めていく魔剣にとって、最適な器だったのでしょう……あなたの聖剣にとっても」
「魔剣と、神楽にとって最適……?」
その言葉を全て理解するのは難しかった。
ただ、女性の背後にある青と黒の光が、先ほどよりも小さくなっているのが分かった。
消えかけているのだ。
「さあ、もう戻りなさい……あなたはこれから、あなたの大切な人の、希みを叶えるのでしょう?」
祈りを捧げるような、美しい言霊はすんなり私の胸に入ってきた。
希みを、叶えるために……戻る。
ああ、そうか。誰も、私も、死んだらダメなんだったか。
そう思い出して、倒れたままのネモを振り返った。
「あいつも、助けられないかな……」
「私に出来ることは限られています。助ける対象が2人になれば治癒の力が半減して、あなたが助かる確率が減ってしまいますよ……」
「それでもいい! ネモも一緒にここから出して、戻してやりたいんだ……私が壊したかったのは、魔剣で、あいつじゃないから……っ」
だって、見て知ってしまったから。
ネモのことを、大切に想う人の存在を。
あの二人のためにも、あいつはまだ死んじゃいけない。
「……分かりました……あなた方2人を、癒やしましょう」
「ありがとう……あの、あなたは……」
私の問いを最後まで待つことなく、女性は清廉な笑みを浮かべた。
柔らかく広げられた両手から、光の粉がこぼれる。
「息子を……どうかよろしくね」
その言葉に目を瞠った瞬間、視界は陽炎のように揺らいだ。
花のような、甘い香りがしたのが一瞬。
深淵の闇から切り離されて、私の意識は光とともに浮上していった。
邂逅……海溝……開講……開口……改稿……
同じ音でありながら、異なる言葉。多すぎる(まだある)。
次回、明日更新予定です(暗い部分をさっさと終わらせたい)。




