魔道具屋の女主人
「本日休業」と書かれた看板の前に飛那姫は立っていた。
風漸はそんな店の扉を遠慮なく、ドンドン乱暴に叩いている。
「おい、どうせいるんだろ?! 俺だ!」
家を出て、まっすぐにこの魔道具屋に来た。
活気のある通りの一本裏にあって建物も小さいが、風漸がここを頼りに訪ねたのはなじみの店だからだけではない。
「おい、開けてくれよ!」
反応のない扉を、更に騒がしく叩く。
「お留守なのでは?」
「いや、絶対にいる……裏に回るか」
ちっと舌打ちをして、風漸が裏に回ろうと扉の前から退こうとした瞬間。
バン! という音とともに勢いよく開かれた扉が、風漸の体を突き飛ばした。
一緒にひっくり返る前に飛び立った笹目が、飛那姫の肩に降り立つ。
「うるさいんだよ! このクソ風漸! 休業って書いてあんのが見えないのかい?!」
そう叫んで戸口に立ったのは、30歳くらいの、黒髪ショートカットの女性だった。
ちょっとしわになった白いシャツと、黒いぴったりしたパンツルック。
右手には何かの工具を持っている。つんのめって転んだ風漸を一瞥すると、眉間にしわを寄せた顔で小さく舌打ちした。
「アンリ! オハヨウ!」
「ああ、笹目も一緒だったかい……」
挨拶した笹目の方を向いたその視線が、立ち尽くす飛那姫に留まった。
「あれ? あんた……どこの子だい?」
飛那姫が答える前に、地面に転がった風漸が「おい」と不機嫌な声をあげた。
「お前……扉はもうちょっと静かに開けろ」
「あんたに静かに、とか言われたくないね」
腰をさすりながら立ち上がる風漸を鼻で笑って、女性は家の中に入るようにあごで示した。
「なんか、訳ありだろ? 入りな」
「ああ……悪いな、杏里」
杏里と呼ばれた女性の店は、風漸の家よりは広いものの、不思議なものがところ狭しと置かれていた。
床にも、テーブルにも、棚にも。
うっすら魔力を放っている道具の数々を、飛那姫はもの珍しそうに見上げる。
「それで?」
テーブル上のものをガタガタと端に避けて、杏里はポットのスイッチを入れた。飛那姫も見たことがある、火を使わなくてもお湯が沸く魔道具だ。
「腐った男だとは思っていたけど、いたいけな少女を攫ってくるなんてね……」
「人聞きの悪いこと言うな!」
風漸が冗談じゃないとばかりに言い返して、どかっと椅子に腰掛ける。
飛那姫も、そろそろとその隣に座った。
「じゃあ、この可愛い子は誰なんだい?」
「この子は、ちょっと訳ありで、俺が昨日引き取って面倒をみることになったんだ。それで、お前に頼みがあって来た」
「……代金は払ってもらえるんだろうね?」
「道具類は少し欲しいと思ってる。だが、頼みってのはそうじゃなくて、この子に……」
飛那姫をちらりと横目で見て、少し言いにくそうに風漸は続けた。
「風呂の……入り方を教えてやってくれないか?」
「……はぁ?」
「こいつは色んなことを人任せで生活してきたから、皿のひとつも洗えない上に、どうやって風呂に入っていいかも分からないんだ。そうだな? 飛那姫」
「え?」
確かに、一般民の家でどのように湯浴みすればいいかは分からない。
城では服を脱いで、頭や体を洗うところから、髪を梳いて乾かして整えるまで、自分でやったことなど何ひとつない。分からないに決まっている。
「はい……確かに。どうすればいいのか、分かりませんね」
「嘘だろ? あんた何歳だい?」
「8歳になりました」
「随分としっかりした8歳だけど、風呂に入ったことがないのかい?」
「あ、いえ……入ってはいたのですが……」
どう答えていいか分からなくなって、風漸を振り返る。
風漸は黙ってろと言うように、手を振ってみせた。
「とにかく、子供とは言えさすがに俺が教える訳にはいかんからな。お前、一応女だろ?」
「一応は余計だよ」
「色々と面倒なこともあってな、少しここを出て旅してこようと思ってる。野宿先でどうしたらいいかも教えてやって欲しい」
「はぁ……なんだか、急な話だねぇ」
呆れた眼差しを風漸に向けて、杏里は飛那姫の着ている上着をつまんでみせた。
「この子がこうやって男の子の格好してるのも、その訳ありとやらが絡んでるのかい?」
「まぁ……そうだな。始めはまた、奴隷商に目を付けられないようにと思っただけだったんだが」
「ふーん……ま、これだけ可愛い顔してりゃ、すぐに攫われそうだもんねぇ」
まじまじと飛那姫を見て、杏里は「まぁいいか」と呟いた。
「現時点で事情は聞かないでおいてやるよ。この子を風呂に入れてやればいいんだね?」
「ああ、頼む」
杏里に連れられて店の奥の扉に進むと、その先は住居スペースになっているようだった。
狭い廊下を歩いて台所を通り、さらにその奥へ進むと部屋と呼ぶには小さすぎる空間に出た。
小さく仕切られたスペースの薄いガラス戸を、杏里は後ろ手にぴしゃりと閉めた。
「あんた名前は?」
「飛那姫と申し……あ、いえ、飛那姫です」
「風呂の入り方を知らないって、相当いいところのお嬢ちゃんなんだろうけど……服は脱げるかい?」
「はい」
「じゃあ全部脱いでそこのカゴに入れて。着替えは……あいつが持ってるか。ちょっと待ってな」
ぴしゃり、とまた戸が閉まって杏里が歩いて行く音が遠ざかる。
急にしん、となった小さい脱衣所に心細さが襲ってきた。
この状況にとまどいながらも、飛那姫は言われた通りのろのろと服を脱ぐ。ちくちくしていた靴下を脱いだところで、ほっとした。
いつもならごく薄い布が肩からかけられて、令蘭や侍女達が洗い場で頭の先から足の先まで丁寧に洗ってくれるのだが。
これからは、自分でしなくてはならないのだろう。
王女だった自分は、父王や先生達と一緒に死んだのだろうか。
今の自分を振り返って、そんな風に考えてしまう。
でも仮にそうだったとしても、王族の誇りは捨てたくなかった。
薄いスープも、硬い寝床も、ごわごわの靴下も我慢するし、必要なことは覚える。でもあの城で、みんなと過ごした日々を全てなかったことにしてしまうのは嫌だった。
(私のことを、覚えておいてくれますか?)
先生の言葉が頭をよぎって、飛那姫はぐっと拳を握りしめた。
「忘れません……」
小さく呟く。
自分が斬った、倒れた兵士達の姿を思い出すと吐き気がこみ上げてくる。
罪悪感なんて一言ではすませられない、大きな黒いシミが心の中に落ちて、それはもう一生ぬぐうことは出来ないだろうと思えた。
それでも……自分はみんなの仇を取る。
城から出て背を向けて逃げたときに、もう決めたことだ。神楽を扱えるようになれば、きっと成し遂げられる。
ぴしゃり、とガラス戸を閉めた杏里は、思い詰めた表情の飛那姫を見つめた。
「……ねえ、大丈夫?」
思わず、そう声をかける。
8歳の子とは思えないほど大人びた横顔は、逆に不安さえ覚えた。
「あ……はい。大丈夫です」
すぐに子供の顔に戻って面を上げた飛那姫に、杏里は小さく息をつくと小さいタオルを一つ、投げてよこした。
「じゃあ、洗い方、教えようか」