黒の記憶
何も縋るところのない、感覚だけが研ぎ澄まされた世界だった。
動かない四肢でも、自分以外に誰もいないと知覚することは出来た。
ここは、魔剣の内部なのだろうか。
同調したことで、私の精神が取り込まれてしまったのかもしれない。
こんなところにずっといたら、頭がおかしくなってしまうことだけは確かだった。早く抜け出さなければ。
でも、どうやって……
この生温かい気持ち悪さを、振り払いたい。
水の中とも空ともつかない緩やかな流れに乗って、ただ運ばれていく自分の体をどうにかしたい。
唯一動く目をぎゅっと固く閉じたら、瞼の奥に知らない男の人の姿が見えた。
すらりとした長身に黒髪。白い肌は女の人みたいで、線が細くて綺麗な人だと思った。
誰……?
私の記憶にはない人だ。
彼は地面に膝をつくと、懇願するような面持ちで目の前を見上げた。
「命ある限り、その魔剣に抗いたいとお前が望むのなら……見届けようではないか。私とともに来るがいい」
その視線の先に聞こえてきた、低く落ち着いた男声。
そこには一人の剣士が立っていた。立派な身なりで、40歳前後。威風堂々、という言葉が似合いそうな人だった。
強そうな雰囲気なのに、その目は誰かによく似た、優しい色をしていた。
私は何を見ているんだろう。
これは、誰の記憶にある景色なんだろうか……?
また景色が変わった。
周囲の様子から、お城の一室のようだった。
大きな椅子に腰掛けて、先ほどの剣士が微笑んでいた。
「高絽、私の娘に、剣を教えてやってはくれないか」
その内容に、息を飲んだ。
もしかしてこの人は……
答えにたどり着く前に、その風景も別の部屋にとって変わった。
両膝をついて、苦しそうに肩で息をする、初老の剣士。
年は変わっていたけれど、同じ人だと思った。
そしてその手に握られた剣は、私にとって見覚えのありすぎるものだった。
神楽……!
(修喜王……私は結局、この狂気を振り払う事は出来ませんでした)
しずかな、独白にも似たそんな声が聞こえてくる。
「其方を、救えなくてすまない……」
神楽を杖のように立ててそう言うと、剣士はかすかに笑った。
無念だと、そう言っているような気がした。
命の炎が尽きようとしている最期の時に、この綺麗な男の人に向けられた言葉。
(何を謝る……貴方は、何も悪くないのに……)
苦くて冷たい何かが胸に広がった気がした。
この男の人の感覚に、引きずられているのだ。
再び、景色は変わった。
飛び込んできたのは、見開かれた薄茶の大きな瞳。
子供の頃の、飛那ちゃんだった。
綺麗な髪にも顔にも血が飛んで、血まみれで、ひどい姿だった。
(私を……忘れないで、ほしい……)
消え入りそうな声だったけれど、確かにそう聞こえた。
愛おしいと、一人にしないでくれと、声にならない声が聞こえた気がした。
自分が泣いているのか、この男の人が泣いているのかもう分からない。
痛くて、悲しくて、狂おしいほど、飛那ちゃんが大事だったんだ。この人は……
瞑った目の奥で、映像が切り替わった。
今度はどこかの農村の風景のようだった。
「厄介者」
耳のすぐ後ろで聞こえたかのような、悪意に満ちた声だった。
自分に向けられたものではないと分かっていても、心臓は大きく跳ねた。
「お前なんか、引き取らなければ良かったんだ」
しわがれた声の、女の人が立っている。
濁った目が、真っ直ぐに憎しみをぶつけてきた。
「お前も姉さんと一緒に死んでしまえば良かったものを」
そう告げる相手は、ネモだった。
他にもたくさんの人がいた。大人も子供も、老人も皆、ネモを汚い物を見るような目で見下していた。
これはきっと、ネモの記憶。
わらべうたが聞こえる。
囲め 囲め……籠の中の鳥は
何時 何時 出遣る
夜明けの番人
鶴と亀が滑った
後ろの正面 だあれ……?
輪の中心にいるのは、ネモだ。今より少し幼い。
ネモを囲む子供達は彼の答えを待たない。
一人の子が、至近距離から何かを投げたように見えた。
ネモはこめかみに当たった石が地面に転がるのを、指の間から放心したように見ていた。
頬を伝った血が、肩にぽたぽたと落ちる。
それはとても恐ろしい光景だった。
すぐにでも割って入って止めなければいけない、小さな村の中で行われていた虐待の一部。
こんな景色には、覚えがある。
私も、同じだったから。
「あいつとは目を合わせちゃいけないんだよ」
「側によると呪われるんだって」
「やだ、気持ち悪い」
ネモは空っぽだった。
悲しいとか、悔しいとか、当たり前に浮かんできそうな、そんな感情すら抱いていないようだった。
自己防衛の本能を働かせて、必死に自分の殻に閉じこもっているように見えた。
そうしておかないと、壊れてしまうから。
先ほどの女の人だろうか。おばあさんが一人、布団の中で冷たくなっている。
それを見下ろしたまま、ネモは静かに泣いていた。
自分が涙を流していることも、気付いていないようだった。
次に見えたのは、血に染まった村の風景。
道のあちこちに、生きていたものとは思えない無残な姿で、倒れている人達。
目を背けたくなるような惨状の真ん中に、ネモは黒い剣を握りしめたまま立っていた。
何かを笑いたくなる衝動と、耐えがたい孤独を孕んだ狂気。
どちらも似すぎていて、どれが彼の本当の感情なのか分からなくなる。
(どうしてみんな、僕をひとりにするの?)
行いと矛盾した問い。
もう、やめて欲しい。
こんなものは、もう見たくない…………!!
拒絶した瞬間、何かに吸い上げられるように意識が自分に戻ってきた。
「美威、厄介者」
それは、今度こそ自分に向けられた言葉だった。
投げられた石も、憎悪に満ちた視線も、悪意に溢れた言葉も。
全部、自分の記憶にあるものだった。
「あんな子、生まなければ良かったわ」
本当にね。と答えたのは、父だ。
世間話でもするかのような気軽さで、全てを否定された。
死んでしまった方が楽なのに、それでも死ぬのは嫌だと醜い生が叫んでいる。
生まれてきたことの意味を知ることなく、ただ朽ちて死んでいくだけなんて。
そんなのは嫌だと。
誰か……誰か、私を必要だと言って。
ここにいてもいいんだよと、その一言だけでいいから。
重くて、暗くて、縮こまった気持ちを、誰かに受け止めて欲しい。
触れてしまったネモの気持ちは、幼い私が抱いていたものと酷似していた。
物語終盤の、暗澹とした部分に差し掛かっています。
苦手な人はごめんなさい。
余談ですが、わが家には生き物がたくさんいます。
昨日はそれ関連でバタバタしてました。土曜日は訪問してくださる方が多いので、更新したかったのですが……相すみません。
次回は、「最後の選択」。美威と飛那姫のリレー語りで、お送りする予定です。




