仕組まれた罠
木刀を握った右手は、明らかにおかしかった。
まるで夢の中みたいに、力が入らない。
私は開始線に立ったまま、自分の中の異変を感じとっていた。
いつも通り魔力を動かそうとしても、ざわざわして思うとおりに動かない。
この感覚は、マルコに魔力を撹乱された時とよく似ていた。
でも、何故今……
「……まさか……?」
誰かに魔法や呪いをかけられた訳でもなし、思い当たることなんて、先刻口にしたお茶とお菓子くらいしかなかった。
どちらも、慣れない味だった。あれのどれかに、何か入っていたんじゃないだろうか……
はめられたのかもしれない。そう気付くのが、少し遅かった。
魔力が動かない状態で、勝負など出来るわけがないのに。
「あなたのような規格外の剣士と、まともにやり合おうなどという人間はいないでしょう」
イゴールがそう口を開いたことで、私は不調の原因を確信した。
真剣勝負の前に一服盛るとか、こいつ……やっぱり最悪なヤツじゃないか。
なんとしてでも叩きのめしてやりたい。けど……
「あなたの剣術が魔力に頼っていることは、すぐに分かりましたよ。身体能力も、魔力が使えなければその見た目通りなのでしょうが……どうされますか? 私の不戦勝ということにいたしましょうか?」
「ご冗談を……」
死んでもお前の嫁になんてなるか。
無言の呟きは、どうやら通じたらしい。
愉快そうに微笑むと、イゴールは木刀を正眼に構えた。
「では、実力行使といきましょう」
「!」
開始の合図もなしに、左から空気を切り裂く音が聞こえてきた。
「……っ!」
反射的に握りしめた木刀を構えて、両の手で受ける。
鈍く重い手応えに、手首と肩が悲鳴をあげた。
(この野郎……本気で打ち込んで来やがって……!)
じーんとしびれて、木刀を取り落としそうになりながらも、私は続く2撃目をなんとか受け流した。
……ダメだ、やっぱり太刀筋に反応しきれない。力も弱すぎて、受けることすら難しい。
子供と遊ぶように左右から乱れ飛ぶ軽い斬撃を受けながら、私はどんどん後退していった。
場外のルールはない。
武器が壊れるか、どちらかが戦闘不能になるか、負けを認めるかしないと、勝負は終わりにならない。
イゴールは私をじわじわと追い詰めて、楽しんでいるように見えた。
「ほら、もう後がありませんよ」
重い正面からの一撃を受けて、私は今度こそ木刀を取り落としてしまった。
よろけた瞬間に背中に当たった感触で、壁に追い詰められたことを知る。
真一文字のシルエットが飛び込んできて、肩が激しく押さえ付けられた。イゴールの木刀で圧迫された鎖骨が、軋んだような音を立てた。
「つっ……!」
「失礼。美しいお顔に傷を付けるわけにはいきませんからね」
しびれた手で木刀を押し返そうとしたけど、びくともしない。
本当に私、魔力ないとてんでダメなんだな……
「さて、負けました、と言ってくださいますか?」
「……私を嬲りたいのなら、ご自由にどうぞ」
「……ほう?」
(死んでも負けたなんて言うもんか)
顔にツバを吐いてやりたいのを我慢する。イゴールは口の端を上げて、肩口を押さえ込む手に力をこめた。
「本当に気丈な方ですね。やりようは、いくらでもあるのですが……」
「……!」
歯を食いしばって痛みを堪えているところに、「おやめくださいませ!」と私よりもよっぽど痛そうな響きの声が飛び込んできた。
「もうよろしいではありませんか! 飛那姫様は体調がお悪いのです……これ以上はおやめ下さいませ!」
そう言って跪いたのは、侍女の令蕾だった。
見るに見かねて飛び出してきたのだろうけど、よほど恐ろしいのを我慢しているのか、青冷めた顔で震えていた。
子供の頃に大好きだった侍女の令蘭に、面立ちも名前も似ていて、よく仕えてくれている侍女だ。
でもまさか、私を助けようとこんな行動に出るなんて……
一瞬じーんとしかけたけど、次の瞬間、私自身も青くなった。
「令蕾!」
イゴールが容赦なく令蕾を蹴ったのだ。
助けようと動こうとしたら、肩口からずり上がった木刀が、私の喉元に食い込んだ。
「ゲホッ……!」
そのまま、また壁に押し付けられて身動きが取れなくなる。
コイツ……クズだ! 絶対半殺す!!
「侍女の分際で無礼な……真剣であれば斬り捨てているところだ。下がっていろ」
他の侍従に助け起こされた令蕾に向かって、イゴールは冷たい目で言った。
「さて飛那姫王女、負けを認め、確約をいただきましょうか」
イゴールの手が、私のあごを掴んでくる。
「誰が……こんな、卑怯な……!」
「よく聞こえませんね。Yesと言ってくださるだけで結構ですよ?」
近付いてきた青い目には嫌悪感しか沸かない。背けようとする私の顔を力尽くで自分の方に固定したまま、イゴールが笑った。
「困りましたね。どうしたら負けを認めてくださいますか? これ以上手荒なこともしたくないのですが……」
唇をなぞる親指に、鳥肌が立った。
この笑顔も、手も、全てが気持ち悪い。
触るなと、叫びたい。
そらせない視線に、思わず目を瞑ったら、ふいに喉の苦しさから解放された。
開けた視界の中に、私のあごを掴んでいたはずのイゴールの手と……
それを横から掴んだ手。
「イゴール殿、悪ふざけがすぎるのでは?」
休んでいた部屋から出て来たのか、騎士っぽい軽装でアレクが隣に立っていた。
口調はいつも通り静かなのに、その声には昼のパーティーの時以上にあからさまな怒気が滲み出ていた。
「……アレク」
その場にへたりこみかけた足を叱って、壁を支えに立つと、私は長身の背中を見上げた。
以前の私なら、「私の前に立つな」と怒っていただろう。それなのに、今は心の底から安堵してしまっている自分がいる。
不思議だった。
私はもうずっと、いつでも前に立って、誰かを守るために戦ってきたはずなのに……
かばわれた背中にホッとして、この後ろが、心地良いと感じるなんて。
「アレクシス殿ではありませんか……王女様の騎士のつもりですか? 言っておきますが、これは正当な勝負の結果で、あなたが口出しをするようなことでは……」
「こんなものが、正当な勝負のわけがないでしょう」
冷たく、軽蔑を帯びた響きを含んで、アレクが答えた。
「戦えない状態にしておいて勝負など……卑劣にも程があります」
「何を仰っているのか分かりかねますが……勝負とは時に非道なもの。大事なのは最終的に勝つか負けるかであって、正当も卑劣もないのですよ」
おい、お前……確か、「剣は美学」とか語ってなかったか?
開き直ったイゴールの言葉に、腹が立つを通り越してただ呆れた。
「なんと言おうと、こんな勝負は無効です」
「貴方がそんなに不愉快そうな顔をしているのを、始めて見ましたよ。女性に興味がないと噂されているようでしたが……意外でしたね」
イゴールは嘲るような笑いとともに、何かを思いついたように考えた風を作った。
「そうですね、それ程言うのならアレクシス殿、彼女の代わりにあなたが勝負していただけますか?」
「代わりに、私が?」
その提案は、愚かしいとしか思えないものだった。
自分の実力も分からないのだろうか。お前よりアレクの方が強いに決まってる。
「かまいませんが……私が勝った際は、今後一切、彼女と紗里真に手出ししないと、約束してもらえますか?」
「いいでしょう。しかし私が勝ったあかつきには、彼女を正式に正妃としてもらい受ける確約をいただきますよ。あと……そうですね、アレクシス殿にはうちのイザベラを正妃に迎えてもらいましょうか」
「分かりました」
(うわ……最悪すぎる条件だな。現実になったら悪夢以外の何ものでもない)
アレクが負けるとは思えなくても、彼にとってメリットのある条件とは思えなかった。
こんな勝負を受ける意味が、本当にあるのかな。
床に落ちていた私の木刀をアレクが拾う。
「私が仕切り直してもかまわないか? 飛那姫」
「え……ああ、それは……でも、アレクにとってなんのメリットもないのに」
「メリット? 何を言ってるんだ君は……私に任せてくれるのか? くれないのか?」
「……あいつを叩きのめしてくれるのなら、任せる」
「叩きのめ……飛那姫、言葉遣いを正した方が良いのじゃないか?」
「あ」
つい、いつもの調子でしゃべってしまった。
イゴールと北の侍従達は反対側に行ってるから聞こえなかったと思うけど、後ろに控えている私の侍女達やアレクの侍従には丸聞こえだったな。
アレクは少しだけ笑うと、「確かに任されたよ」と開始線に向かっていった。
しまった。せっかく姫らしく取り繕ってきたのに、侍女達もどん引きじゃないだろうか。
「飛那姫様、お怪我はございませんか?」
私とアレクが話し終わるのを待っていたのか、令蕾が話しかけてきた。
半分泣きそうな顔で、どん引きってよりは、本当に私を心配しているように見えた。
「大丈夫よ。ありがとう。令蕾こそ、怪我は?」
「少し痛かったですが、西の侍従の方が癒やしてくださいましたので」
そう言って振り向いた令蕾の視線の先で、ひょろっとした学士風の男が頭を下げた。
どこかで見た顔だな。
「どうもありがとう。助かりました」
お礼を言ったら、居心地悪そうにして「とんでもございません。お役に立てましたのなら幸いです」ともっと頭を下げた。
影の薄い感じだけど、アレクの侍従なんだろうな。
いつの間にか、アレクとイゴールは開始線に立って、互いに向かい合っていた。
「いつぞやは手加減しましたが、今日は本気で行きますよ」
含むような笑顔で言ったイゴールが、木刀を構えた。
何か、嫌な予感がした。
飛那姫視点から少し時間軸を遡った回でした。
活動報告の方に訪れて下さった方、ありがとうございます。
また何か描いた時は、ここでお知らせしますね。
次回は、バトル2。




