罪の枷
ネモの気配が、消えた。
(また、逃げられた……)
口々に騒ぐ人達の中に、ただ立ち尽くす。
誰も死ななかったことにほっとしてなんていられない。
今すぐにでもネモを追いたい。あいつがまた、誰かを手にかける前に止めなくちゃいけないのに……
姫様、お怪我はありませんか? ご無事で何より。我々がふがいなく申し訳ありません。後はこちらで対応しますので、どうぞ城へお戻りください。姫様、姫様……
あちこちからかけられる気遣う声に、追い詰められるような焦りが沸き上がってくる。
あの黒い剣を止められるのが自分しかいないと分かっていても、もう、好き勝手に追いかけることなど出来ないのだと、知っている。
視線をさまよわせたら、護衛の兵達に囲まれた中で、心配そうにこちらを見ている濃緑の瞳と目が合った。
プロントウィーグルの席は離れていたはずなのに、すぐ側まで来ていたのか。
何か言いたそうなアレクに、首を横に振った。
今は、話せない。
どうせ剣舞の披露を最後に、復国祭は終了する予定だったのだ。
ゲストに被害がないことは幸いだった。兄様が客席に向かって短い挨拶をして、復国祭の終わりを告げる。
魔剣のことに関しては、突然の襲撃で分からないという体を取るらしい。
混乱のうちに、紗里真復国祭はお開きとなった。
「状況を整理しよう」
夜半、兄様の自室に集まったのは、私と美威と、余戸と、マキシムだった。
死人も出ず怪我人も少数だったが、今日の復国祭がとんだ事態になったのは間違いなかった。
混乱している大国や小国への説明は、大臣として据えた2人の学士が「状況はまだ分からないが、城の中は安全」の一点張りで対応して回っている。
「まず、ネモが生きていたことが確認出来た。彼が復国祭に現れたのは、ある程度想定内だったね。逃げられたけれど、大した被害もなく計画を実行できたのには成果があったと言える」
「計画……成果?」
兄様の話す意味がよく分からず、私は聞き返した。何の計画があったのだろうか。
「うん、余戸や騎士隊長クラスに持たせていたんだ。これをね」
そう言って兄様が取り出したのは、子供が使うような大きさの、小さな赤いボールだった。
手の中からそれを受け取って、眺めてみる。なんだ、これ?
「投げて敵にぶつけるんだ。中に特殊な塗料が入っていて、一度体につくと洗ってもしばらくの期間は消えない」
言いながら、兄様はテーブルの上に、一枚の地図を広げた。真国の地図だった。
その中にある、赤い点を指さす。
「これが、ネモだよ」
「え?」
「マキシムがつけてくれたマーキングを感知してるんだ。この真国のどこにいても、これでしばらくは追える」
コンパスの迷子札機能を応用したものなんだよ、と兄様が説明するのを、美威が感心したように聞いていた。
ネモのいる場所が、分かるってことか……?
「安心して飛那姫、彼は今森の深い所にいるようだ。ここに人里はないから、大量殺戮を行っていることはないよ」
「兄様……」
「なにしろ一度逃げられているからね。またそうなった時に追いかけて捕まえるのは難しいと思って、せめて位置確認が出来ればと用意していたんだ」
兄様の言葉で、今この時にも誰か死んでいるのではないかと、汚泥のように胸に抱え込んでいた焦燥感が、一気に薄らいだ。
「良かった……」
「然るべき体制を整えて、今度はこちらから討って出ようと思うんだ」
作戦のいくつかを説明する兄様の言葉を、余戸やマキシムが頷きながら聞いている。
ネモがこれ以上人を殺める前に、見つけ出して止めなければいけない。強さを求めているあいつはまた、大量殺戮に走る可能性が高い。
動き出す前にこちらから仕掛けなければ……
作戦の段取りが一段落して、とにかく明日はまだゲストが滞在しているから、本当の意味で復国祭が終わってから本格的に動こうというところで、話が落ち着いた。
動かない赤い点を見ながら、私も頷く。
対外的に臣下は主を見送らなくてはいけないので、私が一番先に退出することになる。
兄様の自室を出たところでほんの少しだけ振り返ったら、美威と目が合った。
部屋を一歩出れば周りに人がいる。うかつなことは言えない。
口から出かけた言葉を、飲み込んだ。
自室に戻り夜着に着替えさせられて、就寝の支度が整ったところで早々に侍女達を下がらせた。
部屋の中に一人だけになってから、テーブルの上に置かれた水差しを下げるように言い忘れたことを後悔する。
一人ベッドに転がって、薄いレースのかかる天蓋を仰いだ。
今日、黒い剣と相対したことで、否が応でも一人の人物を思い浮かべてしまう。
(……先生)
かつて、あの魔剣・煉獄の持ち主だった、私の剣の指南役。
この手で命を絶ったのは、庭園の隅にあった魔道具工場の中だった。
今は撤去されたあの建物の冷たい床と、胸の中心を貫いた、神楽の感触。
暗闇の色にも似た血に染まった狂おしいほどの絶望が、閉じた瞼の裏の笑顔とともに蘇ってくる。
(私を……忘れないで、ほしい……)
耳元で囁かれたような気がしたのは、錯覚だ。
それでも肌の表面を撫でていった寒気に、私はベッドから跳ね起きた。
先生の、最期の言葉。
騒がしく揺れる鼓動に眉をしかめて膝を抱えた。
これは、罰だ。
愛していたはずの人を、命を絶つことでしか救えなかった私の。
懺悔する相手もなく、どこまで行っても忘れることすら赦されない。
未だ過去の風景に怯え、血に染まった自分の手を見つめ、そうして生きていくしかない罪業。
ふと、大窓の外、バルコニーに降りてきた人の気配に気付いて顔をあげた。
闇夜に浮き立つ慣れた魔力が、私の安堵を誘った。今、どれほどにそれを求めていたことか。
走り寄って窓を開け放つ。
「わっ、びっくりした! いきなり開けないでよっ」
月明かりの下、つややかな長い黒髪がのけぞって揺れた。
さっき別れたばかりの相棒がそこに立っていた。
「……美威」
「庭園とか城の周りにも、見張りの兵がいっぱいでヒヤヒヤしたわよ。これって不法侵入じゃない? 見つかったら私、護衛の人達に捕まるわよね?」
「はは……そうだな」
苦笑した私に眉をひそめると、美威は窓枠を押さえていた右手を取った。
「……やっぱり」
小さく震える指先を見逃さない勘の良さに、敵わないと思う。
「ろくなこと考えてなさそうな顔してたから来たのよ。どうせ一人じゃ寝れないでしょ? 睡眠薬が必要よね」
「……助かる」
いつもこうして私を救いに来てくれる相棒へ、偽りのない言葉を返す。
ひとりきりで眠りに落ちる怖さを。
まとわりついて離れない、血の匂いが漂ってくるのを。
神楽と一緒に、魂になじんでしまったかのような、死の気配を。
いつも、美威が見えないようにしてくれた。
それじゃダメなんだと、もう一人で立たなくてはと、分かっているのに。
王女に戻った今も、変わらずに差し伸べられる手を離すことが出来ない。
「あいつが……あの黒い剣が飛那ちゃんに執着しているからって、一人で背負うようなことじゃないのよ」
寝なさいとばかりに無理矢理ベッドに転がされて、横の椅子に腰掛けると、美威が言った。
「いや……私が、止めなきゃいけない問題なんだ」
「飛那ちゃん」
とがめるような声の美威に、それでも続けた。
「昔……美威と会う少し前に、あの魔剣の前の持ち主を、私は殺したんだ。この国で……この手で」
美威にも、はっきりと口に出して説明したことはなかった気がする。
少し息を飲んで、黙ったまま美威は聞いていた。
「持ち主を殺しても、魔剣は止まらなかった。魔法剣と同じなんだ。宿主が死ねば、また次の宿主を探すだけ……あの魔剣を止めるには、剣自体を破壊するしか、ない。それが出来るのは……多分私だけなんだ」
「破壊するって、どうやって?」
「……方法は、ある」
兄様に調べてもらった、魔剣と魔法剣の特性のこと。
師匠が死んでも残って、私を助けて消えた赤い魔法剣のこと。
色んな事を統合して考えていて、私なりに気付いた事がある。そしてそれが正しければ、あの魔剣を破壊できるのは同等の強さをもった魔法剣だけだろうと……
「ネモと魔剣のことは、兄様にも、騎士団にも、背負わせるつもりはない。あいつが私を追うのにも何か理由があるんだ……その何かを、私がこの手で断ち切らなきゃいけないんだ。先生の時とは違った方法で」
私達に共通する、根深い何か。
それを断ち切らない限り、この因縁の連鎖は終わらない。
「美威」
「何?」
「私な……先生を殺した後、逃げたんだ。この国にまだ、兵士や民が残っていることを知っていたのに、私はそれを全部置いて、逃げた。あれは……選択肢そのものを消してしまうような、卑怯で臆病な逃げ方だった」
子供だった。ただ、それだけの理由で。
「私は、あの日に自分がしたことの全てが、どうしても赦せない……」
「……でも、帰ってきたじゃない。今ここで、頑張ってるじゃない」
「お前を、逃げ場にしてきた。もう、ずっと」
弁護する美威を遮って続けた言葉は、分かってはいても、口にするのはためらわれていたことで。
こんな依存心で側にいる疚しさはもう、捨てなくちゃいけない。
「楽だったんだ……お前の側が。生きてる理由を全部お前に押し付けておけば、楽だった。でも、ここに帰ってきて、逃げられなくなった。過去の罪と、向き合わなくちゃ、いけなくなったんだ……」
背負った罪にまつわることの、清算。
きっと、そういうことなんだと思う。
「向き合わなくちゃいけなくなったのなら……向き合えばいいわ。罰を受けるためじゃなくて、前に、進むために」
毅然と、美威が言った。
ほんの少しだけ、悲しさをにじませて。
「前に……?」
「そうよ、そのために生きてるんだから」
すっと手が伸びてきて、額に添えられた。
「大丈夫よ、私はどこにも行かない。飛那ちゃんが本当は弱虫でも、臆病者でも、私が逃げ場所でもいいわ。今日は色々あって疲れたのよ……大丈夫だから、もう寝て。私が、いるから……安心して眠るといいわ」
「美威……」
「夢の滴」
眠れないとき、度々世話になってきた眠りの魔法を、美威が唱える。
「おやすみ、飛那ちゃん……」
まどろみが降りてきて、暗くなっていく視界の向こうに、藍色の瞳が微笑むのが見えた。
夜間投稿です。予定通り(?)。
文字数が……いえ、何でもありません。ちょっと暗かったですね。次話はもうちょい明るくいきましょう。
次回、復国祭後のガーデンパーティーから。
明日更新出来るといいなぁ……




