追っ手
一人になると、思い出したくないことが次々に脳裏に浮かんできた。
あんなに怖い思いをしたはずなのに、心に浮かぶのは何故か日々のたわいもない事ばかりだった。
馬に乗せてくれた父様の逞しい腕。
一緒にお茶を飲んで笑う母様の綺麗な顔。
抱き上げて見つめてくれた兄様の優しい瞳。
仁王立ちでお小言を言う、大好きな令蘭。
いつも剣を教えてくれた、頼れる先生。
稽古に付き合ってくれた、賑やかな騎士団のみんな。
手入れの行き届いた王宮の美しい庭。
居心地のいい自分の部屋の匂い。
本当に、あれが全部無くなってしまったのだろうか。
そんなのは嘘だと声を張り上げたい。
気が狂いそうなほど、今すぐにみんなのところに帰りたいと願う。
目が覚めると、夢と現実の境があいまいになりすぎている自分がいる。
己の存在すら、確かなものかどうか怪しいと感じてしまう、空虚で弱い心。
あの時に死んでいた方がまだ良かったという思いが、幾度も幾度も私に襲いかかる。
ただひとつだけ、何があっても生き延びろと言った先生の、最期の笑顔だけが私を現実に引き戻すのだ。
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「……」
ベンチに腰掛けたまま、また眠ってしまっていたらしい。
飛那姫が頭を起こすと、椅子の背に止まってこちらを見ている笹目と目が合った。
「ヒナキ、オハヨウ?」
「ええ、ごめんなさい。もう起きるから……」
風漸が出ている間、少しでも剣の稽古をしようと思っていたはずなのに。
飛那姫は立ち上がるとのろのろと玄関から外に出た。
鈍色の雲が頭上を流れていく。春の今頃は風が強い。
日差しは薄かったが、寒くはなかった。
飛那姫は右手を見て少し考えたあと、戸口に立てかけてあった棒を手に取った。
ヒュン! と空を切ってそれを構える。
何故か、神楽を顕現する気にはなれなかった。
(今日は、これでいい…)
騎士団との稽古の時にしていたウォーミングアップを、一人で始める。
体を動かしていると、嫌なことを少し忘れられる気がした。
一通り運動を終えて、剣舞の練習もしておくかと考えていたら、突然笹目が屋根から飛び立って、ギャギャギャ、と声を上げた。
「?」
門の所まで降りてきて、もう一度、ギャギャギャ! と騒ぐ。
「どうしたの笹目?」
理由はすぐに分かった。
坂の下から上がってくる人影が目に留まる。
10、20……随分と数が多い。
そして、その鎧姿には見覚えがあった。
玉座の間にいた、あの兵士達の鎧と同じ形だ。
「……!」
さっと顔色を変えて、飛那姫は後ずさった。
段々と近づいてくる兵士の一隊は、すでに飛那姫の姿を捕らえているようだった。
隠れるところは、ない。
心に湧き立つのは、怯えと怒り。
戦うべきか、逃げるべきか……
もし戦うことを選べば、神楽を使うことになる。
(あの兵士達を斬り殺すことなんて……出来るの?)
そう考えた瞬間、背筋が凍り付くような感覚を覚えた。
同時に、背後から剣を突き立てられた礼峰の姿が脳裏に浮かんできて、ギリ、と歯を食いしばった。
剣を手に戦うと言うことは、確実に相手を傷つけ、命を奪うということだ。
どんなに美しくても、国宝であっても、剣は剣。
人殺しのための道具に他ならない。
(また、血が流れる……)
考えている時間はなかった。飛那姫は迷いの断ち切れないまま、門の前の道に立った。
先頭の兵が、すぐ目の前まで歩いてきて止まる。
「そこの子供、何歳だ?」
「……」
「お前は女か?」
無言の飛那姫に、首をかしげた兵が尋ねる。
顔立ちは女の子なのに、無造作に髪をしばって男物の服を着ているからだろう。
「名前は何という? 答えろ」
高飛車な物言いを受けて、形の良い唇が皮肉にゆがんだ。
戦うか逃げるか、答えは最初から出ている。
「紗里真、飛那姫…」
飛那姫はカラン、と持っていた棒を地面に転がした。
「何?!」
「おい! 見つけたぞ!」
先頭の兵が声をあげると、後ろの兵達が鎧をガチャガチャ言わせながら、坂を駆け上ってくる。
何人かが剣を抜いたのが見えた。
(ああ、やはり私を殺しに来たのか)
飛那姫は人ごとのようにそう思った。
もう怖くはなかった。
「神楽……おいで」
右手に意識を集中して魔力を放出すると、キン! と空気を振るわせて一振りの長剣が姿を顕す。
青い光をまとい、幻想的に揺らめく圧倒的な存在。
それを目にした兵達が少しだけひるんだ。
飛那姫の身長と変わらないほど長いその剣は、不思議と重さを感じない。
まるで体の一部であるかのように。
「あ、あれだ! 聖剣! あれを奪え!! 王女は殺してもかまわない!!」
部隊長らしき男の声で、兵達が動いた。
自分の居場所を、全てを、一瞬で奪っていった怒りをどこにぶつければいいのかは明らかだった。
一つ深呼吸をして、体中の隅々にまで魔力を行き渡らせる。
じわりと、剣の先から青白い炎がもれた気がした。
飛那姫は同時に襲いかかってくる二人の兵士の動きを、じっと見つめていた。
驚くほど頭の芯は冷めていて、その先の攻撃が読むことが出来た。
(左袈裟斬り。右横下から薙ぎ払い……)
ゆらりと動いて交わすと、飛那姫は剣を払った。
一人の肩口から血が噴き出し、もう一人は右手の親指が宙を舞った。
それを見ても不思議なくらい感情は動かなくて、ただただ冷たい思考が、飛那姫の体を突き動かしていた。
1人、2人、3人……飛那姫が剣を振るう度に、確実に兵は倒れていった。
腕を切り落としても、足を切り落としても、衝撃などまるでなかったかのように、神楽は軽かった。
「残り、5人……」
そこまでは、ほんのわずかな時間だったろう。
部隊長を含む5人の兵士だけが、すでに戦意を喪失してその場に立っていた。
「なんなんだ……なんなんだ? この子供……!」
「化け物だ! 人間じゃない!」
(化け物?)
そう言われると、妙にしっくりきた。
人を斬っても何も感じない。
だって、倒れている兵士の中に礼峰を害した者だっているかもしれないのだ。
父様や、先生や、みんなを害したものが、この中に……
そんな奴らは、死んで当然だろう。
ごく当然のように、そう思えた。
「……お前達さえ来なければ、みんなは……」
飛那姫はその場で腰をぬかし、手が震えてうまく剣が握れない兵士に狙いを定めた。
「ひっ!」
恐怖でゆがむ顔に、頭上から青く光る長剣を振り下ろす。
ガキン!
衝撃とともに、金属同士がぶつかる高い音が響いた。
兵に届く前に、飛那姫の剣は止まっていた。
「……やめろ。もう、戦う気が失せてる相手だ」
兵士の前に屈んで剣を受けたのは、出かけていたはずの風漸だった。
赤い宝石のはめられた魔法剣が、神楽の刃を受け止めている。
飛那姫の目が、驚きに見開かれた。
「……何故?」
「飛那姫。お前、本当にこいつらを殺したいのか?」
剣を引いて一歩後退した飛那姫に、風漸は鋭い視線を向けた。
「当たり前でしょう……? その兵士達は、敵なんです。全部殺さなきゃ……」
「じゃあなんで、お前……そんな顔してんだよ」
「……え?」
辛そうに表情をゆがめた風漸を見て、飛那姫はふと、自分の頬に手をやった。
指先が濡れて、そこで始めて気がつく。
泣いていた。
自分でも気付かないうちに、涙が止まらなくなっていた。
「あ……」
すっと、心が現実に戻ってきた気がして、視界にかかったもやが晴れていく。
そんな感覚のあと、目の前に広がっている光景に飛那姫は息を飲んだ。
倒れてうめいている兵士達の山。
まだ息がある者も多いのか、苦しそうな声があちこちから上がっている。
「これ……私が……?」
理解することに心が追いつかず、飛那姫は呟くように尋ねた。
「ああ、そうだ」
「……っ!」
確かに人を斬った感覚が手に残っている。
確実に致命傷を与えた者、苦痛を与えただけの者、程度の違いはあれど、この人達を切り刻んだのは自分だということを飛那姫ははっきりと覚えていた。
全身の血が沸騰して、一気に冷めた気がした。
「……っいやああぁっ!!!」
神楽の顕現が溶けて、宙に消える。
頭を抱えた飛那姫は、叫んだきりその場にうずくまった。
残りの兵士達はそれを見ると、元来た道を転げるように走って逃げていった。
「飛那姫」
兵士達が逃亡していくのを後ろ目に見て、風漸は片膝をつく。
そっと飛那姫の肩を叩いた。
ぶるぶると体をふるわせながら、両手で顔を覆った飛那姫は首を横に振った。
もう何も見たくないと言わんばかりに。
「紗里真の飛那姫王女」
風漸の言葉に、びくり、と肩を揺らすと、飛那姫はゆっくりと顔をあげた。
「……どうして」
「お前には、怒る理由も権利もある。だからこいつらをお前が殺しちまっても、俺は責めない。だが……そのことでお前の心が壊れちまったら、意味ないだろ……?」
ぽん、と頭の上に置かれた手が温かくて、飛那姫の目から大粒の涙があふれ出した。
風漸は不器用な手つきで飛那姫の体を抱き上げると、肩に抱いて背中を叩いてやった。
まるで赤子をあやすかのように、ぽんぽん、と優しく。
「殺すつもりは……私……!」
「仕方ない、その剣の威力じゃ……引きずられちまっても、気がおかしくなっても不思議じゃないからな」
少しだけ酒の匂いがする首にかじりついて、飛那姫はしゃくり上げた。
「今はちょっと休め。それから……話をしよう」
風漸はそう言って、飛那姫が落ち着くまで抱いて背中を叩いてくれていた。




