奴隷市
どこまで歩いたのか、分からない。
辺りは暗くなり始めていて、鳥の鳴く声だけがたまに聞こえる。
もう足は一歩も動かなくなっていた。
意識が飛んだことにも、気付かなかった。
冷たい土の感触も、近づいてくる人の気配も。
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「ああ? あんなところに子供が死んでるぞ」
「何? 本当だ。なんでまたこんな森の奥に……捨てられたか?」
「汚れてるが、ずいぶんといい服着てやがるな」
柄の悪そうな男が2人、薪を肩に担いだまま少し離れた道から飛那姫を見下ろしていた。
「惜しいことしたな……生きていれば商品になったのに……って、おい」
ぴくり、と倒れている子供の指が動いた気配がして、男達はその場に薪を取り落とした。
近くに走り寄ってしゃがみ込むと、ひたとその首筋に手を当てる。
「おい、生きてるじゃねえか」
「やったな、拾いもんだ。しかもこの見た目、特級品として出品出来るぞ」
「確かに……こりゃあ高く売れそうだ」
下卑た笑いを浮かべて頷き合うと、男達は飛那姫の体を抱え上げてもと来た道を戻っていった。
(誰……? 令蘭……? 先生……?)
ゆらゆらと揺られる感覚に運ばれていることは分かったが、気怠さと頭の痛さが目を開けることを許さなかった。
深い眠りの底に落ちていきながら、飛那姫は愛しい人達の顔を思い出していた。
たくさんの人の声が聞こえる。
騒音と言ってもいいだろう。雑な声が飛び交うのは市場の雰囲気に似ていた。
まぶたがひどく重い。
(目を……開けなければ……)
「はい! それでは本日最後の商品だよ! 値段は張っても手に入れて絶対に損はない!」
じゃらり、と音がした。冷たくて硬い感触に首元を締め付けられた気がして、飛那姫はうめき声をあげた。
急速に開けてくる視界がまぶしくて、目を細める。
「3万!」
「5万!」
「6万出すわ!」
男の低い声、女の甲高い声、わあわあと騒ぐ聞き慣れない人の声に、飛那姫は眉をしかめた。
転がった体を起こそうと手を動かそうとして、そこで止まる。
手が、動かない。
上半身をひねって無理矢理体を起こすと、またじゃらりと音がした。首元に、重く冷たい感触が食い込む。後ろ手に縛られているのだと、すぐに分かった。
目の前には知らない人間がたくさんいて、みんながこちらを見ている。
(……何?)
飛那姫は状況が飲み込めずに、呆然と目の前の光景を見つめた。
「おお、本当に綺麗な娘だな……」
「あれは是非わが家に欲しい!」
「年は10歳くらいかしら?」
「8万! 8万出すぞ!」
自分に何が起こっているのか、この人達は何なのか、どうして縛られているのかを必死で考える。
わんわんと頭の中に響き渡る声。
泣きすぎて眠ったせいか、目も頭もひどく痛む。
「10万!」
「15万!」
どくん、どくん、と心臓が嫌な音を立てた。
この人達は一体何を言っているのだろう。
いつも自分が受けていた好意の目とは違う、なんとも言えない気持ちの悪い視線。飛那姫はその場に座り込んだまま、動くことが出来なかった。
「わたくし、この奴隷市場に通ってはじめてあんなに綺麗な子を見ましたわ」
「私もですよ。しかし15万か……ちょっともう手が出ませんなぁ」
(どれい、市場?)
聞き慣れない単語に、飛那姫はもう一度ゆっくりと視線を回した。
自分のいるこの小さな舞台のような場所の隅に、3人ほど子供の姿が見えた。
一人は泣いていて、一人はうなだれていて、一人は床に倒れている。
みんな後ろ手に縛られて、首に鉄の輪がついていて、そこから黒い鎖が伸びていた。
飛那姫はぼんやりと自分の姿に目を落とす。
薄汚れた桜色のドレスはあちこちがすり切れていて、目の前で絶命した、あの兵士の手の跡がついたままだった。
自分も後ろ手に縛られていて、首から鎖が伸びている。
あの子供達と同じだ。
(ここは一体、何?)
「26万!」
恰幅のいいひげの男性が手を挙げて、そう叫んだ。
会場がざわめいて、皆がひそひそと話し始める。
「ああ、もう決まりだな」
「無理ですね……」
「悔しいが仕方ない」
「26万! 他にいらっしゃいませんか? いらっしゃいませんね?! ……26万で落札です!」
バラバラとそぞろな拍手が上がり、満足そうな男があごひげをなでる。
その異様な光景を眺めていた飛那姫は、ぐいっと横から首に繋がった鎖を引かれた。
首が痛い。何かを言おうと思って、声がかすれた。
「ほら、早く来い!」
引きずられるように舞台の袖に連れて行かれると、3人ほどの男女と、先ほどの太った男がこちらにやってくるのが見えた。
「お支払いは現金で……」
男女の財布から何枚かの紙の束が取り出され、首から出た鎖を握っている男に渡される。
飛那姫は頭の芯がしびれたように、そのやりとりを黙って見ていた。
夢を見ているにしては、頭が痛すぎる。
「大分つぎ込んでしまったが、満足だよ。今日はいい買い物が出来た」
太った男は脂ぎった顔で笑うと、同じように紙の束を男に渡した。
飛那姫は目の前の男よりも、外に連れて行かれる子供達を魂が抜け落ちた気分で見ていた。
彼らはどこへ行くのだろう。
「さあ、行くぞ」
じゃらりと、また首の鎖が引かれて倒れそうになる飛那姫の肩を、分厚い手が捕らえた。
触れられたところから悪寒が走って、慌てて一歩退く。
「ん? なんだ? じゃあ自分でしっかり歩けよ」
言うなり、太った男は鎖を掴んだまま大股で歩き出した。首を引かれた飛那姫は、否が応でも前に進んだ。
扉から外に出るとまだ昼間で明るいのに、そこの路地だけは薄暗かった。
少し先に、粗末な馬車が一台停まっている。
「ありがとうございました」
バタン! と、自分の後ろで扉がしまる。
太った男は馬車の前まで歩いて行くと、乱暴に扉を開けた。
押し出されて、飛那姫は目の前で口を開けている入口を見つめた。
「どうした? さあ、早く乗れ」
泥のついたステップ、薄汚れた扉。
不衛生な上に装飾のひとつもない、城のものとは似ても似つかない馬車だ。
乗れと言われて、途端に嫌悪感がわき上がってくる。
「おい、聞こえなかったのか?」
また、ぐいっと鎖を引かれて、飛那姫は今度こそ我に返った。
「……っ無礼者!」
両の腕に魔力を流して、手首を拘束している麻縄を引きちぎる。
同時に自分の首から伸びる鎖を掴んで、力一杯引いた。
「うわっ?!」
その先を掴んでいた太った男は、たまらず前に引き倒された。
これは悪夢の続きだろうか?
こんな無礼な扱いを受ける覚えは飛那姫には無かった。
(森の中を歩いていたはずなのに……どうしてこんなところに)
首元に手をやり鎖を掴む。ぐっと魔力をこめて引っ張ったものの、さすがに鉄の鎖はちぎれなかった。
こんなものが、どうして首についているのだろう。
「くそっ! 痛いじゃないか! おい傭兵! こいつを押さえろ!!」
男の声で馬車の影から剣を持った男が二人、現れた。
どう見ても目がまともではない、不気味な雰囲気の男達だった。
城の騎士達とは全く異質の不気味な気配を感じて、飛那姫は一歩後退する。
「おいたはいけねえなぁ、嬢ちゃん」
「せっかく買ってもらったんだから、ちゃんと可愛がってもらわなきゃだぜ?」
そのうちの一人が飛那姫の首から地面に伸びた鎖をじゃり、と踏んで、拾い上げる。
「!」
勢いよく鎖が引かれると、飛那姫はなすすべもなく肩から地面に転がった。
擦れた頬の痛みとともに砂が目に入る。
立ち上がる前に、チャリッと音がして、首筋に冷たい剣先が当てられた。
「おとなしくしてれば、その綺麗なお顔にキズがつかなくてすむぞ」
「……!」
遠慮の無い暴力的な行為は、今までに受けたことのないものだった。
この男達が自分を害することをためらわないだろうことが伝わってきて、飛那姫は息を飲む。
怖い、と感じたら、いつでも助けると言ってくれた先生の顔が思い浮かんだ。
(先生……)
助けてくれる人はもうどこにもいない。そのことを痛いほどに思い出した。
ここがどこかは分からない。
この人達が何者かも分からないが、自分は生き残らなくてはいけないということも、同時に思い出した。
それが、先生との約束だから。
無抵抗と見なしたのか、男は剣を引くと飛那姫の腕を掴んでその体を引っ張り上げた。
鎖の重みが首にかかる。
「手間かけさせんなよ」
背中を押されて、馬車の方に追いやられた。
飛那姫は大きく息を吐いた。
肩も足も痛い。でもそれ以上に、胸が痛い。
自らの中にある存在に語りかけると、それは確かにそこにあった。
右手に、意識を集中する。
(大丈夫、私にはまだ……父様の遺してくれた、剣がある……)
手のひらの中に魔力が凝縮していくのを感じた。
青い光が集まり始めると、それは一気に剣の形に変化する。
キン! と硬質な音を周囲に響かせて、聖剣神楽がその姿を顕した。