価値のない私
テーブルの上のサンドイッチは、オレンジ色の柑橘ジュースと一緒にすっかり平らげた。どんな非常時でも、人はお腹が空くんだな。
私はボロ雑巾ぽい自分の服に目を落として、少し考えてからよろよろとバスルームへ向かった。
血の付いた服を床に落としたら、白を基調とした石造りの洗面台に大きな鏡があるのに気がついた。
長身の、若くて綺麗な女性の姿がそこにあった。
腰まで伸びた薄茶色の艶のある髪。
同じ色の大きな瞳に、すっと伸びた鼻筋。花びらを思わせる唇。
白くてなめらかな肌。女性らしい曲線。
「これが私……?」
驚いたことに、自分の姿すら忘れていたようだ。
鏡に映った姿を見て、私はどこかの貴族なのだろうかと考える。
だって、自分で言うのもおかしいが、我ながらすごい美人だ。
「いや、何馬鹿言ってるんだろ、私……」
容姿のことなんて言ってる場合ではないだろう。
記憶がないことが、これからどれだけ生活に支障を及ぼしてくるのか未知だ。家族のこと、自分の住んでいるところ、職業。確認しなくてはいけないことが山ほどある。
シャワーを浴びてさっぱりしたところで、備え付けの部屋着に袖を通す。
一人で色々考えていたら、なんだかまた不安になってきた。早くアレクが戻ってこないかな、と思った時、部屋のドアがノックされた。
「はい」
「お洋服をお持ちいたしました」
先ほどの宿娘だった。まだ1時間くらいしか経っていないのに、仕事が早い。
彼女は抱えていた包みを下ろして、そこから濃いピンク色のワンピースを取り出した。さらに薄い茶色の可愛らしい靴を取り出し、次から次へと装飾品をテーブルの上に並べていく。
「お嬢様、とてもおきれいですから何を来てもお似合いでしょうけど、少しでも素敵なお洋服をと思って張り切って探して参りました!」
「あ、ありがとう……」
「すぐにお召しになりますか?」
「ええ。他に着替えがないので」
彼女は手慣れた風に着替えを手伝ってくれた。
下着類から髪飾りまで……本当に一式そろえてくれたようだ。
落ち着いた濃いピンク色は秋の色合いで生地の肌触りもいい。上半身は体に密着するデザインだが、膝丈のスカートはゆるやかにAラインを描いている。胸元の花に見立てた飾りといい、裾の刺繍といい、高価そうなワンピースだ。
彼女は「髪も整えます」と言って、器用にサイドを編み込んでハーフアップにしてくれた。
そこに秋色のガラス細工がちりばめられた、金のバレッタが留められる。
「はい、できました!」
「どうもありがとう、助かりました」
感謝の言葉を伝えると、彼女は一仕事終えた顔でうれしそうに部屋を出て行った。
「この服、私にはちょっと可愛すぎる気がするんだけど……おかしくないかな? インターセプター」
白い聖獣はクーン、としっぽを振って愛想良く答えてくれた。
別に嫌いなデザインではないけれど……ちょっと落ち着かないのはどうしてだろう。飛んだり跳ねたり出来なさそうな、このスカートのせいかな?
まあ別に、飛んだり跳ねたり……しないからいいか。
それより、この洋服の支払いはどうなってるんだろ? 私、お金どころか所持品ゼロだしなぁ……
コンコン、とまた扉をノックする音が聞こえた。
ワン! と鳴いて走って行くと、インターセプターは二本足で立ち上がって、前足で器用にドアを開けた。
おおっ、やっぱり聖獣は賢い……思わず心の中で拍手を送る。
「ただいま、インターセプター」
そう言って入ってきたのはアレクだった。
「おかえりなさい、アレク」
「ああ、飛那姫。少しは休めた……かい」
アレクは部屋に足を踏み入れて私を見るなり、目を丸くして固まった。
どうしたのだろう。そんなに驚いた顔をして。
「……アレク?」
おそるおそる尋ねると、彼ははっとしたように動き出した。
「いや……すまない。君が、見慣れない姿で少し驚いたようだ」
「……変、でしょうか?」
スカートの裾をつまんで、自分の姿を振り返る。やっぱり私には、ちょっと可愛すぎたのではないだろうか。
落ち込んだ気配を察知したのか、アレクは慌てて手を振ると否定した。
「変じゃない! ……その、よく似合っている、と思う」
歯切れが悪い上に後半目をそらし気味になっていたが、とりあえず褒めてもらえたと解釈しておこう。
「あの、でも私、今所持品がなくて、お金がないんですけど……」
「この非常時だ。プレゼントするから、遠慮なく使って欲しい」
「え? いいんですか? こんなに高そうな……」
「気にしないでいい。君には助けてもらったこともあるし、恩返しだと思ってくれればそれで私の気も済む」
「はあ……ありがとうございます」
ただでさえ面倒をかけているのに、金銭面まで甘えてしまっていいのだろうか。
食べて、お風呂に入って、着替えたら元気も出てきたことだし、これからのことをちゃんと考えなくては。いつまでも、彼の世話になっている訳にはいかない。
「飛那姫、君のパートナーだが……結果だけ言うと、この町の宿にはいなかった」
アレクの言葉に、少し残念な気持ちになる。
「そう、ですか……」
「明日は傭兵が立ち寄りそうな店やギルドに行って、君が一体なんの目的であの森に向かったのか、そこからまず調べてみようと思う」
「あの、アレク。私のパートナーとは、一体どういう人なんでしょう?」
パートナーというのは、そもそもどういう意味でのパートナーなのか。
仕事の相棒? それともまさか私、結婚しているとか?
「いや……実は、私も会ったことがないんだ。君から聞いた話だと、凄腕の魔法士らしい。君が一目置くからには、相当な実力の持ち主だと思うんだが……」
「その人は、私にとって、どういう方なんでしょうか? その……パートナーと言っても色々あると思うんですけど」
「かなり前から一緒に旅をしているという事以外、私も詳しくは知らないんだ。今回も君の特徴を伝えて、泊まった宿を調べてきたんだが……この町にある6件の宿、いずれにも君たちは滞在していないようだった」
「そうですか……」
かなり前から一緒に旅を……そういう生活は、たぶん傭兵としての生き方なのだろうと察しが付いた。
私が剣士で、パートナーは、魔法士。
この町へは仕事で来たのだろうか。その人は今どこにいるのだろう。
そこまで考えた時、またこめかみに突き刺さるような鋭い痛みが襲った。
「痛っ……!」
「飛那姫?」
「……だい、じょうぶです」
ソファーに座るようにアレクが促す。私は腰を下ろして、痛む頭を押さえた。
(記憶を探ろうとすると、頭が痛い……)
もしかして、私が記憶をなくしたのは、呪術とか、何らかの攻撃を受けてのことなのかもしれない。空虚な記憶の近くに、誰かの悪意を感じる。
「アレク……もっと、私のことで知っていることがあれば教えてください。家族のこととか、故郷がどこなのかとか……」
何でもいい、手がかりが欲しい。
私に尋ねられたアレクは申し訳なさそうな顔で、目の前のソファーに腰掛けた。
「君とは友人だと言ったが……一緒に過ごした時間はそれほど多くなくてね。個人的な故郷や家族の話をしたことはないんだ。私が話せるとしたら……剣士としての君のことくらいか」
そう言って、アレクは腰から外して立てかけてあった、自分の剣を手に取った。
「君と初めて会ったのは、土竜の討伐の時だ。魔窟の奥までたどり着けたのは一部の傭兵だけで、とどめは君が刺した。覚えていないだろうが……私は君と一緒に戦いを経験して、君ほどに強い剣士はいないと、その時思ったんだ」
「私が……?」
どうもその話は自分にとって信じがたい。
納得出来ない顔の私に、アレクは自分の剣を差し出した。
「持ってみてくれないか?」
「……はい?」
「何か、感じないだろうか?」
言われるままにその柄を手にとってみた。ずしりと、重い長剣だ。
鞘を抜いてもかなりの重量があるだろう。こんなものを私が振り回せるわけがない。
「……重いです」
「それは魔力を使っていないからだろう? 君の剣は特殊だから、そもそも君にとって重いものなのかどうかは分からないけれど、君は腕力でも男が敵わないくらいの剣士なんだよ?」
「分かりません……私は、剣士で、魔法も使えるってことですか?」
「君は魔剣士だよ。私は白魔法を使えるが、君は黒魔法しか使えないと言っていた。普通、特性はどちらかに偏っているからね。君の魔力は普通の魔法士よりよほど多いし、絶えず使っていても尽きることがないように見えた」
「私が……剣士」
じっと、自分の両手を見つめる。
そう言われてみれば、自分の中に魔力を感じることは出来た。アレクを見ても、自分とは異質の魔力を感じる。
でも、どうやって使えば良いのかは覚えていない。剣の振り方も、どう戦うのかも。
私は自分が、剣を持って戦うところを想像してみた。相手が人間でも、そうでなくても、おそらく血が流れるのではないだろうか。
「私は、剣が……好きじゃないみたいです」
「えっ?」
「自分が剣で誰かを傷つけるなんて、考えたくありません」
意外すぎる言葉だったのか、何かを言おうとしたまま、アレクは止まってしまった。言いようのない困惑が、伝わってくる。
もしかして彼は、もう一度私に剣を持って欲しいと思っているのだろうか。
「飛那姫、君は……戦いの時には生き生きしていたよ。真剣勝負の中に命の駆け引きを楽しんでいるような、危ういところもあったように思える。君の剣はとても強くて、美しくて……私は、そんな君に憧れていたんだ」
「……えっ?」
「君は私にとって、憧れの剣士なんだ」
困ったような笑いとともに伝えられた言葉は、私には理解しがたいものだった。
「おかしいだろう? 私もそれなりに鍛えてきたつもりだったんだが、世の中には天才というものがいるんだと、君を見て感じたんだ」
「……天才」
「君の剣は素晴らしいんだよ、飛那姫。私も、君に負けないくらいもっと強くなりたいと思って……君を、追ってきたんだ」
「私を追って?」
「ああ、もう一度近くで、君の剣術を見たくて。それで……君を見つけた」
「……そうだったんですか」
では、剣など持ちたくないと思っている私は、すでに彼にとって価値のない人間なのではないだろうか。
そう考えると、ズキリと胸が痛んだ。
「今の君からは、強さというものが感じられないな……」
自分が考えていたことを、アレクが口にする。
私が今、どんな顔で彼と向き合っているのかは分からないが、彼の気遣う笑顔は悲しそうに見えた。
剣を持たない弱い私は、アレクの友人ではいられないということか。
自分の中にどれだけ問いかけてみても、剣や魔法を使う事への知識が抜け落ちていることしか分からない。まるで、その記憶を狙って盗まれてしまったかのように、何もない。
どうしてだろう。何故忘れてしまったんだろう。
「……取り返さなくては」
ぽつりと、無意識に私の口からそんな言葉が漏れた。
泉のほとりで目覚めたときに感じたのと同じ、焦燥感がじわじわと沸き上がってくる。
体の内で、どくん、どくん、と鼓動が大きくなっていくのを感じた。
ああ、そうだ、奪われたのだ。
何を……誰を?
「……っ!」
頭の芯に突き刺さるような、この痛みに負けたくない。
そうだ、私の奪われた記憶は誰が持っている?
あの時、確かに、持って行かれたのだ。
何かが、脳裏にフラッシュバックした。
舞い上がる水に、長い黒髪が見える。
「これ取らないと動けないんでしょ?!」という女性の声。
私が油断していたばかりに、しくじったんだ。
だから、記憶と一緒に、大切なものを、奪われた……
「……飛那姫!」
はっとして、私は目の前にある焦りを帯びた目を見返した。
アレクが、両肩をつかんで、まっすぐに私を見ていた。
「……私……」
呟いた自分の声すらも、ズキン、ズキン、と頭に響く。
痛い。
駄目だ。負けるな。早く思い出せ……!
その焦りとは裏腹に、掴みかけた何かが指の間からこぼれ落ちて逃げていく。
「何か思い出したのか? 急に苦しそうにするものだから……」
私の焦点が合ったのを確認してほっと息をつくと、彼は手を離した。
先ほどの焦燥感は嘘のように消えて、また強さを知らない私がそこにいた。
「取り返さなくてはと言ったな? 君の記憶は、何者かに奪われたのか?」
「……分からない。でも、そう感じました。大事なものを、早く取り返さないといけない、と……水が見えて、その中に……」
「君がいたあの場所に、何か手がかりがあるかもしれないな……」
日が沈みかけているが、急げば今からでも調べてこれるか……と、アレクが呟いて立ち上がった。
「君はここでおとなしくしているように」
その言葉に、私ではなくインターセプターが、ワン、と答える。
おとなしくしているもいないも、私には何も出来やしない。
扉の向こうに消えたアレクの背中を見送って、私は気だるい体をソファーに横たえた。
(あれは、誰……?)
柔らかい布の感触に沈み込んで、私はそのまま眠りに落ちた。
今回はちょっと長かったですね……最後までお読みいただけた方、お疲れ様でした。
一話の文字数を一定にするのって、かなり難しいです。
次回は、アレクシス語りでお届けします。
午前中から外出予定があるので、更新は夜になるかと思います。