剣を無くした私
私の名前は「飛那姫」だそうだ。
フルネームは? と聞いたらアレクも知らないらしい。
何だかな、もうここまですっかり忘れてると、分からないことも分からない。
でも一人じゃないことで、大分冷静になってきた気がする。
「ここは私が滞在している宿だが……君もきっと、パートナーとこの町のどこかに宿を取っていたんじゃないだろうか。それも覚えていないか?」
「覚えてませんね……」
「仕方ないな、ひとまず君は中で休むといい。その血まみれの服もなんとかしなくては」
確かに、肩も足も破けて、血まみれのボロ雑巾みたいだよね、私。
アレクに借りたマントを羽織ってなかったら、ちょっとしたスプラッタだ。
インターセプターと呼ばれている獣から降ろしてもらうと、なんとか立つことが出来た。
アレクに腕を借りて、シックで落ち着いた照明のエントランスをくぐれば、何人かの泊まり客で賑わうロビーに出た。造りから、高級宿の部類に入るだろうと思えた。
「おかえりなさいませ、ヴァン様。お連れ様ですか?」
宿屋の娘らしき三つ編みの女の子が、カウンターの向こうから話しかけてくる。
「ああ、すまないがいくつか用立ててもらいたいものがある。後で部屋に来てもらえないか?」
「かしこまりました」
「あと、軽食と飲み物を運んで欲しい」
「すぐにお持ちいたします」
ロビーを通り過ぎて突き当たりを曲がると、大きめの階段があった。
歩くのもしんどいのに階段……
げんなりした気分を見透かされたか、私は再びアレクに抱え上げられた。
「ちょっ、人に見られたら恥ずかしいでしょう?! 下ろしてください!」
「3階まで上がるが、いいのか?」
「……やっぱりお願いします」
背に腹は代えられない。私はおとなしく荷物になった。
アレクの足下を、軽い足取りでちょこちょこと白い小さな犬がついてくる。さっきの大きな獣によく似てる気がするんだけど……?
「あの、この子……」
「ああ、インターセプターは、大きさがある程度自由になるんだ。聖獣だからね」
「せいじゅう……」
聞いたことがある。すごく希少な動物で、とても賢いのだと。
……誰から聞いたのかは、覚えていないけれど。
私はしっぽを振っている、どう見ても犬にしか見えない白い聖獣を観察することで、抱え上げられている恥ずかしさから目をそらした。
幸い、部屋にたどり着くまで誰にも会わずにすんだ。
アレクが泊まっているというのは、私が想像していた広さの3倍はありそうな部屋だった。間違いない、この人はお金持ちの貴族かなんかだ。
確信した私をソファーに下ろして、彼も向かい側に腰を下ろす。
「それで……君はどの程度、何を覚えているんだ?」
アレクはテーブルの上のグラスを取ると、水差しから水を注ぎながら、早速本題に入った。
ことりと目の前におかれた水を見て、自分ののどが渇いていることにはじめて気付いた。礼を言ってそれを一気に飲み干すと、私は首を横に振った。
「正直、何を覚えていて、覚えていないのかすら分かりません。でも、日常的な常識のことは、なんとなく分かっているようです」
「人についての記憶は全くないのか?」
「そうですね」
それはきっと、恐ろしいことなのだと思う。
分からないから、気付かないでいられるだけで。
「何が原因でこうなったか……私と会う前の、最後の記憶はどこなんだ?」
「最後の……」
あの泉のほとりで目を覚ます前のことについて、記憶をたぐってみる。
ズキッと、こめかみが痛んで、思わず手をやった。
「どうした?」
「いえ、考えようとしたら、頭が痛くて……」
その時、コンコン、と部屋のドアがノックされた。アレクが立ってドアを開けに行く。
開けたドアの向こうには、サンドイッチとジュースが乗ったワゴンと、宿屋の娘が立っていた。
「軽食をお持ちしました」
「ああ、部屋の中にお願い出来るかな」
彼女がテーブルの上にお皿とジュースを並べて行くのを、私はぼうっと見ていた。かっちり編まれた三つ編みに、そばかすの多い宿娘が、私の顔を見て少し表情を曇らせた。
「お連れ様、具合がよろしくないのですか? お顔の色が悪いようですが」
「あ……ええと、ちょっと調子が良くないだけで。大丈夫です」
あやふやに微笑んで返す。今一番具合が悪いのは、多分頭の中だ。
「先ほど言った、用立ててもらいたいものなんだが」
「はい」
アレクに向き直ると、宿娘はポケットからメモ帳を取り出した。
「彼女に、衣服を一式頼む。飛那姫、足のサイズは?」
「え?」
突然聞かれて、考える。私の足のサイズ……
「分かりません」
「お貴族のお嬢様は、ご自分の足のサイズをご存じない方も結構いらっしゃいますよ。ちょっと失礼いたしますね」
そう言って、彼女は私のブーツを片方脱がした。
くるくる回して確認すると、元に戻してメモに何か書き込む。
「お洋服の好みはございますか?」
「え……いえ、特には」
強いて言えば、動きやすい服とか。
あれ? どうして私は動きやすい服が好きなんだっけ?
「かしこまりました。それではお嬢様にお似合いのお洋服を一式、ご用意させていただきますね」
「他に着替えがないのでなるべく早いほうがいいのだが……明日の朝までに頼めるだろうか?」
「少しの時間でご用意出来ますよ。お待ちくださいませ」
笑顔で請け負うと、彼女は出て行った。
「元気な子ですね……」
「私は君以上に元気な娘を知らないが……?」
「そうなんですか?」
「飛那姫、君に記憶がないのは理解したが……言葉遣いから何から、どうしてそんなにおとなしくなってしまったんだい?」
そんなことを言われても。
私は元々の自分がどうだったかなんて知らないし、今の自分がおとなしいかどうかなんてことも判断がつかない。
「……分かりません」
なんとなく、悪いことをしているような気分になってしまう。視線を落として答えた私に、アレクは申し訳なさそうな風でのぞき込んできた。
「すまない、その、責めている訳ではないんだ……ただ、君の様子がいつもとあまりにも違うから、私も戸惑っているのだと思う」
「……いつもの私について、聞いてもいいですか? どんな感じなのか知りたいです」
謝る彼がなんだか気の毒になって、少し笑って尋ねる。
「そうだな……君は、とにかくいつもエネルギッシュだ。笑ったり怒ったりが見ていて飽きない。言いにくいことでも何でも、遠慮なく口にするし、何より剣術の天才だ」
「剣術?」
「そう、剣の……」
ふと、アレクは何かに気付いたように私の顔を見返した。
その目に今までにない不安を感じ取って、私はおそるおそる尋ねた。
「私が……あなたと同じ、剣士?」
「飛那姫……まさか、それも……?」
「覚えて、ません」
アレクは、ばっと私の右手を取って見せた。
「剣は……君の剣は出せるのか?」
「えっ?」
何を言われているのか、分からない。
私の表情で全てを悟ったようだ。少しの沈黙の後、アレクは私の手をそっと下ろした。
「いや、すまない……大丈夫、思い出せる方法を探そう」
(私が、剣術の天才?)
そんな言葉は到底信じられなかった。
だって、自分の中には何もない。記憶も、力も……そう、「強さ」と呼べるようなものが1つも見当たらないのだ。
まるごとぽっかり抜け落ちてしまったかのように、何もない。
「飛那姫、少し食べるといいよ。血が足りないはずだから。元気が出たら、湯浴みでもして、着替えを待つといい」
「……アレクは?」
「私は君のパートナーを探しに、他の宿を回ってくる。護衛にインターセプターを置いていくから、安心して休むといい」
「アレク」
「なんだい?」
「あなたは、私にとってどういう人なんですか?」
身内や親しい間柄の人間だったなら、自分のことを忘れてしまったなんて、ひどくショックな出来事ではないだろうか。
心配になって投げかけた言葉に、少なからずアレクは困った様子を見せた。
「どうと言われると……友人、のようなものかな……」
「剣士で、その仲間だということ?」
「仲間と言われるとちょっと違うかな。君が、私を友人だと思ってくれていたかどうかは、正直なところ分からないけれど……ね」
そう言って、彼は部屋を出て行った。
私は、サンドイッチをひとつかじって、側にすり寄ってきたインターセプターの頭をなでた。
友人か。
なんとなくピンとこない。
「……なんでだろう?」
一人声に出してみて、首をかしげる。
私にとっての友人……やっぱり、何かとても大事なことを忘れているのではないだろうか。
ざわり、と胸の奥に息苦しい何かが動いた気がした。
強さの象徴、剣のことも忘れてしまった飛那姫。
ショックなのは、むしろアレクシスの方でしょう。
次回は、「価値のない私」。宿屋で回復中です。