強さを失った私
瞑っている目にもまぶしい日の光を感じて、私はうっすらと瞼を起こした。
朝か。それとも、光の傾き加減からすると、もう昼近いのだろうか。
(……寒い)
ひどく体が冷えているようだ。私は霞がかった頭を抱えて、重たい体を起こした。草の香りが、ふわりと鼻をくすぐる。
「……っ」
ぐらん、と視界が半回転してぼやけるのと同時に、頭の奥がじーんとした。
だんだんと合ってくる焦点。緑の草原に置かれた、自分の手にピントが合う。
顔を上げてみると、少し先に泉のようなものが見えた。鳥の鳴く声、木々の間から差し込む光に揺れる水面。
さわやかな森の中、だ。
朝かと思ったが、どうやら夕方近いようだということが分かった。
何故、ここで寝ていたのか?
(……あれ……?)
目覚める前のことを思い出そうとして、自分の中に空虚な空間があることに気付いた。
ここで何をしていたのか。どこから来て、どこへ行くのか。
何一つとして、自分の中に答えがない。
(覚えて、いない……?)
どくん、と心臓が鳴って、体の内から焦燥感が沸き上がってきた。
何か、ひどく大切なことを忘れている気がする。
(え……なんで私は……)
自分の名前すらたぐり寄せられない事実に、少なからず愕然とした。
痛む頭を絞って、身につけているものから何か思い出せないかと考えついたものの、冷静ではいられなかった。
あげた右手の冷え切った指先から、握っていた草のかけらがハラハラと舞い落ちた。
私はそこで動きを止めた。左肩から大きく裂けた布が目に入ったからだ。おそらく自分が着ていた上着の名残だろう。
おそるおそる手をやると、ぬるりとした感触とともに赤黒い液体が手のひらに移った。
「何……これ……」
見れば、しびれた左脚にはもっと深そうな傷がある。
そこでやっと、自分がひどい怪我を負っているのを自覚することが出来た。
気付いたと同時に、ズキンズキンと傷がうずき始める。
「痛っ……!」
まだ血の流れている脚を押さえつけて痛みを噛み殺す。自分が倒れていたところに、少しの血だまりが出来ているのが分かった。
それはめまいがするのも頷ける出血量だった。
状況が飲み込めないまま、私はごくりとつばを飲み込んだ。
(一体、何があった……?)
今、自分に何が起きているのか。何も思い出せないし、思い当たらない。
ここは誰もいない森の中だ。それは分かる。でも、それ以外のことが何も分からない。
いい知れない不安が襲いかかってきて、思考を停止したくなるのをぐっと堪えた。考えなくては。把握しなくては。自分の置かれているこの状況を。
その時、静寂を破って近くの木から何十羽もの鳥が一斉に飛び立った。森によくいるおとなしい種類の鳥だ。
ギャアギャア警戒音を発している鳥たちに、私は眉をひそめた。
鳥そのものよりも、彼らを驚かせた存在の方が問題だ。
緊張して、鳥たちの騒ぐ上空を注視する。
木々の間から飛び立っていく鳥たちと入れ違いに、大きい動物のような塊が空から降ってくるのが見えた。
(何……?)
立ち上がって逃げようかとも思ったが、足には全く力が入らない。
私は座り込んだまま、それが数メートル先に降りてくるのを見ているしかなかった。
長く光る毛が緑の大地の上になびく。体重を感じさせない柔らかさで降り立ったのは、白い大きな獣だった。静かな金の瞳が、私の姿を捕らえている。
恐怖や嫌悪は感じなかった。獣は神聖な感じすらする、不思議に澄んだ空気をまとっていた。
大きさは馬みたいだけれど、見た目はすらりとした犬みたいだ。羽もないあの体で飛べるってことは、魔力で飛んでいるのだろうか。
その背には、一人の男が乗っていた。
軽い身のこなしで獣から飛び降りた男は、長身のシルエットに白いマントを羽織って、軽鎧を着込んだ騎士のような格好をしていた。
私は地面に降り立ったその姿を、ただじっと見ていた。敵、ではなさそうだ。
差し込んだ光が映し出した顔には見覚えがなかった。でも、男の人なのにあまりにも綺麗な顔立ちだったので、少し驚いた。
白馬じゃないけど、物語の王子みたいな人だなぁ、とぼんやり思った。
こんな人を見たら、きっとあいつは喜ぶんだろうな……あれ? 誰が喜ぶんだっけ?
何か大事なことを思い出しそうになって、でもすぐにその思いは消えていく。
「……やあ、やっと見つけたよ。てっきり町にいると思ったらこんな森の奥にいるなんて……本当に君は探すのに骨が折れる。パートナーは一緒じゃないのかい?」
その人は私の方へ歩いてくると、濃い緑の瞳をうれしそうに細めてそう言った。
(パートナー……?)
誰のことだろう。
「……飛那姫? まさかとは思うが、もしかしてまた……」
座り込んだままの私をいぶかしげに見ると、男は私の前に膝を突いた。
そこではじめて肩と左足の傷に気付いたようだ。途端、険しい顔になる。
「なっ……結構な深手じゃないか……! 何があったんだ?!」
この人、私が自分の傷に気付いた時より、慌てている。そしてどうやら、私のことを知っているみたいだ。
自分の事を知っている人間と出会えたというだけで、ほっとする。強ばっていた体の力が抜けて、血が通っていく気がした。
男は右手から手袋を引き抜くと、私の肩と足の傷を確認し始めた。
「飛那姫、何か答えてくれないか。どうして黙っているんだ? 君ともあろう人が、こんなひどい怪我を負うなんて……一体何があった?」
私をのぞき込む緑の目が不安そうに揺れているのを見れば、心配していることが嫌でも伝わってくる。
でも、何か答えなくては、と思って口にした言葉は、さらに彼の不安をあおることになった。
「……ヒナキ? それが私の名前?」
かすれた声で聞き返すと、緑の目が少し見開かれた。
「何を、言って……」
「私も今、混乱してるんです……何も、覚えていなくて」
一瞬絶句した後に眉をひそめた男は、「嘘だろう?」と呟いた。
「私をからかっているのか?」
「……」
「……飛那姫?」
次に続ける言葉が見つからなかったのか、男は私の顔を見たまま少しの間黙り込んだ。
そしてふと、思い出したように右手をあげて、私の傷に手を伸ばした。
「とにかく、こちらを治すのが先決だな……」
添えられた手のひらからもれた白い光が、ぼんやりと私の肩口を照らし出した。
温かい、と感じたその光は、じわりと体に染みこんできて、段々と痛みを取り去っていく。
「……回復魔法?」
「動かないでくれ、すぐ終わる」
すごいな。白い魔法だ……でも魔法士には見えない。帯剣しているところを見ると、この人は魔剣士なのだろうか。
肩が元通りになると、白い光は脚に移動した。ふさがっていく傷に、安堵したように男が息をついた。
「ひとまずはこれでいいだろうが、大分出血したな……」
「すみません……ありがとうございます……」
なるべく丁寧にお礼を言ったつもりだったのに、男は少しだけ暗い顔をして立ち上がった。
何か、気に障るような態度をとってしまっただろうか。
「立てるか?」
差し出された手のひらに自分の手を重ねると、ぐいっとひっぱりあげられる。
二本の足で立つというのはこんなに難しいことだったろうか、と感じるくらい私の足はぐにゃりとしていて、まっすぐに立つどころか、途端によろけてしまった。
慌てたように男が支えてくれたが、その場にまたずるずると座りこむ。
脚が……頭が、痛い。
「すみません……まだ、ちょっと無理みたい……足に力が入らないし、頭はくらくらするし……」
「……君は、本当に飛那姫なのか?」
「……それは、私が一番知りたいんですけど」
真面目に答えた私に深いため息をつくと、男はパチンと自分の肩からマントを外した。ふわりと頭から私にかぶせる。
これ、白いのに血がつくんじゃないだろうか、そう思った瞬間、地面から体が浮いた。
男が両手を伸ばして私の体を横抱きに持ち上げたのだ。
「っ??!」
「軽いな、君は」
「あ、あのっ?!」
「自力で立てないのだろう?」
「えっ、いや! 大丈夫だから!」
「その大丈夫には、説得力が感じられないな」
いくらなんでも、突然お姫様抱っこなんて反則だ。いい大人が恥ずかしすぎる。
体を強ばらせる私にはおかまいなしで、男は白い獣を振り返った。
「インターセプター」
名を呼ばれた獣が、ウォン、と鳴いて駆け寄ってくる。
やっぱりこれは犬なんだろうか……
獣の首輪には、青い綺麗な飾りが光っていた。色んな色のガラス細工がついた、女性用の髪飾りのように見えた。
ふと、それを知っているような気がしたのは、何故だろう。
私を獣の背に抱え上げて乗せると、男は後ろに飛び乗った。
その手に取った、獣の胴周りから伸びているハーネスは、馬で言えば手綱のようなものだろうか。
「念のために聞くが、パートナーの居場所は分かるか?」
「……いえ、全く」
「そうか……とにかく一旦エベレスの町に行こう。インターセプター」
彼が声をかけるなり、獣は空へ飛び上がった。
「っ!!」
浮き上がる感覚に身がすくんだ。息を飲んで、思わず目の前の白い毛をひっつかむ。男が不思議そうに尋ねてきた。
「どうかしたか?」
どうかしたか、じゃない! 獣に乗って空を飛ぶなんて、あり得ない。
直接当たってくる風が強くて、普通に目を開けているのすら難しい。
何より、この不安定な場所! 横向いて乗ってるから余計に落ちそうで怖い!!
私はわたわたと、這いつくばるように獣の首にしがみついた。
「お、落ちる!」
「君は本当に……いや、いい」
はぁ、と頭の上からため息が聞こえてきて、背中に腕が回されると、軽鎧の胸に引き寄せられた。
「インターセプターの首をしめないでやってくれ。落としたりしないから、座って私に掴まっているといい」
「え? はい」
掴まってろって、どこに?
この人は私を知っているみたいだけど、私にとっては全くの他人だ。ちょっと気まずい。
しかしそんなことを言っている場合でないのも確かだろう。
だって、この高さから落ちたら、絶対死ぬ。
ぶるっと身震いして軽鎧の背中に腕を回すと、ぎゅっとしがみついた。
男がひるんだように身じろぎした気がしたが、他に掴まる場所が見当たらない以上、手を緩める気はない。
「飛那姫、その……そんなに強く掴まらなくても大丈夫だと……」
言いにくそうに、男が口を開いた。
自分が掴まっていろと言ったのに、今更だ。少しくらい窮屈だって放す気はない。
「無理。これ以上離したら絶対落ちます」
「……」
男はそれ以上は何も言わなかったが、町にたどり着いて私が手を離したあと、本当に疲れた様子で獣から降りていった。
体重をかけて掴まっていたから、疲れさせてしまったのだろうか……私は反省して謝った。
「いや、違う……別にそれはいいんだ。ちょっと予想外だったたけで、君は悪くない」
そう言って男は、気にしないでくれと力なく笑った。
うん、会ったばかりだけど、この人がいい人だってことは、なんとなく分かった。
しかし見れば見るほど、整った容姿の人だ。
180cmは超えてそうな長身。肩下まで伸ばした長めの銀色の髪はさらりとしていて、少しだけ日に焼けた元の肌は白そうだと感じた。左耳には凝った銀細工の耳飾り、他の装飾品も高価そうに見える。
薄茶色の軽鎧は萌葱色の軽装に合っていて、服のセンスもいいと思えた。長身も手伝ってか細身に見えるのに、自分とは違う鍛えられた硬い筋肉があることも、先ほどしがみついた時に分かった。
そして腰に帯剣している長剣が、彼が剣士であることを教えてくれている。
「……何か、気になるかな?」
白い獣に座ったまま、上からまじまじと見ていたら、気まずそうな顔で男が首を回した。
「いえ、まだ、お名前を聞いていなかったな、と思って」
「……何も覚えていないと言うのは、本当なんだな」
名前を尋ねたら傷ついた顔をされた。
この人は、私にとってどういう人だったのだろう。
「まず、君の名前は飛那姫で間違いない。姿形も魔力も同じ別人はいないからね。私はアレクシス。君は私のことをアレクと呼んでいたから、そう呼んでくれるといい」
「アレク様?」
「……様はいらない」
あからさまに身分の高そうな人相手に、呼び捨てはどうかとも思ったのだが……本人がそう言うのでは仕方ない。
「分かりましたアレク、あの……助けてくれてありがとう」
「君からそんな言葉を聞く日が来るとは……」
居心地悪そうに、彼は苦笑いをもらした。
どういう意味なのかは、よく分からなかった。
魔力に気力に記憶に……色んなものがすこーんと抜けてしまって混乱中の飛那姫。
手合わせにやって来たはずなのに、身元引受人になってしまったアレクシス。
ここから何話かは、普通でない飛那姫&アレクシスの話が続きます。
次回は、エベレスの宿屋からお届けします。




