ネモ
森妖精。その中でも「森の番人」と呼ばれる、人間界と妖精界の狭間を生きている者達がいる。
普段はその姿を目にすることはない。なぜなら、彼らは極端な人嫌いだからだ。
森番の妖精は、人と住むところを完全に分けて暮らしている。
まず人と接触しようとはしないし、間違いでもなければ人の世界に足を踏み入れることもない。
なんでも奪い、欲しいものを得ようと、昔から争いを繰り返している、野蛮な人間を心の底から嫌っているのだ。
ネモの父親は、そんな森番の剣士だった。
母親は、妖精界に迷い込んだ、東の国の女性だった。
人を排除する役目を全うすることなく、女性と通じた父親は仲間から激しく弾劾された。
妖精界に踏み行った母親は、一度は人間界に戻ることが出来た。しかし、子供を産んだ後、子供の父親が忘れられず再び妖精界に戻ろうとしたところを、森番達に殺害された。
ネモの父親は嘆き、怒った。
優れた剣士だった彼は、復讐のため同族に刃を向けた。
たくさんの血が流れ、森妖精の里が惨劇の場と化したことを、人は知らない。
戦いの後に、ネモの父親は敗れ、死んだ。
二人の間に産まれた子供は、母親の妹に託された。
「十希和」と名付けられたその子供の見た目は、ほとんど人間と変わりなかったが、尖った耳だけは目立って違って見えた。
また、子供はその身に余る魔力も産まれ持っていた。
それだけで、辺境の村で迫害される理由は十分だった。
どれほど時が経過しても、10歳未満の子供にしか見えない容姿も、迫害の理由の一つだったろう。
不思議なことに、30年もの間、彼に殺意は芽生えなかった。
叔母にどれほど虐待を受けても、村の人間からどれだけ差別を受けても。
何かを感じる心を捨ててしまったかのように、虚しく、からっぽの心で、彼はずっと生きていたのだ。
あの日あの時に、呪われた剣を手にするまでは。
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しわだらけの乾燥した手で、具の少ない夕飯のシチューをかき混ぜながら、叔母さんは言った。
「姉さんは、どうしてお前をここに置いていってしまったのかねぇ……」
いつものように、呪うような口調で。
「お前さえいなければ……あたしはもっと幸せでいられたろうにねぇ」
もう何千回聞いたか分からないその台詞に、僕の心が動くことはない。
森妖精と人間との間に産まれた混血の僕は、怒りも、悲しみも、悔しさも……何もかもを感じることが出来ないから。
何かを感じたいと思う気持ちだけは、昔から少しばかりあった。
でも何をしても、僕の空っぽな心の中からは、感情の欠片すら拾いあげることは出来なかった。
人と少し違うというだけで、辺鄙な村では簡単に迫害が起こる。
そんな理不尽に、抗う気も起きなかった。
殴られても、蹴られても、罵られても傷つくことのない僕の心は、みんなと違ってとても強いのだろう。そう思えた。
感情がなくても痛みは感じるから、痛いことをなるべく避けようという気持ちも、少しばかりあった。
あまりにも痛くて、「このままだと死んでしまうな」という時は、笑うことにした。幸い、僕は楽しい気持ちでなくても笑い顔を作ることが出来るから。
そうすると、みんなは気味悪がって、最後には殴るのをやめる。
僕はただ、生きているだけ。
食べて、働いて、寝て、働いて、また少し食べて、寝る。日々はその生命活動の繰り返し。
この空虚な心を抱えて、僕はただ、生きている。
30年という月日は長いようで短い。僕と違って、人はあっという間に年を取っていく。
赤ん坊だった僕を引き取った頃は、まだ若くて綺麗だったろう叔母さんも、今はしわの多いおばあさんになった。
両親のいない僕を引き取ったという善行が、叔母さんの自尊心を満足させているだけなのは知っていた。
食事を出される時も、風呂で洗ってもらった時も、その手に僕が愛情を感じられなかったのは、僕の心のせいだけではないだろう。
「厄介者」
ことあるごとに僕をそう呼んだ叔母さんは、58歳のある日、病で死んだ。
朝起きたら布団の中で冷たくなっていた。
僕が殺してしまう前に死んだのだから、良かった。そんな風に思った。
その時はじめて、僕は気付いた。
僕は叔母さんを殺したかったらしい。もうずっと前から。
そう気付いた瞬間、僕の中にはじめて感情らしい気持ちが湧き上がってくるのを感じた。
全てを壊してやりたくなる衝動を。
いつも石を投げてきたあいつも、池に突き落としたあいつも、鍬で殴ってきたあいつも。
もちろん、傍観者だったあいつらも、全部。
全部全部壊して、殺して、この村ごと全てが無くなったら、それはさぞかし気持ちがいいことだろう。
そんな風に思える自分が、とても不思議で、うれしかった。
そして、その瞬間を待っていたかのように、それはやってきた。
突如として眼前に現れた黒い光は言った。
『私を手に取れ』
感じたことのないおぞましさが、僕の心を一瞬にして惹きつけた。
どこまでも暗い光の中から現れた、一振りの長剣を目にした時、産まれてはじめて心の底から「美しい」と思った。
『何者にも害されることのない、強さと安寧が欲しくはないか?』
剣の中から聞こえてくる、不思議な声が僕に問うた。
「欲しい」
うっとりするような心持ちで、僕は応えた。
『ならば私を受け入れ、世界を変えるがいい。虐げられるのではなく、虐げる者になれ。壊したければ壊し、欲しいものを望むがままに手に取るといい……お前には、その資質がある』
「資質……?」
『そうだ、お前の内には深淵が見える』
全身がぞくぞくした。
この剣が一体何なのかは分からない。それでも、世界の全てを変えられそうな気がした。
その誘惑に抗う理由など、何もなかった。
言われるままに手を伸ばすと、僕は濁った沼の中から探り出すように、黒い剣の柄を握り込んだ。
その一瞬で、僕の体が、僕のものじゃなくなった気がした。
漆黒に輝く光は、全てを影におおうように、僕の体を飲み込んだ。
暗い光に包まれて、どこまでも続く、血塗られた道が見えたような気がした。
『深淵を宿すものよ……私は魔剣、煉獄。これからお前と共に、修羅の道を歩む者なり……』
かすかな意識の中、そんな声が僕の頭の内に残った。
前話との温度差がすごい回でした……
スマホ投稿作業してます。見にくい……どうやってルビ入れていいかワカラナイ……
短かったので何とか見直せましたが、次は長いのでパソコンないと無理です(泣)。
次話は、3国協議中のプロントウィーグルから。
早くて30日の投稿になると思います。