鮮血の31日 -後編-
「礼峰様っ……!!」
悲鳴に似た私の叫び声は、父様が薙ぎ払った剣閃の風切り音にかき消されていった。
崩れ落ちた礼峰様の後ろにいた、何人かの兵士の首と胴が切り離されて宙を舞う。そこからスローモーションのように上がる赤い噴水が、視界を染めていった。
思わず目を背けた私の肩を、父様の大きな手が包み込んだ。
「飛那姫……可愛い娘よ。其方だけでも逃げて、生き延びるのだ」
耳元でささやかれた言葉の意味に愕然として、私は力一杯首を横に振った。
「嫌です! 父様も……一緒に逃げましょう……!」
「民や臣下を置いて、王一人が逃げるわけには行かぬ。それにもう、私も……」
ごふっと咳き込んで、父様は荒く息をつくと、微笑んでみせた。
「解毒には間に合わぬだろう……其方は毒を口にしなかったのだな?」
私は涙でにじんだ視界の中に父様を見上げて、こくり、と頷いた。
水も食べ物も食べないと言ったのはただのわがままだ。
でもそのせいで私は生きている。口にしていたらきっと今頃、みんなと同じように床に転がっていただろう。
「天の采配だ……私の娘は皆に愛されている。飛那姫、生きて、幸せになりなさい」
「……父様!!」
いやいや、と首を振る私を一瞬だけ抱きしめると、その大きな手は私の体を押した。
父様は私をかばうように立ち、背を向けた。
視線の先に先生が戦っている。でもいつもの先生じゃないように見える。先生も苦しそうだ。
それで、本当に絶望的なのだと悟った。
「高絽! 飛那姫を護れ!」
扉の向こうからは、次々と綺羅の兵士がなだれ込んでくる。
私と父様の盾になるように玉座の前で剣を振るっていた先生は、父様の言葉で一足飛びに私の側に降り立った。
「姫様……」
先生の綺麗な唇の端からも血がにじみ出ているのを見て、私は声にならない声で泣き出した。
「嫌です……父様、先生……死んじゃ嫌……!」
「姫様、どうか落ち着かれてください。私は最後まで王をお守りします。ですから……姫様は、逃げるのです」
そう言って、先生は傍らにあった玉座を背後から押した。
その影に隠すように、私の体をそっと抱える。
玉座があった床には、黒くぽっかりした空間が口を開けていた。
「姫様、私のことを、覚えておいてくれますか?」
「先生……?」
どこまでも優しい目で、諭すように先生が言った。
「姫様はこれから、もっともっと強くなります。今日この日のことを、私たちのことを、覚えておいてください。そして強くなって、あの裏切り者達に、制裁を与えてください。皆の無念と、恨みを晴らすのです……」
「恨みを、晴らす……?」
「ええ、その為にどうか、生きて……必ず、生き延びてください」
それが、最後の言葉だった。
私を支える手が離れたのと同時に、足下を失った体は急速に落下を始めた。
光の中、最後に見た先生の、目を細めたいつもの笑顔だけが脳裏に焼き付く。
「せんせ……っ」
明かりも何もない。
長くて急すぎる滑り台を、落ちていくような感覚。
滑り落ちていくのが恐ろしいのではなく、先生や父様との距離がどんどん離れていってしまうことがただただ、恐ろしかった。
戻れない。
ここを落ちてしまったら、もう二人の元には戻れない。
そして短くも長い時間をかけて、私は勢いよく何もない空間に放り出された。
落下地点には落ち葉が積もっていて衝撃は緩和されたけれど、それでも勢い余って壁に背中を打ち付けた。やっと止まった体の下で、落ち葉ががさりと音を立てる。
うめきながら首を上げた。一筋の明かりが頭上から差し込んでいるのが見えた。
ここは一体……どこなの?
「いた……っ」
ひねったのか、左足に鈍い痛みを感じた。肩も打ったようだ。
暗い場所に目が慣れてくると、目の前に鉄製のはしごがあることに気がついた。あの隙間から漏れている明かりは、日の光だろう。
登れば、出られる。
私は痛む肩と足を引きずって、はしごを登った。
何も考えられなかった。
考えたくなかった。
石の板のような天井に手をつくと、力を入れて押し上げる。蓋になっていたそれは持ち上がって、はずれた。
草の感触と、土の匂い。降り注ぐ太陽の光がまだ昼間の明るい時間帯であることを教えている。
そこは城の裏、庭園の隅にある井戸の側だった。
玉座の下にこんなところに続く道があるなんて、ちっとも知らなかった。
私は地下から這い出ると、振り返って城を見上げた。
静かだ。なんの音もしない。先ほどまでのことは夢だったのかと思えるくらいに。
でも、あれが夢であるはずはないのだ。
じわり、と涙があふれてきた。
大声で泣き出したい。
今すぐ、父様と先生のいる場所に走って帰りたい。
でも、それは出来ない。
(その為にどうか、生きて……必ず、生き延びてください)
先生の最後の言葉が、耳元で蘇ってくる。
「ふっ……うっく……」
ごしごし、と手の甲で涙をぬぐって、私は庭園の奥へと足を向けた。
逃げなくては……なるべく遠くに、なるべく早く。
庭園の中を進んで城壁にぶつかると、木を登って壁に飛び移り、城の外へと飛び降りた。林に分け入って、方向も分からずにとにかく歩いた。
人目を避け、あまり光の差し込まない道のない場所を選んで、泣きながらも歩を進めた。
歩いて、歩いて、ひたすらに歩いた。
「うっく……母様、父様……兄様、先生……令蘭……」
ひどくのどが渇いていた。
水が飲みたい。
城内の水に毒を入れられたことを思い出すと、水を飲むことそものもが恐ろしいものに感じられた。
皆が苦しんで倒れていった様が目の前の景色の中に重なって、言い知れない不安を呼び起こす。
(水は飲めない。恐ろしい……)
渇きからか、泣きすぎたからか、思考が朦朧としてきた頃。
それは突然にやってきた。
薄暗い森の中に、天から差し込む、青い光が見えた。
美しかった。
どんな宝石よりも綺麗で、青く輝く光は、キラキラと私の目の前に降り注いできた。
そして徐々に私がよく知っている、一振りの剣の形になった。
「……聖剣、『神楽』……」
目の前に浮かぶ、光る長剣の姿に目を疑う。
理解できなかった。何故、この剣がここにあるのか。
だって、これは父様の……
はっと、ある考えにたどり着いて、私は嗚咽とともに両手で顔を覆った。
父様の魂と結びついたこの剣が、その手元を離れたということが、何を意味するのか。
どうしようもなく分かってしまった。
父様の魂が、すでにこの地を離れてしまったということを。
「……神楽」
青と、赤と、黄色、それに緑の宝石がはめ込まれた長剣。
青は水、赤は火、黄色は雷、緑は風と大地を意味すると、父様が話してくれたことを思い出す。
神楽はその全てに宿る魔力を幻想的に放ちながら、私が手を伸ばすのを静かに待っているように見えた。
ひとたび手にすれば持ち主が死ぬまでその魂に宿り、持ち主の意志で顕現できるようになる、王家伝承の、国宝剣。
(きっと、神楽は私を次の主に選んだ……)
ならば、受け継ごう。全てを。
「おいで、神楽……一緒に行こう」
私はそれだけ言うと、光る剣の柄に手を伸ばした。
ぐっと握りしめた瞬間、吹き上がるように青白い炎が燃え広がった。炎は渦を巻いて、私の体を飲み込んでいく。
「……っ!」
熱くはなかった。
痛くもなかった。
ただ、剣に触れたところから自分の魔力がこじ開けられるような感覚を覚えて、思わず反発しそうになる。
(駄目だ……!)
抗っては、駄目だ。理屈ではなく、本能でそう感じた。
この洗礼を、受け入れなければ……!
襲いかかる魔法剣の魔力を、体の力を抜き、受け入れる。
みぞおちにねじ込まれるような、激しい奔流。その全てをこの小さい体に受け入れようと、ただ必死に器に徹した。
(っ苦しい……! 体が、バラバラになりそうだ……!)
目を瞑って、早く終われと祈る。
体中の汗腺が開いて、魔力が流れ出てしまいそうな感覚は、自分の体が受け入れられる限界が近いことを教えていた。
「うあっ……かっ、は……!」
この身が引き裂かれようとも、手は離さない……!
しかし耐えきれずその場に膝をつく。
倒れ込んだ体をくの字に折り曲げたところで、「儀式」は完了した。
「……はっ……はっ……」
ごろりと、その場に仰向けに転がって、早鐘のように打つ心臓をなだめる。
聖剣は、青い炎とともに姿を消していた。
「……はぁ……」
訪れた静寂の中、呼吸を整えながら自分の右手を持ち上げる。
じっと見つめるのは、いつもと変わらない手のひらだ。
しかしそこに宿る「存る」感覚は、今までにないものだった。
「……父様」
本来ならば、まだ父様の手にあっただろう、魔法剣。
受け継ぐには早すぎる、小さな自分の手。
もっともっと、教えてもらいたいことがたくさんあったのに……
自分のどこにこんなに水分があったのだろうと思えるほど、次から次へと涙はあふれてきた。
どれほど頭が痛んでも、熱を持った顔が腫れても、とめどなくあふれる涙を止めることなど出来ない。
私も、父様や母様達と死ねば良かったのか。死んでしまえば、こんな思いをしなくてすんだのか。
ぐちゃぐちゃな心で、転がったまま考える。
考えてもどうにもならないことを。恐ろしく長い時をそこで。
森には、刻々と夕闇が迫ってきていた。