隣国の魔術本
大臣の1人、礼峰は夜空を見上げて未だ帰らない愛弟子、蒼嵐王子の無事を祈っていた。
武の才は見いだせなかったものの、成長すれば学問においては右に出る者はいないだろうと思われた、聡明で、人の良い王子の顔を思い出す。
行方が分からなくなってから、もう3週間が経過していた。
それは絶望的とも言える日数だった。
信心のない自分が神に祈るなど馬鹿馬鹿しいとは思えど、祈らずにはいられない気持ちになる。
(蒼嵐王子……どこにいらっしゃるのだ……)
各方面に手を回しても痕跡すら見つからず、攫われた可能性も高い。
だが身柄と引き替えに何か要求があるわけでもない状態では、生死を探ることすら出来なかった。
窓から見える星を背に、礼峰は書庫の棚から何冊かの研究書を出して、机の上に並べた。
城を立つ前に、王子が読んでいた本の数々だ。干渉に浸りたいわけではない。行方不明の直前に何を考えていたのか知りたくて、試みにしてみたことだ。
大抵は薬草関係の本だったが、ひとつだけ、趣向の違う書物が混ざっているのに気付いた。礼峰はそれを手に取ってみた。
見たことのない本だった。
この書庫の中で礼峰の記憶にない本などあるわけがないのだが、それは確かに彼の読んだことのない書物だった。
黄色い皮の背表紙に「魔術」とだけ書かれている。
いぶかしく思って、ページをめくってみた。中身は初歩的な魔術に関する記述が並んでいて、特筆するようなものはない。
しかし違和感は残った。全ての知識を網羅するかのごとく、貪欲に学問への理解を深めていた王子のことだ。どのような本を読んでいても不思議はない。
だがこの本は内容が簡単すぎる。そして、この国で書かれたものではなかった。東の国の中でも、北方面の方言である単語が混ざっている。
一体いつ、この書庫の中にこれが持ち込まれたのか。
礼峰はどのようにして、王子がこれを手に入れたのかが気にかかった。
「……調べてみるか」
礼峰は王子の侍従である、解里を呼び出して話を聞くことにした。
この本に、見覚えはないかと。
「それはおそらく……綺羅の斉画王からの贈り物ではないでしょうか。献上品の一部だと思います」
綺羅は紗里真の北側に位置する、隣国だ。
小国ではあるが、他に誇る特産品がある。昔から魔術士の多い綺羅は、国軍自体も魔術士が多く、魔道具の生産が盛んなのだ。
綺羅はこの魔道具において、東の国一と言われるほどの生産量を誇っていた。
魔法と魔術は同じようなものとして捉えられることが多いが、この2つには大きな違いがある。
「魔法」は魔力がなくては使えないため、生まれつき魔力を持った者だけが扱えるものだ。対して「魔術」は魔力がなくても、知識と魔力のこもった魔道具さえあれば誰でも具現化できる。
魔道具自体は、魔力のない人間にも扱えるよう作られるものが多い。日々の生活から騎士団の戦闘まで、広く使われている便利なものだ。
「ああ、なるほど。今年初めの徴税に含まれていた献上品か…」
この細く伸びた小さな島は、他国にはひっくるめて真国と呼ばれてはいるが、実際には島全体が統治されたひとつの国ではない。
王国として存在しているのは紗里真のみ。
点在する7つの小国は折に触れて大国の紗里真を頼ることが多いため、年に二度、見返りのため徴税と称して様々な金品を納めることになっていた。
上下関係のある、協定を結んでいるといったところか。
献上の品にしてはなんら貴重な文献とは思えなかったが、北寄りの綺羅の本であれば、北訛りで書かれた内容にも納得がいった。
「王子は、魔術のことを研究したいと仰っていました」
妹姫と違い魔力が人並みにしかない王子は、魔術に関わる資料をこの数ヶ月ほど集めていた。解里はそう説明した。
「王子が魔術を勉強したいと言っていたのは知らなかった。何故私に相談しなかったのだろう」
礼峰が、気に掛かったことを口にする。
「恐れながら、蒼嵐様は王族の身で魔力の多くないご自分を恥じていらっしゃいました。優れた魔法士でもある礼峰先生にはご相談しづらかったのでは……」
「ふむ……」
あの素直な王子が、そのような理由で相談しづらいなどあるだろうか。
あれだけの優れた頭脳を持ちながら、いらぬ自尊心など欠片も持たなかった無垢な王子だ。
礼峰はやはり腑に落ちなかった。
もう一度、黄色の革表紙を手にとってみる。このなんの変哲もない本が気にかかるのは何故か。
伸びたあごひげをなでさすりながら、礼峰ははじめから一つ一つのページを見直してみた。
やはり、なんということもない内容だ。
しかし。
「……これは」
最後のページ、裏表紙の一枚裏。
そこに記されていた魔法印に目が留まる。
「六芒星……」
ただの魔法印だ。魔道具として魔力を込めてある訳でもない。
だが気になる。唐突に、これだけ書いてあるのは何故か。
例の宗教団体が使う印と同じものだから、これほど気になるのだろうか。
(偶然か……?)
六芒星自体は、使徒団に関係がなくても魔術によく使用する印であるし、魔術関係の本に記されているのも不思議ではない。
少し考えた後に時計を見上げて、礼峰はその本を元あった棚に戻した。
「この本が綺羅からの献上品であったことが分かれば、ひとまずそれでよい。呼び出してすまなかったな」
解里に礼を言うと、その他の本や資料も片付けはじめる。
これから大臣3人で進捗状況を確認するための会議がある。本のことは気に留めておくとしても、いつまでも書庫に閉じこもっているわけにはいかない。
侍従の解里は丁寧に頭を下げて、書庫を出て行った。
「気のせいであれば良いが……」
礼峰は一人そう呟いて、あごひげを撫でた。
男は足早に通信塔までやってきた。
見張りの兵に目配せして、塔の中に通じる扉を開けると身を滑り込ませる。
後ろ手に扉を閉め、目の前に浮かぶ大人が丸まった位はあろうかという、透明な球体に左の手を伸ばした。
「通信装置起動」
そう唱えると、球体の中にざざっと灰色のノイズが走った。
この通信装置は元々、真国内の小国と大国をつなぐための魔道具だが、先日、修理と偽って色々と手を加えられていた。
アンテナの方向も変換済みで、今は特定の人間につながる通信装置として、ごく一部の人間にのみ活用されている。
『……報告を』
球体から響いてきたのは、少ししわがれた男の声だった。
左手を球体の中に差し込んだまま、蒼嵐王子の侍従、解里が口を開く。
「例の魔術拡張用の印について、書庫の中にあった本から礼峰がなにやら感づいたようです」
『書庫の本……ああ、以前に送った、城の中の1つか』
「はい。王子の本だと言ってごまかしておきました。他に配置した印には気付かれていないものの、ヤツは切れ者として知られる魔法士。真相に気付くまで、あまり時間がないかもしれません」
『そうか……いや、捨て置け。問題はない』
「ですが……」
『心配ない。夜明けの時は近い』
しわがれ声のその一言で、侍従の男は目を大きく輝かせた。
「では……!」
『次の新月に向けて、ぬかりなく支度を調えよ』
次の新月までは、あと3日だ。
にわかに出された指令に、解里は身震いして答えた。
「……仰せのままに……!」
ぶつり、という音とともに灰色のノイズがかき消えて、通信が切れる。
「はは……ははは……やっとか……」
腹の底からこみ上げてくる狂気にも似た笑いを堪えながら、解里はふらふらと焦点の定まらない目を宙にさまよわせた。
目立たぬように肌の色に近い薄い手袋をはめた手を、なでさする。
その手袋の下にある六芒星の魔法印は、操られた信者達のものとは違う。自らの血で刻んだ、主への忠誠の証だ。
「あの方に、いよいよ直接お仕えすることが叶う……」
解里はふっと不気味な笑いを消して扉をくぐると、見張りの兵に軽く手を挙げて、そのまま通信塔を後にした。