2-1 二日目の朝
私はどうやら寝坊してしまったらしい。
太陽はかなり高い。位置から察するに午前十時くらいだろうか。
泉を見回すが誰もいない。私はまたしてもボッチのようだ。
ハナナさんはいずこ? ハナナさんはいずや?
もしかして、ハナナさんとの出会いも夢の中の出来事だったのだろうか?
いや、そんなはずはない! ハナナさんは夢なんかじゃない! 現実だ! 実在するはずだ!
しかし私は、ハナナさんの行方よりも遥かに重大な問題に直面していた。
便意である。
オレの膀胱は爆発寸前! このままではお漏らし待った無しである!
いっそのこと野に放ってしまおうか? しかしこの美しい泉を汚染しては忍びない。
そ、そうだ! ここはキャンプ地! 無秩序な排泄が行われぬよう、どこかにトイレがあるはずだ。
探せっ! 探すんだ!
トイレはいずこ? トイレはいずや?
あった!
四方が板で仕切られた、簡易トイレを思わせる高さ二メートル、横幅と奥行きがいずれも一メートルほどの小さな建築物!
慌てて駆け込むと、それは紛れもなく、くみ取り式のぼっとん便所であった。ちなみに和式ね。
ただ、この設備には何故か屋根が無かった。見上げると青空を隠すように雨雲が近づいているのが見える。
もし天上人がいたとしたら、がっつり覗かれてしまうというわけだ。何だか落ち着かない。
なにはともあれ大惨事は無事回避出来た。ようやく別の事が考えられるぞ。
まず最初は……
あっ! そうだ! そうだった! これを忘れてはいけない!
私は右手に巻かれたタオルを剥がす。
パックリ割れた手の平は………完全に塞がっていた。
それだけではない。体のあちこちにあった擦り傷や切り傷さえも無くなっている。これもあの軟膏の効果だというのか。だとしたら凄まじいな。
そうこうしているうちに、辺りが暗くなる。大きな雨雲が太陽と青空を隠したのだ。
こりゃ、ひと雨来るな。そう思った矢先、雷と共に凄まじい雨音が響いた。ゲリラ豪雨だ。
どこかで雨宿りしないとまずい。しかし、辺りには雨宿りできそうな所がなかった。トイレも青天井だしな。
泉の反対側には森が見えるが、泳いで行くしか方法は無さそうだ。どう足掻いても、ずぶ濡れになる未来しか見えない。諦めるしかないか……
あれ? なんだ? おかしいぞ?
激しい雨音や雷は聞こえるのに、泉は穏やかなままなのだ。
空を見上げると、激しい雨は空中で弾かれ、横へ横へと流されていくのが見えた。
どうやら透明なドーム状の何かが、泉の上空を覆っていて、傘の代わりをしているようだ。
巨大建築物? バリヤー? それとも結界? なんだか分からないが、なんかスゴイ。
ゲリラ豪雨は十分ほどで止み、太陽と青空が帰ってきた。
しかしハナナさんは帰ってこない。どこにいっちゃったんだろうな。
不安になって来た私は、手がかりを求めてキャンプ地を見て回ることにした。
まずは囲炉裏だ。ここを基準点としよう。
囲炉裏の東側と西側に丸太を加工した長椅子がある。私が寝ていたのは西側の長椅子だ。ハナナさんは東側の長椅子に座っていた。
泉は囲炉裏から見て南側だ。大体三メートルくらい離れている。
泉は南東方面に広がっていて、南西方面には急勾配の坂がある。私が転がり落ちてきた所だな。
泉の対岸は三十メートルくらい先か。泳いでいけない距離ではないな。森が見えるが詳細は分からない。
囲炉裏の北側は一メートル先に、縦横三メートルほどのおむすびのような大岩が鎮座ましましていている。
西から北、そして北東あたりまでは十メートルほどは平地だが、その先は崖になっていて行き止まりだ。
トイレは北側の崖の近くにあった。さっきまで気付かなかったのは、おむすび大岩が視界を遮っていたから。
東側の長椅子の先には人がかごむと隠れられる位の高さの茂みが複数ある。全裸のハナナさんが肌着を着た所だな。
その先には森へ続く一本道があり、二十メートル先から森だ。かなり深くて道は暗い。
見過ごしもあるだろうけど、大体こんな所だな。
一番手がかりになりそうなのは、東側の茂みだろうな。しかし、近づくのには少々抵抗があった。
ハナナさんが肌着を着てた所ってことは……更衣室みたいなものだもんな。変質者みたいでちょっと……ね。
でも今は情報が欲しいし……。ええい! 行ってしまえ!
思い切って茂みに突撃する私。そこで見たものは!!
脱ぎ散らかしたように茂みにかけられた服。枝にかけられた、ハナナさんの私物と思われる鞄。そして、地面に置かれていた金属製の……なんだろう。首のない女性の胸像?…だった。
やっぱりすっげぇ気まずいので、逃げ出すように茂みから脱出する。
囲炉裏に戻ると長椅子に座り、情報を整理してみる。
服は残っていたけど、ガンベルトは無かった。どうやらハナナさんは昨日の格好のままで行方をくらましたようだ。
つまり遠出はしてないってことか。夜に近場のコンビニに買い物にいくってくらいの軽いノリで出かけたってところか。
不測の事態に陥って戻れなくなったとかじゃなければ良いんだけどな。
嫌な予感がする。心配したところで何も出来ないけど、それでも心配せずにはいられない。
もっとも、私の“嫌な予感”は、これまで一度もあたった試しがないのだが。
探しに行ったところで土地勘のない私じゃ二重遭難がオチだし、待つしかないか…。
それにしても腹減ったな……。太陽の位置からしてもうじきお昼だ。
リュックに何か残ってなかったっけ?
ハナナさんの行方だけど、考えられる可能性は三つ。
本命。森へ続く東の一本道を進んだ。
対抗。泉の向こう側へ泳いでいった。抜け道がある?
大穴。実は泉に潜っている。水底にトンネルとかあったり?
「なんだ、起きてたのか〜! おはよ〜♪」
なっ! 背後を取られた…だと?
振り返ると、北西辺りの崖の上にハナナさんがいた。服装こそ肌着のままだったが、腰にはソードベルトを着けており、追加で靴と手袋を装着しているのが分かる。
そして左肩には何か背負っていた。
「おはようございま〜す! ハナナさ〜ん!」
彼女は私の返事に手を振って答えると、高さ十メートルはあろうかという崖を、えいっと飛び降りた。
肝を冷やす私を尻目に、ハナナさんは笑顔で駆け寄ってくる。凄まじいまでの運動神経である。
「いやぁ、ゴメンゴメン。朝飯を獲りに行ってたんだ。だけど途中で大雨に降られちまってさ。もうお昼だな」
見ると肌着は、絞ったタオルのように濡れていた。
「ところで……その、肩に背負っているのは何でしょう?」
「へっへっへ〜♪ お待ちかねのごちそうだぜ〜♪ 昨日話したろ? コイツが“掃除屋”さ」
そう言いながら、ハナナさんはドサッと地面に置く。
それは全長一メートルはあろうかという、巨大な……
アリだった。
《次回予告》
新しい朝が来た。希望の朝か、絶望の朝か。それはまだ分からない。
謎はどこまで解けるのか? 広げた風呂敷はきちんとたためるのか?
渦中の雄斗次郎の二日目が始まる……。