第三十二話 ロイド、婚姻の儀式その夜・中編
初夜を迎える花嫁、アーデルハイドが逃亡したとの報告は予想こそしていなかったが、俺には大した衝撃を与えはしなかった。
理由? 理由ねぇ…、あれだけ俺を嫌っている女が初夜の場で簡単に俺に股を開くか? な訳ねぇだろうよ。絶対にひと悶着あるに決まっている。
で、やはり事実となった次第だ。まあ流石に軟禁状態の部屋から逃亡したとは予想していなかったがね。
風呂場から急ぎ服を着て執務室に向かう。
執務室に入れば俺に合わせるように家令のジルべスターや婦長のフレイがやってきた。彼らもこの事態には動揺を隠せていないでいた。
「ジルべスター、まずその汗を拭け。
フレイ、事の起こりはユージーンから聞いたが、君から改めて説明してくれないか?」
家令の老人は気温の下がる夜間にも拘わらず汗を流していた。それなり以上に経験を積んだ練達の男でもこの事態は想定外の何物でもないようだ。
「旦那様が命じられた様にアーデルハイドさ…件の女は部屋に閉じこもっておりました。
室内には彼女の侍女が二名、それと当家からの侍女を配しており、可能な限り室内で用を済ませれる様にしていました。事実上の軟禁状態です。
さすがに用を足すには問題ですので、その際は室外に出る事を認めていました。また出る際にはそれとなく監視する者を複数名用意しています。
事の起こりは彼女がこの用を足す為に廊下に出た時です。室外に出た瞬間を見計らってでしょうか、複数の者…男性二名、女性二名です…が彼女を取り巻き、こちらの者を突き飛ばした後、拘束したのです」
「…計画性あっての事だな。なにかその兆候があったと見るべきだが、誰かその兆候に気づいた者はいないのか?
ああそれと怪しいと聞いている庭師の男が関与しているとも聞いたが間違いではないな?」
「はい、その通りでございます。かの者が実行者の内におりました」
それを聞いてフレイの発言を制した。執務室の面々に問う。
「これは突発的な事態かね? では無いよな、明らかに室内と実行者らには連絡の繋がりがある。ならばその兆候なり行動があったのだが、誰も気づかないでいたのか?」
「……申し訳ありません、子爵家の者の間では数多くの使用人らが行きかかっており、その全ての会話内容や指示内容までは把握できないでありました……」
汗を拭きつつジルべスターが発言した。
彼の発言内容はもっともである。当たり前だ、行き来する人間の抱える思考やメッセージの全てを把握なんぞ出来やしない。
しかし穴があったのは事実だ。
「ジルべスター、君の言い分は分かるさ、連中の一行は十人や二十人なんて数ではないのだ、その全員の動向を完璧に把握なんぞ出来るはずがない。
だがあの女を連れ去る手際は良い。これはきちんと手立てを組まねば上手くことは無い」
「それにつきましても言い分けのしようがありません」
「旦那様申し訳ありませんでした。完全にこちらの手落ちです。
旦那様がお怒りなられるのは当然です、ですので私共にいかなる罰を与えて下さりますよう願います」
「…フレイ、確かに手落ちだが、いまは罰をどうこうする話ではない。
アーデルハイドはこの事態を…初夜を迎える前に逃亡する計画をたて、それにかかる行動を想定したのだ。そうして密かに手配りをしていた。
いやそれだけではない、あまりにもうまく行き過ぎている、つまりはこちら側に内通者も居るのではないか、そうは思えるのだがね?」
場に戦慄が走る。ユージーンも頰を引きつらせていた。
「まあ内通者うんぬんの話も後だ、連中は逃亡までを考慮していた。そこで気にかかるのが一点ある。
…子爵家の総意、としての行動かどうかだ。
それと子爵家が関与している、していないを含めて逃亡にかかる全ての行動予定だ。この点を考えよう」
ジルべスターに目配せを送る。
老練な家令はすぐさま思考を巡らせている。
見ればわかる。彼は熟考する際に髭を撫で付けるようにさわる癖があるのだ。
俺も演繹を始める。
……子爵が関与しているか? 違うと判断する。あの子爵なら娘を縛り付けてでも初夜に持ち込むに決まっている。
大体だな、貴族の男の思考の方向性は男尊女卑で利益至上主義だと決まっているからな。女性の権利を向上させる運動をしている俺でも、この原理は働いている。ましてや程度の浅い子爵ならこの原理原則はむしろ当然だ。
さて、そんな子爵がこちらの用意した餌(結納金や利権など)を取らずに娘の我儘を…この土壇場で取るとは考えづらい。あれはあれで当主なのだ、計算くらい出来る人間だからな。
では母親か? いや間違いなく違う。彼女は俺の意向を理解していた。
なら、残るはアーデルハイドの兄や姉ら、それしかないな。長男ともあれば家中にそれなりの影響力を持っていて当然だ。それにあの連中は揃って程度が低い、腐った果実そのもの。プラスして、理より情を優先する様なマヌケなガキ共だからな。
…いやいや、それは俺の思い込みだ、決めつけてはダメだわな。しかし、軟禁状態からの独自の才覚で脱走などとは有り得ない。共謀あっての仕儀、ならば逆算してもあの息子連中以外にあり得ない。
そこに庭師の男というファクターが入る。ここに至りそ奴がただの庭師だとは思わない。
……なら、可能性としてはアーデルハイドの恋人だと見てみる。
うん、しっくりくるな。庭師に成りすまして一行に付いて来る。そうしてここ一番のシーンで花嫁を醜悪な成金男から奪いさり、逃げ切って幸せなふたりの生活が始まる、か、うんうんイイ話だ。お茶の間ドラマなら視聴率も上がるんじゃね? ハーレでクイーンなパルプフィクションでもありがちな、それでいて望まれる展開であるな。
しかし、何かを見落としているような。なんかもやもやする。
ま、生憎とこれはドラマでもない。これは現実で視聴者も読者も居ない俺とアーデルハイドとの婚姻なのだからな。決して庭師に扮した男とアーデルハイドとのラブストーリーでは無いのだ。
……個人的にはアーデルハイドには幸せになって貰いたいのだが、残念ながら彼女が横紙破りを敢行したのだ、あまり愉快な結末にはならないな。いや残念残念……、ゴメン、俺はいま笑いを禁じえないでいる。
当たり前だ。ぶっちゃけこんな愉快な展開になるとは思いもせなんだわ。彼女との間に愛情を持つ気もなかったし、幸せになる為の努力をする気なそ更々ないのだ、貴族らしく建前と見栄で行なう芝居に過ぎない。
俺にとって結婚とは“義務”それだけでしなかい。
真なる愛情、というのは在るだろう。幸せな生活、そういうのも在るのだろう。
だが俺はそれらを必要だと思ってはいない。
ああ、世の中には愛情で繋がる絆があるさ。実際に愛し合って幸せな生活を営む人たちが数多く存在している。しかし、それは俺にとっては必要でいない。
愛情も忠誠も、俺は信じない。
寂しい人間である、とは思わない。理由? 理由なんか知らん。理由だって俺は求めない。必要ないのだ、心底そんな“モノ”必要でない。
ユージーンが俺に向ける愛情は本物だろう、と思う。
またジルべスターやフレイらの忠誠は本物だろう。だがやはりそれは彼らの話(あるいは都合)で、俺の話(都合)ではないのだから。
ああ、ずいぶん脱線してるな。俺の心情なんぞ関係ない話だ。
「……ロイド様、いくら計画を立てていようと此方は彼らの馴染みのない北部です。逃げるにせよ道中は夜間もあり選べる手立て多くありません。
まずは警察機関に通報し封鎖を願い出るべきかと存じます」
「ジルべスターさん、巡羅の方々を呼びまわれば騒ぎが大きくなります。これは当家の…旦那様の恥に繋がる案件ですよ」
「フレイ、そうは言うが我らだけで領内の街道に人を回せる余裕はないのですぞ」
「…しかし……」
「フレイ、これはジルべスターが正しいよ。こちら側に手配りを回せるほど人間はいないのは事実だからな。ここは警察機関に手を回すべきだよ。
ジルべスター、至急に館の警備についている巡羅の隊長に事の次第を伝えてきてくれ。上役と繋を取って手を回してもらわねばな。それと今、館の中は捜索しているのか?」
「はい、部下で手すきの者は全員が館中を探しております。またその際に可能な限り慌てて探すような真似をするなとも厳命しており、間もなく一報が入ります」
「ん、承知した。
さて、では子爵がどこまで関与しているかを検討しよう。なにか意見はないかね?」
「恐れながら…」と子爵に付けている執事…グレッグが口を開けた。
「…恐れながら子爵様はまったく関与はしておりませんでした。先程も相当に動揺しておられたので、まず間違いありません」
「そうか、あいつは知らないでいたのか……。
わかった、で、あいつはまだ来ないのか? グレッグ、君はちゃんと伝えているんだな?」
「はい、子爵様は子爵家の手の者に捜索を命じておいでです。それが済み次第こちらに参ると申していました」
「ふん、あいつもそれなりに苦労すれば良いさ」
「坊っちゃま、発言よろしいでしょうか?」とユージーンが口を挟んできた。
「聞こう、なんだい?」
「有り難うございます。では申し上げます。
あの女を捕らえたなら、坊っちゃまは如何なさいますでしょうか。婚姻の破棄、ですか?」
「…捕らえてもいないのにその後のか? 先にすべきは逃げた彼女を周りに気づかれずに確保、それが大事なんだがね、違うか?」
「申し訳ありません、ですが坊っちゃまの御心づもりを知っておきたいと…」
ユージーンが深々と頭を下げるが、あまり本心で謝罪している風には見えない。
……彼女からして見れば俺を欺いたあの女の処遇を知りたかったのだろう。
頭の中でひとつため息をついて、俺を愛してやまない乳母を見やる。
「とにかく可能な限り騒ぎを起こさずに確保するように、その後は…、まぁ、その後は問い詰めた後に婚姻関係の義務の履行をせまるよ」
「こ…この期に及でまで義務の履行をですか!?」
「なにを驚く? 彼女は俺の妻になる為にこの地に来たのだぞ、ならば初夜を務め上げるが正しいであろう?」
「…坊っちゃま! あの女は!」
「妻だ、それ以外になんだと言うんだ?
裏切ったから? それが何だ、“まだ”不貞をはたらいた訳ではない」
ユージーンのみならずジルべスターもフレイも、執務室に集まった連中は等しく血相を変えていた。
……そんなに変か?
「君たち、いったい何を驚く? この婚姻の儀は西部にこちらの経済的侵略の橋頭堡を築くのと、三下貴族の子爵をやり込める為に行なうのが目的だ。
まだその予定の半ば、演目ならまだ山場に来てもいないのだ。当然、俺は役を降りる気はしない」
「あの女は! あ…あの女はもう既に裏切っているじゃないですか!」
ユージーンのヒステリックなセリフがウザく感じる。
元来おっとりとした彼女だが、時おり感情が爆発したりして困るな。…ユージーンに限らず女性はこうした感情の昂ぶりが出るものだから少々ウザいのだが。
「嫌いな男から出来る限り離れる、よくある事だ。それならまだ裏切りにはあたらない。
裏切りというのは主人に対して阿りながら裏では主人を蔑視し、他の男に股を開いて嬌声をあげる、それが裏切りだ」
「……旦那様……」フレイが多分に憐憫を含んだ眼差しを向けていた。
彼女からすれば俺はずいぶんと歪んだ愛情をもった可哀想な男なんだろうよ。
「…フレイ、その目はやめて欲しい。
多少厭世的なのは認めるがあながち間違ってはいないだろうに…。
さて、話を戻すが、子爵は関与していないが“誰かが”手を貸して、ときた。その実行者は正体不明の庭師の男である。しかし、単なる庭師ではないのは明白。
ここでアーデルハイドが貴族籍の女性だというのを当てはめる。
であるなら、その男もそれなりの身分であると見当がつく訳だ。それなら報告にあった庭師に見えない風体にも説明がつく。
だが……」
一度台詞を切る。水差しの水を副えてあるグラスに注ぎひと口、喉に流す。
「…内部に手引きした者がいると俺は考えた。さもなくば子爵家一行に紛れ込めないからだ。
では誰が手引きしたか? 子爵と夫人は除外できる。
子爵は腹芸が上手い人間ではない。また夫人はその人柄故に向いていない。
…残るは兄や妹らだ。しかし見た所あの兄らは子爵同様の愚物、評価に値しない。となれば消極法でアーデルハイドの妹が残る。
彼女もまた俺に対して好意的に見ていない。ああ、醜男の僻みであるから公平性に欠けるな。ふん、まぁ、であっても事象面からそう離れてはいないだろうよ。
さて、そうとするならノーマーク…失礼、まったく見ていなかった人物が関与していたのになる訳だ」
ついつい日本人であった影響で横文字が混ざってしまう、こっちじゃあ英語などは通じないんだからな。
「いやはや、手落ちもいい所だ全く笑えんな、うまく引っ掛けられた! これで俺は笑劇の道化となったわけさ」
「笑い事ではありません! 坊っちゃま、これはお芝居ではなく、現実にあるれっきとした反逆です。
坊っちゃま、あの女のみならず子爵家の連中を捕らえるべきです。捕らえて、伯爵位に在られる、その上位階たる辺境伯様におわす坊っちゃまを謀った事に正当な裁きを受けさせて下さい。
これは御家に対する明確な反逆行為ですよ!?」
「反逆行為ねぇ? まあ確かに反逆行為ではあるな。
では聞くが、それを公にした場合に恥をかいて笑われるのはファーレ辺境伯のロイド様だ。ユージーン、君には悪いが俺は婚姻の儀に失敗したマヌケな笑い者だとの周囲から評価を受けたいと思わないのだ」
つまるところはここに帰着する。
日常のささやかな場面での笑い者にはなってもそれは構わない。むしろ親しみが出てポイントが高まるくらいだ。だが、結婚式の夜に花嫁を逃したマヌケな領主様の役は遠慮したい。そいつは流石に看過できない話である。
ただえさえも新人領主の俺は他者から軽く見られているのだ、箔を飾らねばならない時期にこれ以上のマイナスポイントは頂けない。
体面なんてモノは積み重ねが物を言う。俺個人ならまだ笑い話に済ませても、残念ながら俺は俺ひとりのモノでは無い、言うならば俺がファーレ領なのだ。
背負うものは俺だけに留まらない、領民の生活やその諸々全てが掛かっている。それは軽々しいモノではないのだから……。
「さて話を戻して、誰が手引きしたか?
容疑線上に上がるは子爵家の誰かだ、それは間違いない。しかし子爵と子爵夫人は外しても構わない。人柄にしても動機にしても論外だからな。
ならばだ、残るは彼女の兄や妹らだ。
兄か? いや違うと思う。あの兄の思考や立ち振舞は父親のそれと大差はない。ならば密かに手配り出来るほどの才覚はないさ。
では残るは次兄と妹だ。
次兄と妹の両者なら妹の方は家内における影響力はすこぶる低い。まぁあの姉にしてあの妹なので、俺に見せている態度からなんらかの手助けはしているだろうさ。
さて、結果的には次兄だ。あの次兄は兄よりは要領からの良いと聞いている。また兄弟仲はみな良いので嫌な男に嫁ぐ妹に同情していてもおかしく無い。いささか根拠としては薄いのが難点だが、次兄が主導しての逃走劇なら今までの推論に不都合はないさ」
一度区切り、執務室の面々を見渡す。
反応が知りたいから、その中の一人を指す。
「ドラクル。貴様には俺の推論はどう感じたかね?」控えめな場所に佇む隻眼の学者先生に水を向けた。
「……偏見こみにしても、まあわからんでもないな。
しかしだが、犯人の範囲を狭めすぎてはいないか? いや他に居ないのも理解している。だからこそ盲点があるんじゃないかと思うよ」
「もっともだ、貴様の意見は正しい。だが推論しても子爵家の誰かにしか思い浮かばないのでな」
「ああ、理解しているよ。だからお前様の推論自体には反対しない。
で、犯人らに対して如何な処罰をつけるや、ファーレ辺境伯殿よ?」
……時代がかった言い回しだな……。
「……花嫁は捕らえなければならない。また逃亡を画策し手助けした者には何らかの制裁をつけるさ。だが俺はアーデルハイド本人には何ら危害を加えるたぐいの制裁は行わないのを明言する。
理由は単純明快、彼女に手出しした場合、俺が狭量な男だと思われたくないからさ。
ここは寛大な裁量を示して『彼女を優遇する』とさせて貰おう。
ただし、子爵家にはそれなりの代償を払って貰う。何をもって代償とするかは腹案がある。ま、それは子爵に告げるので今は説明しないがね。
さて、では子爵を連れて来てくれ。なんだかんだとゴネようがそいつはもう無視しろ。
…いや、子爵家全員を呼べ。
うん、かの一家は全員呼ぶように。ここらで沙汰を下すのと連中が誰を相手にしたかを認識してもらおうか」
いよいよ子爵に引導を渡すのだ、今の発言も口調をきつくして言ってみた。
それが分かったのか、子爵担当のグレッグが表情を硬くして一礼した。
いよいよ佳境である……。
「…旦那様、ユシュミ子爵家の皆様をお連れしました」
グレッグが帰ってきた。
彼が席を離れている間に執務室から俺の座る椅子を除く応接セットを撤去させている。もちろん嫌がらせの為の演出だ。
子爵を先頭にかの一家が勢揃いした。
俺はゆったりした椅子にふんぞり返り子爵を睨めつける。
「子爵よ、貴様の不手際の釈明を聞かせろ」
怒りより嘲る調子で詰問した。
俺からの先制に子爵が不機嫌さを隠さない視線を返してきた。
「……不手際というが、私のあずかり知らぬ出来事だ。それの何を釈明せよと?」
「なあ『子爵』よ、貴様は誰に向かってその様な口をきくつもりだ? ずいぶんと『子爵』ごときが『辺境伯』たる俺…ロイド・アレクシス・フォン・ファーレに舐めた台詞を吐くかね?」
俺の台詞に子爵の顔が引き攣る。視線を合わせていないが彼の後ろの子爵家の面々が身震いしていたのが分かる。
子爵と伯爵(辺境伯、侯爵)を分かつのは帝国に併呑される時に王位を持っている者が伯爵で、子爵とは王位を有していない場合に民意から選出された者が子爵をなのるのだ。
「…しつれ…いをしましたファーレ辺境伯閣下」
「なんだ、ようやく理解出来たのか、いやはや頭の出来の悪い代議士上がりの貴族はこれだから困る。
ま、それはいい。子爵よ、俺に対する一連の無作法はいったん棚上げだ。だが、この度の様は何事だ、貴様の三女は俺をなんとするつもりなのかを説明しろ」
子爵は顔を歪ませて何かを口内で語っている。
「なにモゴモゴと反芻している。俺がなにを貴様に求めた? …それとも約定を反故した挙句、俺の顔を潰すが目的なのか?」
「………」
子爵は答えないでいる。いやわかっている、子爵は娘と俺との婚姻を反故にする気はない。
理不尽であろうが、ここはソレを利用させて貰うさ。
「ずいぶんと気持ちの良い話だな、子爵が伯爵位の男を嘲笑える機会などそうそう無い……」
俺が子爵を口撃していると執務室の扉が控えめに叩かれた……。
扉に近いグレッグが一礼して執務室を出て行く。
が、すぐに戻り家令のジルべスターに耳打ちする。
…ジルべスターの表情が引き締まるのが見えた。
ジルべスターは足早に俺の側に寄り、口を開いた。
「ただ今、アーデルハイド様の身柄を確保いたしたとの報告がありました」
……そうきたか。まあ吉報であるな。
「それで? 彼女はどこに居た?」
「はい、彼女は当館の旧主塔、その地下に潜んでいたとの事です」
……ああ、あそこね。
旧主塔とはこの館に残る旧時代の遺構である。
この館は帝国に併呑された旧国主の城を破壊して造られた物だ。帝国に呑まれる条件に国主の城は破壊せよとの条項があった。
要は組み敷く女に股を開けという台詞だ。
城、というより城壁の類を破壊する事で帝国に逆らう気はありませんとの表現なのだ。これは帝国の第二王朝以降の全ての併呑した国家に対しての処置である。
その為に、城は防御施設の機能を取り除かれた。
主塔も当然壊される対象で更地となったのだ。少し説明する。主塔とは防御壁に重なる場合が多いが、壁とは別に敷地内に独立して建てられる物もある。
この地の主塔もそのタイプだ。
塔はその性格上、物見や通信所に使われるのだが、実際には内部の大半は倉庫である。また地下も掘られ、倉庫や捕虜を捕らえておく施設でもあるのだ。
ジルべスターが伝えてきたのはこの主塔のあった名残り、その地下倉庫であった。
なるほどなるほど、ここは隠れるのには都合が良い。
思えば闇雲に逃げるのは愚策でもある。
いったん逃げたと見せかけ、その実、足もとに身を潜めて捜索を逃れる。その後に包囲網の隙間を狙って遁走する、か、…うん定番であったな。
しかしこの手のありふれた逃げ方に気付かない俺は相当の間抜けだわ。馬鹿らしいよりも恥ずかしい。
ま、所在が知れたのはラッキーとして子爵家の処遇が先だ。
「捜索に当たってくれたには感謝する、苦労。
ふん、子爵よ、花嫁が見つかったは置いておく、先にき…お前からの謝罪、ならびに俺が被った迷惑の代償を払ってもらおうか」
もう面倒だ、お前扱いでいい。
「…謝罪…だと? …いや謝罪はしよう。だが迷惑の代償とはなにか?」
「あ? しよう? 子爵、お前の頭は底が抜けた桶でも入っているのか? ああ、だからお前は駄目なんだ。さすが子爵位にある者は程度が低い。昨今はこんな連中でも貴族を名乗れるとはな。いやはや良い時代になったものだな、かつて大陸に覇を唱えた第二王朝の御世なら、軽く打ち首にさせられるよ。
ふん、いいか、お前のそのくず野菜にも劣る悪い頭にでもわかるように教えてやる、お前には利用価値があるので結納金を払わない等とは言わない。きちんと満額を支払ってやるさ。
だがな、お前の不始末により、お前の価値は最底辺にまで下がった。これではお前に利益ばかり軍配が上がり、俺の持ち出し分だけこっちは損をしているんだよ。
ならばだ、ならばその収益の不均衡を是正せねばならないよな? そこで俺は婚姻の取り決めの際に決めた、子爵領への出店に目を向けた。
具体的には追加で幾つか取り決めを増やせてもらう。
…ひとつ、出店に必要な地所を最低限の価格で提供する事。
ふたつ、手頃な地所を紹介するのでは無く、主要大通りに面した一等地を差し出せ。
みっつ、出店した後、向こう三年分の収益からの納税を免除する事、をだ。これが俺がお前に要求する詫び金だよ。理解できたかね?
ああ、お前がごちゃごちゃ言うのは無しだ。この全てを飲み、承諾しろ。
良いか、お前には選択する権利もないし、俺と交渉する事も出来ない。お前はただ俺からの要求を受け入れねばならないのだ。
子爵よ、お前が言えるのは、『了承します』、それだけだ」
本来交渉するには相手に逃げ道や融通を利かす振り幅がなくてはならない。だが今は俺がイニシアチブを離さずに一方的に押し込むのが最良だ。時には強気で行くのもアリなのだからな。
「……それは…、いや、それは飲めない。その様な一方的な要求はとうてい了承出来ない!」
案の定、子爵は血相を変えて反論を口に出してきた。
「子爵、俺は交渉しないと告げた。その意味を理解できないのだな? なるほどわかった、では言い直してやる。
…子爵よ、お前に『命令する』。
どうだ、これなら理解は出来るな?」
「ふざ…ふざけるな。貴様、貴様がどのような権利で俺に命令出来るというか!? くだらん、くだらん、全くくだらん話だ!」
「ほう、この後におよびまだ抗弁するのか。
なあ子爵、お前は貴族の強権を持って他人に命令した事はあるよな? それをいま伯爵位にある俺が下位位階の子爵のお前に使うのだよ。どうだ、これでもまだ拒否出来るか?」
俺からの強権発言にようやく子爵は黙る。
侮蔑の色をたっぷり乗せた視線を送りつける。
当然、子爵は怒りを篭めた眼差しを返してくる。
しばらくの間、俺達は無言の応酬を交わす。
……結局、負けを認めた子爵は視線を落とした。
「…………辺境伯閣下の仰せに従います」
悄然と項垂れる子爵家当主の男、実に哀愁が漂っている。うん、やはり勝利するのは俺だ。
にやにやと頬が緩む…のだが、それを気にいらないのが居た。
子爵の長男が肩を怒らせ前に出てくる。
「父上! なぜこんな男に頭を下げますか!? この様な若造ごときに頭を下げる必要などありません、父上がいま負けを認めれば」
「馬鹿は口を挟むなっ!」
場をわきまえない子爵家長子に一喝した。
「お前にいつ発言を許したか!? そも、これは俺と子爵と会話しているのだ。たかが子爵家継承権を持つだけの青二才風情が辺境伯位に立つ俺に口を挟むなぞ言語道断!
おい、そこの馬鹿息子よ、お前が何を思うのかは自由だ。俺とてそれをとやかく言う権利はない。だがな、思うのは自由でも発言するとなれば話は別、それも上位階の者に対し、位階を有してすらいない子爵家継承権保有者、その程度の三下奴が口を挟むとは増上慢たるや甚だしいわ!」
一喝では足りなく思い、つい文句を吐いてしまった。まぁ馬鹿を罵るのは楽しいから構わないのだがね。
ラノベでありがちな馬鹿なモブ役が主人公に楯突く構図である。
しかし、ちょっと違うのはこの男はハンサムに分類出来る男で、対する俺は椅子にふんぞり返ってにやにやと笑う悪役顔なのだ。これでは傍から見れば(仕方ないとは言え)俺が悪者な構図にしか見えない。
まあなんだね、俺は体重が120Kgを越えたデブで、頭はつるんつるんに剃り上げた見てくれの悪ーい男なんだよね。昔は単に損してるなぁとしか思っていたが『あれ? これってば逆に考えれば威圧感を装ってみれば面白いんじゃねーの』と逆の思考を思いついたのだ。有り難うジョー○ター卿、貴方のお陰でロイドは成長しました。
頭を剃ったのは薄毛も合ったが、悪役ならハゲもアリだな! との偏見からやってみたのだった。
これが中々にハマっていた。帝都にて学士としてだけでなく貴族の人間として振る舞う必要上、威厳や存在感はあればあるほど有利に傾く。
威厳なんてモノは中年壮年と成長して得られる特別なギフトに他ならない。二十歳に満たない若造では万金を積み重ねてでも得られないのだからな。
それが悪い顔を意図的に作り、頭を剃るだけでゲットしたのだから儲けものだった。
反面、女性方からの評価は低空飛行…いや絶賛墜落飛行であった。
俺の人となりを知るレティカや学士仲間が居なければ墜落の後から地下へ突き進んでいた。
自己自爆…こんな言葉は無いが…であるが、自爆と引き換えに俺は威厳(または存在感)を手に入れた。以降、俺は良くも悪くも“存在感”を武器にのし上がる。
そして、それは今も絶賛発動中であったのだ。
「なあ子爵家長子よ、お前は何様のつもりだ? 今は貴族の当主という大人ふたりの会話であるぞ、お前ごとき…たかが継承権を有しているだけのお子様には俺達の会話に参加できる訳がないのだ。
身の程知らずめが、よろしい、これは大人として教育を施さねばならないな」
そう言いつつ立ち上がる。
壁により、室内の装飾にしてある立て掛けられている古い時代の剣を取った。
「……無礼打ち、そうさせて貰おう。
辺境伯たる俺に対する無礼を働いた罪は死んで償うのも古来からの習い、さ、そこに膝ついて首を差し出せ」
演出、まったくの演出である。だが、貴族令の中にはちゃんとこうした無礼打ちなる特権があるのだ。俺は機会主義者で、利用できるならは何でも利用するのが主義であるのだ、『乗るしかない、このビッグウェーブ』そう、今はこのノリに乗っからせてもらうさ。
長くなってしまっているので、その夜・後編に続きます。