馬小屋
馬小屋
そこにいる人物が、自分の知っている人間である保証はない。久しぶりに会う人間の姿形が、確かに自分の見知ったものと、同一である以上、その人は、自分の知ったその人である、と確かに言えるのであるならば、それはその人と断定しても良いのだろうか。そんなわけはなかった。一週間ぶりに会う人間は、その一週間のうちに成長を遂げているはずだし、皮膚は一週間分生命の衰えた衰退ぶりを、いやがおうにも、表出せざるを得ないのだ。だからその時会った麻子が、自分の知っている麻子と、本質的に違うものであると云う予感は、何よりも正しかったのだ。
「久しぶりだね、君と会うのは」
やるせない思いを抱きながら、裕吾はいった。
「そうかしら一週間を久しぶりと云うのなら、それは、そうなのかも知れないけれど」
裕吾の言葉に、麻子は冷淡だった。裕吾の目を見もせずに、どこか裕吾の二の腕あたりを見ながら、口は最小限の動きで、さも無理矢理押し出したという感じの答えだった。どちらともとれる言葉に噛み付いて相手を不機嫌にさせることの得意な麻子は、この裕吾の何気ない挨拶にも噛み付いた。最近二人が会うのはこの日曜に限られていた。たしかに、学生だった頃のように毎日会えるわけではなかったが、だからといって週一回合うか会わないかまで、二人の都合がつかないわけでもなかった。
「今日は何処に行こうか、ここで」
そうして裕吾は言葉を継いだ。
「ここでこうしているのも、つまらないし」
裕吾は一呼吸おいて麻子の反応を待った。しかし麻子は特に何にも云う気配はない。
麻子は冷淡な、つまらなそうな表情を浮かべながら氷の上に残ったアイスティーを飲んでいる。
裕吾はカップを取り上げると、底の方に残った珈琲を啜った。
ほろ苦い味わいが口の中に広がっていく。裕吾の、今の感情を正確に表象したような、そのような珈琲の味わいだった。向かいの麻子はどこか、テーブルの砂糖瓶のあたりを、焦点の合わないその視線で眺めている。
裕吾はやり場のない視線をふと、麻子の向かいに向けると、向かいの席では、仕事中だろうか、スーツを着た男が片手に書類を、片手にコーヒーカップを持っている。そうして、一枚一枚書類を捲っては、その都度カップを口に運び、また書類を捲っている。その動作の繰り返しを見ている内に、裕吾が口元にカップを持って行くと、視線だけ向かいの席にいっていた手元のカップは裕吾の口元から幾分ずれて、口に届かずカップから滴り落ちた珈琲は、裕吾の太ももへと落ちていった。下唇から落ちた珈琲はゆっくりと、裕吾の太ももまで落ちていった。ももの付け根で弾けた珈琲は、幾多りかの粒と成って広がったが、すぐに繊維の中に染み込んでしまい、あとにその名残を残さなかった。
「こうして会えるのもそう多くはないのだし」
零れた珈琲の後を指先で辿りながら、裕吾は呟いた。そう言った裕吾の胸中は複雑だった。安田が居なくなって以来、麻子にどう接して良いか解らなくなって、それからはこのような、曖昧な歯がゆい思いを巡らす関係が続いていた。どちらかが喋り、相手は沈黙する。再び言葉をかけても、それはつながりを持たずに、ただ二人の間で黙然と消えてしまう。そのような沈黙と、相互不和を主体とした会合を二三、続けていた二人は、安田を介して繋がっていたのかも知れない。今になって思えば、長野まで星を見に行ったのも安田の提案だったし、あのときの夕食会も、安田が来てからの記憶のほうが、鮮明に残っている。裕吾が安田に話し、安田が麻子に話す。麻子が安田に話し、安田が裕吾に話す。そのような関係が、三人の間には、広がっていたのだ。だから、今になって安田の死という喪失に直面して以来、二人の関係は、本来在るべき姿、気心の通じないぐたぐたなものになっていた。
「そろそろいこうか」
一言漏らす裕吾、ただ黙っているだけの麻子、向かいのサラリーマンは書類を纏めると、さっさと会計を済ませ、出て行ってしまった。新しく入ってきた主婦の二人は、近所の若者が少年院に入った話しに夢中になっている。二つ向こうの少年は、トイレから戻ってこない母親に不安を覚えたのか、きょろきょろと辺りを見回していた。そうして裕吾と眼があったが、その、見知らぬ喫茶店で一人残された少年は、裕吾に救援の合図を求めるでなく、年少に特有の潤んだ瞳で、じっと、母が来るのを待っていた。麻子の肩越しに少年を見ていた裕吾は、少年の元に母親が戻ってくるのを見届けると、そろそろ行こうか、と、再び麻子に切り出した。麻子は頷きもせずに立ち上がった。二人は会計を済ませると、その店を後にした。裕吾の隣を、麻子は歩いていたが、歩く二人の距離は昔よりもだいぶん離れていた。本来なら安田が居た、二人の歩く間、人一人分の空いたスペースに、今は空虚な、空間が広がっている。裕吾は、麻子と手を繋ごうと左手を差し伸べた。裕吾と麻子の歩く二人の間を、向かいから来た人が過ぎさっていき、裕吾はそのタイミングを逸してしまった。二人の間の空間は断絶する。本来安田がしめるはずの空間を、見ず知らずの人たちが、無遠慮にまた、過ぎさっていく。沈黙は続く。
「あの」
そう言った裕吾の声は、騒がしい喧噪のなか、麻子には届かなかった。
「あの」
もう一度云った言葉に麻子は急に気のついたような反応を示して立ち止まり、うん、と、一言、云った。
「このまま、何処に行くとなく歩いていてもしようがない、明快な行き先がないと、ただ歩いているだけということには、余り耐えられない」
辛抱つかなくなって裕吾は云った。先程から続いていた沈黙に、どうしようもなくなってしまっていた。
「だけど、明快でない方が良いことの方が、世の中には多いわ。私たちが今、歩いている事も、何処に行こうかと云うことも、いっそ決まらないまま、このまま何所へいくとなく、歩いていても良いような気がするけれど」
麻子の言葉に、裕吾は傷ついた。何でも区切りを付けなければ、気の済まない裕吾は、麻子との、ただ薄ぼんやりとした無目的な探索に、勤行にちかいものを感じていた。そうして裕吾は悲嘆した。二人の性質はここまで相容れないものだったのだ。安田が居ないと、ただ、何気なく歩いている事も、満足に出来ない二人だったのだ。
交差点には、人が溢れかえっていた。行き交う人の波は、車の流れで断絶され、また、大きな波を形成していく。
二人は相容れないものだった。そのような所感を感じながら、裕吾は、何所に向かうともない憤懣やるかたない気持ちを抱いていた。そうして、やがて、裕吾は言った。
「僕たちは、数と言葉のような関係だ。数はそこに収束していくけれど、言葉は、そこから発散していく。二つは決して相容れないんだ。そこに留まり、物事を色濃く宿していくか、物事に広がりを持たせるために、どこまでも広くいってしまうか」
裕吾はしゃべり出した。もう堪えられなかったので、頭の中にあったことをそのまま、思うままにぶちまけた。そうして滔々と、麻子を壁か何かのように思いながら、頭に浮かんできたことをぶつけていった。
「また、訳のわからない講釈が始まった」
そう言って麻子が少し笑った。頬を弛めて、口先には笑みが浮かんでいる。思いがけない昵懇に、それだけで裕吾は救われた思いだった。
そうやって二人が歩いていると、次第次第に言葉少なになってきた二人の間には、やがて沈黙が訪れた。黙って歩いた。先ほど一瞬だけ起こった笑いは、瞬間の救いだったけれど、今ではもうあの和やかな雰囲気は、遠い昔の出来事のように、置き去りになってしまっていた。信号で立ち止まる。ちらと、麻子の方を見やると、麻子は真っ直ぐに、前方、どこか建物の壁面のあたりを見ていた。信号が変わる。後ろにいた人たちが、麻子と裕吾、二人を抜かして、横断歩道を渡っていく。二人は、ゆっくりと歩き出す。しかし、横断歩道の真ん中まで来た麻子は、ふと立ち止まって、何か物思いにふけっていたかと思うと、暗い沈黙、裕吾はそんな麻子を見て立ち止まり、振り返ると麻子を見た。その目はうつろに、どこか虚空の彼方を見つめていた。そうして横断歩道の真ん中で立ち止まっている麻子は、ぽつりと、心の中を打ち明けた。
「結局、私は、裕吾くんにとって何だったんだろうね」
横断歩道の真ん中で、立ち止まった麻子が聞いた。青信号は点滅を始める。信号待ちの車は列を成し、今か今かと、動き出すその時を待っている。
「私たちって、どちらかがどちらかに気を遣っていないと、相容れることも出来ないんだね。会話の途中で、相手の顔色を窺って、相手が不機嫌になっていないか注意しないと、そうしないといけないんだね。どちらも思いの丈を素直に打ち明けられる関係って、そのようなのっていいな。でもそうするには、私たちって、変わらないといけないんだよね。どちらかが相手の思うような人格に、変わらないといけないんだよね。」そう言うと麻子は俯いた。
「裕吾くんは私のために変わってくれる?」
横断歩道の真ん中で、麻子は聞いた。麻子の目の前で裕吾が立ち止まっている。
「僕は僕だ。麻子にとって僕というものが何であろうと、僕の中の根幹は変わらない。麻子がどのようなものだろうと、麻子が何を言おうと、僕の中の心は変わらない。決して変容しない重しのようなものだ。心の中にどっかりその地位を占めて、決して其所から動こうとはしない」
裕吾も振り返ると、これに応えた。このときはじめて、麻子は裕吾の目を見た。そこには寂しげな光が宿っていた。
「そんなことを言われるとつらい。こんなとき、普通は自分を相手に合わせようと、相手の中に入っていこうとするんじゃないかな。立ち止まって固く纏まっていくのでなくて、開いていこうとするのじゃないのかな。相手の気持ちを汲み取って、そこに合わせることが大切なんじゃないのかな」
麻子が反論した。点滅した信号は、もう変わる。
「わたしたち、こんなこともわかり合えないまま、一緒にいたんだね。安田くんが、こんな私たちの、意見を上手くとりまとめてくれていたんだね。そんなことも、失ってみないと解らないんだね」
裕吾は振り返ると、横断歩道を渡って歩き出した。麻子はそんな裕吾の後ろ姿を見ていたが、やがて、距離を置いて歩き出した。背後で、車が、一斉に走り出す音がした。二人の距離は縮まらなかった。
距離の縮まらないまま、二人は歩いた。二人の歩く、道の脇には、大学の広大な敷地が広がり、大きな樫の木が、二人の視界の端を過ぎっていく。樫の木は大きく、樹齢は百年を越えるだろうか、見るものに威厳を感じさせた。大学の正門からは学生が歩いてきた。陽気な笑顔を浮かべ、研究室の同僚だろうか、仲の良さそうな二、三人で歩いて行く。信号を渡ると向かいのファミリーレストランに入って、そうして学生たちは行ってしまった。右側には大学の広大な敷地が広がり、左側には植物園とその先には本屋、向かいにはカフェがある。足下の石畳は一個一個埋まっており、裕吾の一歩が、石畳二個分に相当していた。その通りを麻子と裕吾、ゆっくりと二人は歩いた。そうしてゆっくりと歩く二人の前方を、突然、黒っぽい大きな固まりがせまってきた。驚いた裕吾は立ち止まり、その固まりを見つめていた。その後に歩いていた麻子は、裕吾同様、ふと目の前の怪異に気がつくと、裕吾の隣で立ち止まった。そうして二人は横に並んだ。二人は、その、黒い固まりを見上げていた。
馬だった。人の背丈以上もある大きな馬が、前を行く人の手綱に導かれて、横断歩道を渡っている。大都会の真ん中に、人と車の溢れる歩道を、一匹の馬が渡っていった。
「馬が居る」
「馬」
曇り空の広がる空間を、その身に凝集しているかのように、映えるその黒いからだは、艶を纏い、淡い光に輝いた。黒く縁取りされた眼は、淡い光を纏いながら、優しく、その中に、あたりの情景を映し出している。その眼には、道行く人たちの姿形が、きれいに映し出されていた。
「なぜ、大都会の真ん中に馬が居るのだろう」
裕吾の口をついて出た言葉は、思った事をそのまま言い表したものだった。目の前を通り過ぎていった馬は、カツカツと心地良い、蹄の音を鳴らしながら、木の生い茂る建物の脇を通っていく。馬のその周りだけ、あたかも神官が、行列を作って通り過ぎていくかのように、重々しい、厳粛な空気が広がっていた。
何故、大都会の真ん中に馬が居るのだろう。時代錯誤も良いところだった。文明の中に迷い込んできた戦国の世の、非文明の代表格とも云うべき存在を、どのように判断して良いのか裕吾は解らなかった。しかし、その非現実の象徴も、ゆっくりと優雅に二人の前を通り過ぎると、向かいの角を曲がって、行ってしまった。
裕吾は歩き出した。その後を麻子も歩き出す。恰も、今の出来事がなかったかのように、今見た馬、その光景がなかったかのように、二人は歩いて行った。現実の中に突如現れた非現実的な要素を、排除するかのように、二人は今の出来事をなかったことにした。
そうして歩く二人は、すぐに繁華街から、少し離れた新緑の生い茂る公園の中に移動した。銀杏の生い茂る並木林を、犬を連れた人が散歩している。犬は、ちらと、その愛嬌の良さそうな顔を二人に向けたが、すぐにそっぽを向くと、前方に広がる石畳を、かちかちと爪の音を響かせながら、やがて過ぎていった。あたりには獣の臭いが立ちこめる。今の犬だろうか、公園の中は、爽やかな冷たい空気と獣の臭い、売店のそばで遊ぶ子供が、シャボンを飛ばしている。シャボンは、ふわふわと風に乗って、小粒の二つが、合わさって大粒の固まりになったかと思うと、銀杏の幹にぶつかって、砕けて消えた。女の子の飛ばすシャボンは、そこから一斉に広がったかと思うと、風に乗って空高く舞い上がり、曇り空の淡い光に、見えなくなった。
その中の一つ、群れからはぐれたシャボンが、裕吾と麻子の前に漂ってきた。麻子の前まで来たかと思うと、気流に乗り、裕吾の手に当たって砕けた。裕吾は手についたシャボンの滴を、ぐいと片手で拭き取ると、そのまま麻子の肘のあたりを軽く掴んで、少し休もうか、と、噴水の淵に腰を下ろした。
麻子は何を考えているのだろう。裕吾は、噴水の円座の、堅い岩に座りながら考えた。枯れ果てた噴水は、そこに銀杏の落ち葉を溜めて、もはや昔の見る影を留めない。指先で底面にたまった落ち葉を擦ると、結構な深さがあった。突き刺した指の根元まで、入り込んでしまう深さがあった。水はなかった。噴水に、水はなかった。何処にいったのか。あのときはあったはずである。あの夏の日に、ここに来たときはあったはずである。そのような、過去への追想を浮かべながら、隣に座っている麻子を見た。麻子は、少し俯いて、手前石畳の割れ目を曖昧な眼で見つめている。安田のことを思い出しているのかも知れない。思えばここには、良く三人で訪れた。真夏のあの大学の夏休みに、良くここで水遊びをしたものだった。膝のあたりまで裾を巻くって、噴水の中に入った。真夏の陽気に、水は冷たかった。膝のあたりで揺れる水面に映った、麻子はその時、笑っていた。安田に水をかけられて、楽しそうだった。そうして今、自分の隣にいる麻子はどうだろう。枯れ果てた噴水の、その様相を、体現しているかの如く、物寂しげな表情だった。なんと言葉をかけて良いのだろう、三人で居たときは、止めどなく溢れ出ていた言葉が、今は、何所を探しても見つからずに、頭の中には、焦燥と浅薄な取り繕いが、止めどなく浮かんでくる。何を言っても、駄目な気がした。今の麻子には、どんな言葉をかけても、到底届かないだろう。だからといって、このまま何するでなく、座っているでもない。遠くの空を飛んでいるあの鳥は、何を思って飛んでいるのか。皆目見当のつかないことが、この世には溢れていた。何を思って、この、隣にいる麻子という存在が、今、裕吾の隣にいるのか。麻子は、安田を、裕吾に重ねて考えているのかも知れなかった。あの、明るかった安田、三人の中心的存在、動物のように無邪気な存在だった安田を、裕吾の姿に、重ね合わせて、昔を懐かしんでいるのかも知れなかった。安田の笑顔を思い浮かべて、今、慰めを得ているのかも知れなかった。それならいっそ、自分が死んでしまえば良かった。自分が死んで、安田が生きていてくれれば良かった。そうすれば今頃麻子は、安田と一緒に、笑顔を浮かべているに違いない。喜んでいるに違いない。麻子はしかし、現実はその逆で、今、相対しているのは、裕吾自身で、どうしようもない沈黙は、二人の間に重く、深刻に、垂れ込めている。裕吾は、試しに、片手で落ち葉をすくい上げてみた。枯れ果てた噴水に溜まった落ち葉は、すくい上げると、掌一杯に持ち上がった。銀杏の落ち葉は、見るも鮮やかに黄色く染まり、扇形のその形に沿って、葉脈が続いている。手の平一杯に溜まった落ち葉をどうすると無く眺めていた裕吾は、やがて、その落ち葉を、麻子にかけてみた。麻子の、その存在を際立たせようと、それを上から、麻子の頭の上からかけてやった。落ち葉は、廻転しながら、その表裏を交互にちらちらしながら、麻子の肩から腰に掛けて舞っていった。腰に達した落ち葉はさながら羽ばたく蝶の如く、きれいに地面に着地した。上から下まで、散ってしまった落ち葉は、麻子の身体を落ちていった落ち葉は地面に溜まり、麻子の足首のあたりは、落ち葉に埋もれて、見えなくなった。
「何故こんな事をするの」
麻子は云った。麻子は顔を動かさないで、その大きな眼だけ動かして、裕吾を見つめた。さも迷惑そうな顔、裕吾の行いを咎めていた。
ごめん、と、裕吾は謝った。なぜ、このようなことをしたのか、自分でも解らなかった。麻子は、髪に附いた落ち葉をそっと、払いのけると、再び目の前の石畳に視線を戻した。再び沈黙に陥った。裕吾はその表情から、なにがしかの動向がうかがえないかと、訝ってみたが、その本当のところは、到底知るよしもなく、ただ、暗い沈黙が伺えるだけだった。意思疎通出来なかった。恋人同士、言葉が無くてもわかり合えるという、そのようなことを聞いていた裕吾だったが、今麻子の考えていることなど、到底分かりそうにない。僕たちは本当に恋人同士なのだろうか。安田が居なくなってから、二人の関係は、冷え込んでしまった。明るく、楽しげだった安田の、あの笑顔は、もう戻ってこないのだ。
裕吾は立ち上がると、何所へ行くとなく、歩き出した。噴水のある広場から、石畳をただみちなりに、歩いて行った。銀杏並木が杉に変わり、足下には杉の枝葉が広がっている。その上はふわふわとして、綿飴の上を歩いているようだった。杉の暗い小道は、今自分の居るべき場所として適切な場所であるように思われた。今なら、この暗いあたりを、一辺の迷いもなく、彷徨歩けるような気がした。今の自分の心象を、表しているかのようだった。そうしてしばらくいくと、小高い茂みの脇から建物の輪郭、目の前には小屋があった。
馬小屋だった。暗い杉林の一角に、丸太で作られた馬小屋だった。馬の、足下から胴のあたりまで丸太が覆い、首が、そこからこちら側へと、伸びている。馬は、草か何か、食んでいるようだった。もぐもぐしていた。馬は、こちらが見ていると、その視線を受け止めたのか、じっと裕吾を見返した。見つめかえした。暗い辺り一帯の中で、その目だけが、輝きを放っていた。何事か物語っていた。裕吾を見つめるその目に、何事かの事案を宿していた。裕吾と馬は見つめ合った。しかしやがて耐えきれなくなって、裕吾は視線をそらした。足下の杉の落ち葉に救いを求めた。馬の放つ瞳の輝きに、底知れぬ恐ろしさを感じたのだ。動物の持つ瞳の奥に、深い戦慄を感じたのだ。暫くして、目を上げると、馬は一回転して後ろを向いた。それからまた半回転して、横を向いた。すると、奥のほうから、仔馬がやってきた。親馬の半分ほどの大きさで、生まれてからまだ間もないのだろうか、毛並みも親の色艶と、だいぶん違うものだった。
親馬の脇腹に顔をこすりつけると、嘶き、小屋の中を走り回った。狭い小屋の中は、仔馬の走り回る迫力に押されて、今にも壊れそうなほど勢いは激しく、その姿は雄壮だった。激しく動き回る子馬は、見るも迫力のある様相で、狭い小屋の中を大業に動き回っている。遺伝があるのだろう、血統のようなものを感じさせた。その姿は見るも美しく、皮膚は膏で耀き、激しく小屋の中を動き回っている。誰もこの馬を留めることは出来ないのだ。裕吾は思った。涌き起こる彼の本性を、彼のうちに宿る血筋を、熱く滾る思いを抑えることは出来ないのだ。裕吾はこの仔馬の中に、安田の本性を見たような気がした。今、安田が、裕吾を咎めて、仔馬の性質を通して、何事か主張しているような気がした。
裕吾は振り返ると辺りを見回した。麻子は居なかった。
裕吾は、小走りに、先ほどの噴水の所まで戻った。麻子は相変わらず、そこに座っていた。裕吾は麻子の手を握り、今日はありがとうと、礼を言った。裕吾の突然の言葉に、麻子は、何かよくわからないと云った表情を浮かべていたが、やがて、これに笑みをかえすと、裕吾も笑った。二人は噴水を後にした。公園を出ると、先ほどの道を帰っていった。そうして先ほどの道を引き返した。裕吾は元来た道を戻って、またやり直そうと思った。二人の関係は、まだ続いているのだから、なにも諦めることはなかったのだ。
何が倦怠期を脱出させるか分からない。そこには、常に可能性がある。だから、いつまでもうじうじしていないで、物事を前向きに考えよう。