面影
麗景殿視点
「それは本当のことなの?」
「はい。帝はそれはそれはお嘆きで御身の様子が案じられます」
秋に決まった楽の遊びに私も参加することになったので、里に戻って心置きなく練習していた。もともと暑いのは苦手なので、毎年この頃は長めに帰っている。
そこに訃報が届いた。桐壺の更衣が急逝されたという知らせだった。
「すぐに内裏に戻るわ。支度を」
「ですが……」
女房が渋った。
「帝は誰もお傍にお呼びにならず、ごく身近な女房や女官にしかお会いにならないそうです。それに…………」
彼女が少し口ごもった。私はその理由を察することができた。
今急いで帰ったら、最愛の寵妃を失った隙にあつかましくお心を掴もうと焦っていると思われるのだ。それが後宮というところだ。
「かまわないわ。そんなことよりあの方が心配」
「けれど……」
「いいの。お近くにいることができるだけでも安心できるわ」
女房をなだめて厨に伝えさせ、美味しいお菓子をたくさん用意させた。
「あの方はお心が痛むときは食が細くなるから、せめて食べやすいものを持っていかなくては」
「少しでもお気持ちが紛れるといいですね」
きっとそれは無理。あの方の桐壺の人に向ける思いはそう簡単に癒されるものではなかった。
ふと、自分がこっけいな気がして口もとが歪む。別の女に気を注ぐ相手にひたすら媚びているようにさえ思えて胸が痛くなる。
けれど、あの方の疼痛とは比べものにならないほどささやかなはずだ。
人の思いを知らぬ牛車は、のどかに見えるほどにゆっくりと内裏に向けて進んでいく。その足取りにいくらかなだめられた私は、桐壺の更衣のことを思った。
まだ信じられない。
体の弱い人だとは聞いてはいたけれど、こんな急なことになってしまうほどだとは思わなかった。
桜の咲く頃、私の部屋に運ばれてきたあの、匂い立つように美しい姿が思い出される。深い眠りに落ちていてまるで人形みたいだった時も、目覚めたあとは生き生きと色づいていて、命に不安のある人には見えなかった。
――――お気の毒に
意識を取り戻した後、礼を言って微笑んだあの方の姿が浮かぶ。
すがすがしいけれどけっして儚げなわけではなく、意思ある人の美しい笑顔だった。
うらやましかったり恨んだりの気持ちがなかったとはいえない。けれど、それを上回って確かにこの人ならと思う魅力があった。
それは優れた容姿からくるものではなく、彼女のもっと深いところ、たぶん魂から生み出されるものだったと思う。
――――もう少し親しくお付き合いしたかったわ
私もそれなりに保身に長けているので、人目をはばかってしまって直接に触れ合うことはほとんどなかった。けれど女房とのやり取りを通して垣間見たあの方は、人柄も振舞いも敬意を持てる方だった。
内裏は一見何の変わりもないように見えた。けれど耳をこらしても人の声も楽の音色も響かない。帝をおもんぱかってみな、ことさら静かに過ごしているらしい。
麗景殿に戻って落ち着いてから文を女房に持たせると、だいぶ間があって返しがあった。短いけれど直筆だ。
『お帰りになられて嬉しいです。気遣ってくださってありがとう。少し体調が優れないのでご挨拶はまた改めて致します』
少し乱れがあるけれど相変わらず愛らしい手蹟が胸を打つ。お会いしたくて震える心を抑えて、清涼殿から戻った女房に様子を尋ねた。
「孫廂までしか伺いませんでしたが、常のありさまと変わっています」
「どういうこと」
「代々の障子など貴重な御物が一時的に全て片付けられてありました。弘徽殿の女御さまのご指示だそうです」
「まあ…………よくお気づきになるわね」
帝の桐壺の更衣への思いはとても強かった。だからその方を急に亡くして、お心が荒れることもあるかと思う。
だけど、先んじて御物を片付けたりされたらどんなにお気持ちを害されることか。信用されていないことと同じ扱いだと思う。
「でも正しかったのですよ。帝はとてもお悲しみになって、一時は文箱を投げたりなさったそうですから」
「今は落ち着かれたの?」
「はあ、お嘆きのほうが強くなられたようです。それに……」
女房がまた口ごもっていたが、私が見つめると続きを語った。
「やはり弘徽殿の女御さまのご指示で、大量の土器が運ばれてきたそうです。ご存分にお投げくださいと……」
少し目眩がした。確かに土器は宴などで気軽に割る物だから差し障りはないけれど、見透かされたような気分になると思う。
「それで少し気をそがれて、結局土器を投げることはなく、夜の御殿に引きこもってしまわれたそうです」
「まあ……」
お気持ちが偲ばれて胸がいっぱいになる。けれどたぶん今の帝は、女房更衣の立場の者には誰も会いたくないと思う。
「お食事もほとんどお取りにならず、もちろんご政務も」
「それではお体を損ねてしまうわ……あら?」
ほとんど足音もなく軽やかな気配が、御簾をくぐって堂々と現れた。
ひどく愛らしい三つ(満では二歳)ぐらいの男の子。こちらを見てにっこりと微笑んだ。
「………………お母さま、来てる?」
女房たちは息を呑んだ。私ももたれていた脇息からずり落ちそうになった。
「みんな泣いてるの。お母さま見つけられないの。ぼく、探しに来たの」
身を起こして彼を招くと、素直に寄ってきてひざの上に乗った。やわらかくて温かくて軽い。
「そう。お里の方ではないの」
「お隠れになったって。あっちならすぐ見つかるの」
つい、ぎゅっと抱きしめた。帝の二の宮は大人しくされるがままになっていた。
ようやく気持ちを抑えて身を離すと、また可愛らしく微笑んだ。
「いい匂いする。お母さまと違う。なあに?」
「これはね、荷葉という薫物の匂いよ。夏のものなの」
「ぼく、好きだよ」
「そう。それはよかった」
話をしてみるとはきはきとしていてとても賢い。それでもまだ、死と言うものを理解できる年ではなかった。
お菓子を与えているうちに女房をやると、すぐに桐壺の方から迎えが来た。
「本当に申し訳ありません。取り込んでおりまして……」
彼女たちの侘びの言葉を止めてお悔やみを述べる。礼儀正しく返しながらも、瞳はすぐに潤み始めた。
「……本当にありがとうございます。故人も女御さまの優しさに、感謝しておりました」
「私など、何も。それより皇子さまはゆっくりお下がりになるのね」
女房たちの顔が更に曇った。
「はい。お許しがなかなか出ずに……」
更衣と別れたあの方が、幼い息子とも離れることが耐え難かったのだろう。
「それでもようやく戻ることになりまして、支度をしている最中でした」
「そう」
二の宮はおとなしく聞いている。私は彼に笑いかけた。
「お里のほうに行かれるみたいだけれど、戻ってきたらまた遊びに来てね」
「はい。お菓子おいしかった」
翳りのない明るい笑顔。帝によく似ている。
「嬉しいわ。また用意しておきますね」
「ありがとう。女の子、来る?」
唐突に出てきた女の子が誰なのかわからず、少し途惑った。女童のことかしら。
「…………あの、いつぞやお会いした妹君のことかと」
まあ。思い出話にでも聞いたのかしら。
「いつもはいないけれど、たまに来ることはありますよ」
彼はさっきよりにぱあ、と更に帝に似た笑いを見せた。明るい。この笑顔を翳らせたくはない。
「…………あなたの人生がいつも光り輝くものでありますように」
この大変な時期に浮ついたことを言う女だとあきれられたかもしれないけれど、桐壺の女房たちは感に堪えないように深く頭を下げた。
葬儀もすみ、更衣の里での法事なども無事終わり日々が過ぎる。
私は帝のもとに招かれることもない。けれど他の方々も同じみたい。たまに文をいただくことがあるけれど。
帝のご様子は思わしくない。お食事も、朝餉の間でほんのわずかに手をつける他は、臣下を侍らせていただく正式な食事など召し上がろうともなさらない。
給仕する殿上人など身近に仕える者たちはみな、男女に関わりなく困ったことだと嘆いている。
「前世でよほどのご縁があったんでしょうな。それにしても桐壺の更衣のこととなると、あの人が生きている間さえ人の心など省みずに理性を失われていたが、今またご政務さえ投げ捨てたようなこのありさまはあんまりですな」
と、人々は言い募る。異国の例まであげて非難している方々もいる。
皇子さまも内裏に戻ることができない。そのことも帝を悲しませているようだ。
「一の宮さまがいらしているのですけれど、その姿を見ても帝は二の宮さまを思い出して涙ぐむばかりで」
涙を誘う理由にしかならないもう一人の少年の事を考えると、こちらもお気の毒だと思う。
「そのことはともかく、亡き更衣に三位を遺贈したことについてはみなあきれています」
「皇子さまをお生みになったことを考えてもちょっと過剰ですよね」
「そのことについてかはわかりませんが、弘徽殿の女御さまが『死んだあとまで忌々しい女!』とおっしゃったとの噂があります」
「まあ。でも誰か厳しいことを言う方がいないと、他の方々の気が晴れないでしょう」
更衣を悼む気持ちもあるけれど、存在の全てを帝に賭けているのに受け入れてもらえない女たちの悲哀もわかる。私もその一人だからだ。
「そうですね。でもわたし、彼氏にあんなに愛されてみたいな、とちょっと考えてしまいます」
若い女房がそう言うと年嵩の者が私を慮って叱ったけれど、そうね、私もそうだわ。穏やかに暮らしたい、他の方に嫌われたくないと考えるのに、ついあそこまで思われてみたくなる。
あの方にまっすぐ見つめられて、壊れてしまうほど愛されたい。…………柄じゃないとあきらめていたのに。
ちょっと目の奥がぐずついたので上を見上げて気持ちを落ち着ける。うん、ちょっと物語のような恋に呑まれただけ。
「わたくしはめんどうそうなのでもっとほどほどでいいです」
「わたしは、同じくらいの愛をもっと多くの人たちから注がれたいです」
たくさんいる女房たちの中には違う意見もあった。けれど、みなこの恋の結末には深く感じるところがあったみたい。だから私は彼女たちを見つめて言ってみた。
「それでは手を合わせましょう。それぞれの愛と桐壺の更衣に」
恋によって輝き恋の最中に死んだあの人の面影が、生きている時よりも明瞭に私たちの心に浮かび上がった。
私たちは手を合わせて、忘れ形見を残してこの世を去った更衣を悼んだ。
やっぱり、あんな派手な人生は私には送れない。それでも、時にうらやんだり憧れたりしてしまう。運命の恋の結末が悲劇だとしても心が騒ぐ。私には不似合いなのに。
いまだ暑いけれど秋の空は以前よりも透きとおって見える。そこを風が通り抜け、雲が動いていく。
私は遠くを見つめて心の中で尋ねてみた。
――――幸せでしたか
鳥の声が微かに聞こえる。御簾越しに鳥の影を求めたけれど見あたらない。
天ならぬ内裏にも風が吹いていた。裾を揺らす御簾の動きに妨げられながら、私はひたすら鳥の姿を捜していた。