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源氏物語:零  作者: Salt
第三章
63/65

晩夏

桐壺視点

 夏の盛りなのになぜだが風を冷たく感じた。くしゅん、とくしゃみを一つすると女房が慌てて寄ってきた。

「すぐにお休みください! 里に戻る支度を!」

「そんな大げさな。大したことねえよ」

「いいえ! 更衣さまは蒲柳の性質なんですから、御身をいたわってください」

「じゃ、早めに寝るわ。他には知らせるなよ」


 御帳台に入って眠った。夢も見なかったし皇の子供たちの訪れもなかった。

 目が覚めると医師と薬師が控えていて診察されたが、感染るような病気ではないらしい。

「夏の疲れがでたのでしょうな。ゆっくりとお休みください」

 だがその話はすぐに伝えられ、あいつが前ぶれの女房とほとんど同時の勢いで現れた。


「更衣さんっ、大丈夫ですかっ」

 慌てて御帳台の浜床から降りようとしたらさえぎられた。

「いいのですっ、そのままで」

「ん…………」

 帝を前にして失礼な話だが我を張れなかった。


 女房たちはかしこまって手をつき頭を下げた。

「内裏では何かとさしさわりがございます。里の方で充分に休ませようと思いますのでどうかお許しくださいませ」

「ダメ!!」

 一言のもとに拒まれる。帝は顔を真っ赤にしている。

「更衣さんが病がちなのはいつものことじゃないですか。里に帰るよりここにいるべきです。医師も薬師も素晴らしい人がちゃんといるし。手厚く看護するならむしろこちらのほうがいい。帰っちゃダメです!」

「しかし…………」

「もう離れたくないんだ」

 彼の声に切実な響きが会った。私は胸の痛みと歓びを同時に感じていた。


「更衣さん、果物食べませんか」

「いや、いい」

「おいしいおもち持ってきましょうか」

「いらない」

「鴨のあつものを作らせましょう。滋養がありますよ」

…………そんな脂のギトギトしたもの、今食えるか。

 気持ちはうれしいがだいぶずれてる。ずれてるがそこが愛おしい。


「それより、息子と遊んでやってくれ」

「おお、そうですね! 二の宮~、お父ちゃまですよ~!!」

 空気を読む息子は、事情はよくはわからないようだが場の雰囲気を感じて別室に下がっていた。これだけはこいつに似なくてよかったと思う。

 帝は息子を抱えて戻ってきた。げ、向こうで遊ぶと思ったのに。


「お母ちゃまはお病気なのです。いっしょに応援しましょう。はい、がんばれー!」

「…………がんばって」

 息子はこちらをちらっと見て、ひどく小さな声でそう言った。帝は眉を寄せて難しい顔をした。

「そんな小さな声じゃ応援になりませんよ。もっと大きな声で! もう一度、がんばれ!」

「がんばれ」

「まだまだ足りない。病の悪鬼を追い払うように、がんばれー!」

「…………がんばれ!」

「いえもっと大きく! 内裏中に響くほどに! 弘徽殿さん並みの声で、がんばれっっ!!」

「………………がんばれっ!」

 やかましいんだが。


 帝はひとしきり応援すると女房たちに勧められていったん戻ることになった。

「それでは、夜また来ますね。二の宮、お母ちゃまを困らせてはいけませんよ」

「……………………はい」

 どっちが困らせているんだか、と息子も突っ込みたかっただろうが大人しくうなずいている。

 帝は名残惜しそうに私を見つめ、足を踏み出してからも何度も振り返っていた。


 息子は別室に戻された。

「………………いいお方なんですけどね」

「更衣さまのことをとことん大事に思っていることはよくわかるっスよ」

 見送りから戻った女房が小声で語り合っているのがはっきりと聞こえる。

「お育ちが並みの者とは違いすぎるから仕方がないだろう」

 リーダー格の女房がなだめている。

「しかし、夜もあんな調子だったらお方さまの身が持ちませんぜ」

「なんとか里下がりをお許し願いたいが」

「今のご様子からすると無理っスね」

 みんなががっくりと肩を落としている。励ますように一人が声をあげた。


「でも確かにまだそれほど弱っていらっしゃるわけじゃない。もっとご加減が悪い時はいくらもあったじゃないか」

「そうですよ。二の宮さまをお生みになる前は壇をこしらえて誦経をさせたことだってあったし」

「でも、あの時……」

 その時弘徽殿の訪問があった。彼女は何も言わなかったが、彼女の女房が後に訪れ「更衣が内裏に僧を呼び込んではなりません。必ず里下がりしてそこに呼ぶようになさい」と伝えられた。

「まあ帰るほうがこっちも楽なんですがね」

「でも身近に祈ってくれる存在がないとなんとなく不安な気はするっス」

 誦経が本当に病に効くかどうかは定かではないが、浮遊感のあるリズムを聞いていると気がまぎれるのは確かだ。

「何かと不自由だな」

「里で休んでいただきたい」

 女房たちの声がじょじょに遠くなった。



 目が覚めてみると体が燃えるように熱い。こりゃダメだなと内心ため息をついた。

 昨日の時点では、こうして少しずつ弱ってきて、長い時間をかけて静かにゆっくり世を離れていく、なんて思ったけど甘かった。いや、キツいのなんのってシャレにならんほどだ。

「お方さま!」「更衣さま!」

 女房が騒ぐのが遠くに聞こえる。

 すまんな。どうもその時が来たらしい。


 意識は時たま途切れるが、ちょうど戻った時に帝が現れた。ひどく心配そうな顔だ。

「更衣さん!」「おう」

 片手をあげようとしたが自由にならない。

 帝の目が潤んでいる。ごめん。泣かせているのはいつも私だ。

「医師の話ではさしたる病ではない、ということだったのに」

「…………大丈夫だ」

 つらいのはひと時だ。その後どこに行くかは知っている。


「…………ぜひ、里に戻らせてくださいませ」

「いけません」

 女房の言葉を帝が斬り捨てた。

「無理に動かしたらかえって悪くなってしまう。それにこんな状態の彼女を歩かせるつもりですか。もう少し様子を見ましょう」

 内裏では許しを得た者以外は門まで徒歩で向かわなくてはならない。そして更衣は許可を得られる身分ではない。

…………だからさあ、お父ちゃん。もっとレベル上げしてからチャレンジしてほしかったぞ。



 どうも日に日に悪化していくようだ。

 昼夜なく苦しみがわが身を苛む。

 辛すぎるとふいに意識が途切れる。

 だけどまだだ。最後の最後まで生にくらいついてやる。

 不安そうに見つめる息子ににい、と笑いかけた。


「………………受け入れれば楽なのに」

 皇の子供の一人の目が息子に重なる。

「そうするよ、最後にはな」

 ぜえぜえ言いつつ見栄を張る。

「でもぎりぎりまではな、人をやるよ」

「ほんの少しだけ休まない?」

「いやいい。実況中だから帰れ」

 追い払って気がつくといつの間にかお母ちゃんが来ていて、私の手を取り涙ぐんでいる。どうにか目を向けると私の名を呼んだ。

 不幸をわびつつうなずくと、取り乱して叫んだ。

「あなた。連れて行かないでください、あなた」

 お母ちゃん、お父ちゃんは関係ないよ。どこにいるのか知らないけれど、私とは別の場所だと思うよ。

 でもそう伝え切れなくて、ただ握る手に力を入れた。


 闘って闘って戦い抜いて、力尽きるまで生き尽くす。

 さっきそう決めて頑張っているわけなんだがなんでまたこんな決意をするんだ。痛くて辛くて苦しいぞ。傍らのお母ちゃんもしんどそうだし。

 自分の疑問はあいつの訪れで霧散した。

 お母ちゃん、ごめん。必要以上に悲しませてる。

 だけど、もうこいつのことしか気遣えないんだ。

 苦しまずに眠るように死んだら、たぶんこいつは私の死を信じられない。

 だからきっちりと手順を踏まなきゃならないんだ。

 不肖、桐壺の更衣、ちゃんと苦しんで死ぬことにいたします。


「………………更衣さん」

 凍りついたようなこいつの瞳。世の中の全てを滅ぼしてしまいそうに見える。

 ああ、私はひでえな。これだけこいつを傷つけて、心のどこかに喜びもある。自分の死がダメージになることを確かめて安心している。

「……………………」

 瞳の氷を溶かして涙に変えるのはいつも自分でありたい。そんな独占欲が胸で暴れる。

 だけどそんなものとはここでおさらばだ。

「どうか、どうか里に下がることをお許しください!」

 お母ちゃんが帝に取りすがらんばかりに言い募る。

 彼が弱々しく私に目を向けた。

 人前にもかかわらず、涙がとめどなく零れ落ちる。

 見栄も外聞もなく彼は泣いている。

 もういいよ。ありがとう。満足だ。

 おまえの気持ちが充分にこっちを向いていることはわかってたんだ。

 一国の帝が、いとやんごとなき際にあらぬ女のために大泣きしてくれる。これ以上何もいらない。

 おまえの泣き顔を胸に遠くに行くよ。

 寂しくないといったらそれは嘘になるけど。

 だけど私を待つ者もいる。あの子供たちはおまえでもあるんだ。

 なあ、そうじゃなかったらどんなに可哀想であっても、行かないよ。


「お願いです、なにとぞ、なにとぞ!!」

 お母ちゃんも空気など読まずに帝に詰め寄る。彼は暗い顔でそれを拒もうとした。

「この様子の彼女をお返しするのは申し訳ないし、歩くこともできないでしょう。何とか持ち直すまでこちらで養生を……」

輦車(てぐるま)をお許しください!」

 帝に付き従ってきた女官たちも私の女房も、思わず息を呑んだ。

 さすが天然のお母ちゃん、誰も言い出せないことをきっぱりはっきり口にした。

「この様子ではとてもここにおいては置けません。ぜひ、お許しください」

「で、でも……」

「お許しくださいっ」

 優しいお母ちゃんがここまで強気になるのを始めて見た。

 女官の一人がやんわりと帝に助言する。

「宣旨を出すにはいったん戻らなければなりません。どうぞ常の御殿の方にお帰りください」

 娘を思うあまり臣下の範囲を越えてるお母ちゃんをクールダウンさせる意味もあるんだと思う。

 帝は抗ったが、女官たちは「またすぐに来ることにしてここはお引きあそばせ」と渋る彼を清涼殿に連れ戻した。説得してくれると思う。

 そうだろうな。ここで私が死ぬことは認められないから。


 内裏は清らかであるべき場所で、帝以外の死はどんな高位の者でも認められない。ましてや一介の更衣なぞ、そのようなことがあったら一族中が非難される。息子にだって害が及ぶ。

 だから私はあいつのもとでは死ねない。どうにか里に戻らなければならない。

「生きるために帰るのよ! あなたのため、皇子さまのためよ!」

 お母ちゃんは励ましてくれる。だけど苦い笑いが口元に浮かぶ。

 ………………ごめん、無理だ。

 いや、努力はするけどね。

「皇子さまは置いていきましょう。娘をよく思わない人たちに行き帰りに襲われかねません!」

 え―と、それは後宮の住人よりその身内が危ないってコトなんだろうか。そう考えるってことはやっぱお母ちゃんはこの子を何とか東宮につけたいって、本気で思って…………



 意識が途切れているうちに輦車の宣旨が出た。

 かくなる上は一刻も早くここを去らなければならない。

 でも、またここへすっ飛んできたあいつは衣をつかんで離さない。


 「死ぬ時だって一緒って、誓ったじゃないですか。更衣さんのバカーっ」


 息子よりよほど、聞きわけがない。

 すがりついて泣いている。


 「お願いっ、行かないでください! 私を一人にしないでくださいっ!」


 泣くなよ。

 おまえ天下の帝だろ。周りのヤツも一人にゃしねぇよ。

 女御も更衣もたくさんいるんだし、みんな慰めてくれるはずだ。

 面倒な女がいなくなれば、男連中だって気を配るさ。


「他の人じゃダメなんですっ。あなたじゃなきゃ嫌です。行かないでーーーっ」


 ありがとよ。だが、もう限界だ。

 何がなんでもここじゃ死ねねぇ。

 悪いが下がらせてくれ。


 意識が途切れそうになるが、あいつがこっちよりよほど苦しそうな顔をしやがるから、ぜえぜえ言いつつ一首読んだ。


 おまえと別れるのは辛い。

 そりゃこっちだって生きていたいさ。

 けれどどうやらそれは不可能だ。

 ここに、死の穢れを残すわけにはいかない。

 そんなことになったら息子がえらい目にあう。

 頼む、行かせてくれ。


「里の方では高僧を集めて祈祷の準備をしております。どうか、更衣さまのためにも、ぜひ」


 女房の言葉に、あいつは泣く泣くうなずいた。

 夜具ごと抱えられた私の手を握って、何か言いたそうにしている。

 こちらも言いたいことがいろいろある気がするが、もう声が出ない。

 仕方が無いから目だけで笑った。


 牛車の中で、いろんな記憶がごちゃ混ぜに押し寄せてくる。

 入内してきた最初の日の威儀を正したおまえの姿。

 桐壷くんだりまでやってきて、めそめそ泣いてたあの日の様子。

 音の遊びを嬉しそうに聞き入っている顔。

 仕事さぼってる時もあって、みんなを困らせたな。

 人のことは言えないか。一緒に寝坊しちまった朝もあった。

 ひでぇときは昼まで寝てたな。


 生まれたての息子の顔。

 みんな、綺麗な赤子だって言ってくれたが、最初はけっこう猿だったぜ。

 でも、すぐに可愛くなった。

 今も、憎んでるやつらやいかつい武士さえ微笑ませるほどだ。

 だから、こいつの心配はしない。

 なるようになるさ。好きに生きろ。



 車はどうやら二条に着いたらしい。

 見慣れた邸の見慣れた部屋に運ばれる。

 気づくと、同じ牛車で戻ったお母ちゃんが取りすがって泣いている。


 ごめんな。

 せっかく寵を受けながらも、心配ばかりかけた。

 もともとは育ちのいいお嬢さまだったのに、金の苦労までさせちまった。

 お母ちゃんは息子を東宮につけたかったんだよね。

 すまん、それは勧められない。

 政が関わってくるとそれはまた別の世界だから、この子の命が危ないかもしれん。


 それさえなければ弘徽殿は、そこまで悪い奴じゃない。

 あいつはまっすぐで不器用で、けっこう可愛気のあるやつなんだ。

 運悪くこうなっちまったが、こっちの命まで狙ってたわけじゃないんだ。


 彼女の顔が脳裏に浮かぶ。

 唇を真一文字に結んで、こっちを睨みつけている。


 悪かったな、弘徽殿。

 別の時代に別の立場に生まれて、別の相手を愛したなら、酒でも呑みながらおまえののろけを聞いてやれただろうよ。

 意外と恋に盲目なおまえが語る話はさぞや楽しかっただろう。こんな関係でしかいられなくて、残念だ。もっと親しくなって、タイマンで楽をやりたかったな。

 秋にあるはずだった音の遊びができないのが最大の未練だ。

 夏の間はそれぞれで練習して、夏の終わりにはあっちへ行っていっしょに練習することになってたのにな。


 誦経の声が聞こえる。

 高く低く響く音は、弱った自分の心をどこかにとばす。

 本当に幾らか浮いている気がする。

 ああ、どうやらあと少しらしい。

 目が見えるうちにと周りを見渡すと、女房たちの泣き顔が視界に入った。


 おまえたちにも苦労をかけた。

 他の姫さんに仕えていたら、けっこう楽しいことも多かっただろうに。

 恋のためなら女房も泣かす、ひどい主人だったな。

 すまなかった。それなのに、良く仕えてくれた。

 ありがとう。

 心苦しいが………息子のことを頼む。


 痛みと苦しさが軽くなる。

 自分の体が、自分の物でなくなっていく。

 辛くても、この体にこの心でいたかった。

 だけど、仕方がないことだ。

 もう、逝かなくちゃならない。


 ………あばよ、帝。

 いい人生だったぜ。




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