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源氏物語:零  作者: Salt
第三章
62/65

桐壺

桐壺視点

 里では全てがのんびりしている。季節もゆっくりと変わっていく。

 前栽に植えられた岩つつじが、強くなった陽射しの中で鮮やかに咲き誇っている。

 遠くに目を向けると、優しい木立や遣り水の流れ込む池が陽気のせいで揺らめいて見えた。


 麗景殿の里の方に季節に合わせた届け物をたずさえていった女房が、一抱えの花橘を抱えて帰ってきた。澄んだ香りであたりの空気が清められていくようだ。

 大がめに差して楽しんでいると息子が寄ってきて花びらに触れた。

「女の子、いた?」

 何のことだろうと首をひねると、女房が二人ほど目を見張った。

「覚えていらっしゃるんですか!」

 息子はにこにこして答えない。女房たちはあきれたような感心したような顔で彼を見つめる。

「並みの子供とは違って凄まじく賢いと思っておりましたが、これほどまでとは」

「何のことだ? 女の子って誰?」

「去年の今頃のことです。皇子さまが桐壺を抜けて外へ行かれたことがあったでしょう」

「ああ。寝てたからよくは知らないが」

「あの時麗景殿まで行かれたのですが、その日そちらにはあの方の妹さんがいらっしゃったのですよ」

「ふうん…………え?」

 まだそのころは這いずり回る赤子だったはずだ。

「ですからこの方は尋常の方とは思えません」

 息子は大がめに顔を近づけて花の匂いをかいでいる。


「まあ、並みよりかは悪くないとは思うがただのガキんちょだぞ。たまたまだろう」

「いや、皇子さまは特別です。拝んでおきましょう」

「こらよせ…………じゃない、およしなさい。縁起がよくはありませんよ」

 リーダー格の女房が、息子の前をはばかって言葉を変えた。


 確かに物覚えは悪くないけれど、忘れたりもする。やってみたいいたずらは叱られても実行したし、しばらく来なかった男の従者などは完全に忘れていた。

 いなくなった後も私のことを覚えていてくれるだろうか。

 胸のどこかが否定する。たぶんこいつ、女の子のことはぼんやり覚えていても私の顔は忘れるな。

 だけど、そのほうがいい。

 思い出して辛くなるより、忘れてくれたほうがありがたい。


「おいで」

 息子を誘って膝に乗せ、強く抱きしめる。

 やわらかくて温かい。お日さまのにおいがする。

 不思議そうな顔をしていた彼は、すぐににぱあ、と帝そっくりの笑みを浮かべた。ちょっとまぬけですごく可愛い。

 この笑顔と別れるのはひどく辛い。


 体調は割といいのでそろそろ内裏に戻ろうと思う。

 だから充分に邸に別れを告げた。見慣れて優しいこの地を思いっきり味わった。

 柱の傷さえ思い出がある。あのころは普通の少年だった兄ちゃんともここで遊んだ。

 楽の手ほどきを受けたのもここだ。いや手習いだってなんだって、この邸で身につけた。

 さよなら。次に戻る時意識があるかどうかわかんねえから今言っとく。

 すげえここのこと好きだったよ。木立や築山のたたずまいもどこよりもイケてると思う。

 ありがとよ。育つ私を見守ってくれて。

 もうできることはないけれど、この地を思い切り言祝(ことほ)いでみる。

 牛車の支度ができて立ち上がるとき、ちょっとだけためらった。



「更衣さんっ!」

 帝が全力で飛びついてきた。おいおい、衣を重ねてなかったら痛いぞほんと。

「更衣さん! 更衣さん! 更衣さん!」

「おう」

「更衣さん! 更衣さん! 更衣さん! 更衣さんっ!」

「…………なげーよ」

 帝はだらだらと涙を流している。私を抱きしめて肩にも胸にも顔を埋める。

「もう帰っちゃイヤです! ずっとここにいてください!」

「………………うん」


 うなずくと彼は息もできないほど強く抱きしめてきた。

 潤んだ瞳が世界の全てを遮断する。

 今この時が永遠で、刹那。

 おまえと私以外誰も存在しない。

 見栄も理性も必要ない。

 世の中なんて消えちまえ。

 比翼の鳥なんてケチなことは言わねえ。

 もっとずっと一つになって、重なり合って溶けちまおう。


 正直、やっかんだこともあるし息子のことが心配で恋以外の何かに邪魔されたこともある。他への配慮で気持ちを裏切った言葉をつむいだコトだってある。

 でももうそんな心配はない。もう全部捨てた。

 だから何度でも言う。

「好きだよ、帝」「私もです、更衣さん」

 本気の気持ちの言葉は単純だ。

 朝を忘れるぐらい愛し合って、寝坊して居続けて、いったん帰って、またすぐに呼ばれて。

 あたり中が迷惑するほど二人でいた。

 三日もしたら帝が心配してちょっと間をおいてくれたけど、気持ちは全て彼に向かった。

 なんか嫌がらせもたくさんあったが、ふわふわした気分で気にならなかった。

 人はこれを色ボケと呼ぶ。


 残り少ない人生だから、思う存分自分のために生きた。

 正直ただのバカップルというか、いや他人を困らせてるんだからヤンキーカップルというか、切なく高貴な悲劇の恋人同士にはあまり見えなかったと思う。

 真夜中に夜の御殿でいちゃついていたら腹が減って、二人でそーっと朝餉の間に行ったら唐菓子があったので「はい、あーん」「更衣さんもあーん」とか馬鹿やったりした。異性の前で物を食べるなんて、お母ちゃんが知ったら気絶すると思う。他の方々も驚愕のあまり卒倒するかもしれん。でも楽しかった。

 時鳥の声が聞こえないかと夜中とはいえ孫廂まで身を乗り出したり、荒海の障子の前で怪談話したりした。こいつわざわざ低めの高杯灯台なんか用意していて、いきなり下から顔を照らすんだもの。思わず脅えたらすごく喜ぶので玉体をつねってやった。

 しんみりなんかしてる暇はなかった。つまらないことでもよく笑った。


 ただ、夜更けに音が響いてくるときは全力でそれに耳を傾けた。

 それはいつも弘徽殿からだ。

 控えめな深夜の音は普段のあの人だとは思えないほど繊細な響きで、聞くたびに胸が痛くなった。

 いつぞやの更衣もなかなかの腕だった。だけど弘徽殿は格が違う。魂の容量が違う。音の凄みが違いすぎる。まさに楽の帝王だ。

 あいつの音を聞きながらこいつの腕の中にいる。背徳的といえるほどの贅沢さだ。

 私は無神経で残酷で、帝を止めようともせず音に浸った。


 季節は変わる。里では池の蓮が、まんまるい葉の間にひょろりと首を伸ばして夢のように美しい花を咲かせているだろう。揺れるその花を見たいとは思ったが帰るつもりはなかった。

 淑景舎につれてこられた息子は機嫌よく遊んでいる。その姿を見ているうちに眠くなって、御帳台にいざって行きそこで目をつぶった。

 薄い闇が広がるのを感じた。久しくなかった感覚だが素直に受容した。

 遠く離れたところであの月のような鞠を蹴りあっているのがわかる。別の方の端で淡い光を放つ琵琶をそっとかき鳴らす音も聞こえる。


「よう。…………どした?」

 きりっとした顔立ちの子が隣に座っている。固く真剣な面持ちで、にこりともせずに私を見ている。

「もう、時間か?」

 その子は顔を横に振る。他の子供たちは近くにはいない。

「………………今ってわけじゃない。だけど、すぐだよ」

 わかってることだがやっぱ辛いな。

「そうか。じゃ、またすぐ会えるだろうから帰るわ」

 一瞬でも長くあいつに会っておきたい。

 皇の子供は固い表情のままでそれを止めた。

「………………話したいことがあるんだ」

「お。なんだ? 好みの女童でもできたか?」

 茶化したがのってくれずに、ほとんど怒ったような声を出した。

「………………あるよ」

「ん?」

「回避ルート、あるよ!」

 叩きつけるように叫んだ彼の瞳は涙で潤んでいる。だが私はそれにかまわずに勢い込んだ。

「本当か!」

「………………うん」

 思わず彼の肩を掴み、力を加えそうだったので慌てて外した。


「教えてくれ! 頼む!」

 この子達は可愛い。遊んでもやりたいしいろんなコトを教えてもやりたい。だけど、それでもあいつから離れたくない。ずっとずっと、彼の元にいたい。

 男の子は下を向き唇をかむと、また顔をあげて私を睨んだ。

「絶対に心を揺らさない!」

 そう叫ぶとそっぽを向いた。

「え、どういう……」

「言ったとおりだよ! 誰かに会っても音を聞いても、悲しくても辛くてもうれしくても面白くても絶対に心を揺らさずに、ただ静かに受け入れるのなら好きなだけ長く生きられるよ、あなたなら!」

 男の子の頬は涙に濡れ、きりりとした顔立ちがひどく歪んだ。

「生き続けていいよ! 光との約束はなくなるけど、お母さんが傍にいてくれるんならそっちのほうがいいだろ! たとえ泣きも笑いもしないお母さんだったとしても!」

 彼は声をあげて泣き始めた。


 私はその背をさすってやった。

 嗚咽しながら、やっぱり怒ったような声でそれを促す。

「さっさと帰れよ! 光や帝が待ってるだろ!」

「ああ、帰るよ」

 手は止めずにそう答えた。

「だけど……またすぐ来る」

「来るなよ! せっかく教えたんだから!」

 自分の口元に浮かぶ笑いが相当に苦いことに気づく。

「教えるのイヤだったんだろ。ありがとな。でも……やんねえよ、それ」

 男の子が驚いて泣くのをやめてこっちを見た。

「………………嘘じゃないよ」

「ああ、そうだろうな」

 さする手を離して腕組みをする。

「あいつに会っても息子を見ても心を揺らさず、素晴らしい音を聞いても感動することのない女。そいつは誰だい? 少なくとも私じゃない」

 涙はまだ乾いていない。呆気にとられてあけた口の中が赤いことさえはっきりとわかる。

「その女が生きようが死のうが関係ない。ってか無理。綺麗なもの見たらきれいだと思うし、凄い音聞いたら飛び跳ねたくなるし、あいつを見たら抱きしめて思いっきり気持ちを伝えたくなるし」


 暑くもなく寒くもない薄い闇に、なぜか風が通り抜けていった。

 乱れる髪を片手で押さえる。自分の着ている衣の裾がふうわりと風に煽られるのを確かに感じた。

 男の子が顔を真っ赤にして叫んだ。薄かったはずの感情が強くなっている。

「じゃあ光はどうするの! お母さんがいなくなるんだよっ」

 彼の頬に手をあてる。やわらかい。そしてわずかに温もりを感じる。

「……………………あの子は、大丈夫だ」

 内にも外にも光を宿して生まれた子。たとえそれが闇の眷属だとしても、絶対に闇の中に引きずり込まれることはない。確信できる。

 それにあいつもいる。ずっとあの子を愛してくれる。女房たちも散り散りになったりはしない。必ず彼を見守ってくれる。お母ちゃんも大事に育ててくれる。


「この世に残りたいよ、ほんとに。ここには夜遊びに来ることにして、それ以外はあっちであいつといたい。だけどそれは今の私自身がいる場合だ。いきなり悟りすますなんて性に合わねえ。どんなに生きたくたってそんな条件はのまないよ」

「あなたは…………バカだよ」

「うん、知ってる。でも、バカな自分はけっこう好きだ」

 そう言って彼の頬をちょっと引っ張ってみる。変な顔になった。

「それにしてもおまえ泣いてるか怒ってるかどっちかだな。笑った顔が見たいぞ」

 彼は困った顔をした。薄かった感情が急に濃くなって扱いに困っているのかもしれない。

「どうすればいいのかわかんないよ」

「こうやるんだ、ほれ」

 思いっきりにっこり笑ってみると、おずおずと口元を緩める。

「お、いいじゃん。そんな感じでもうちょっと」

 男の子はまだ涙をためた瞳のままでにぱあ、と笑った。私は驚きのあまり無表情になった。

「…………変かな?」

 何も答えられない。ただ抱きしめる。深く、強く。


 考えてみればあたりまえのことだ。桐竹、つまり帝の衣を着たこの子達は全て皇の子供で、つまりあいつと血がつながっている。笑顔が似ていても不思議はない。

「あ、来たんだ」「琵琶弾いて!」「抱っこして」

 そう思って寄ってきた子供たちを見ると、どこかしら似ているところがある。

「今日はすぐ帰るの! また今度」

 さっきの子が仕切ってくれる。残念そうにしている子の一人が特に似ている。

 なぜ私なのか。その解の一つがほぐれたような気がする。

 ほんの一歩違えばあいつはここにいた。ここでしゃれこうべを蹴とばしていた。


「悪いな。また来るよ」

 笑ってみせて道を捜した。光が漏れている。たぶん息子だ。

 それを伝って歩くといつしか御帳台で眠っている自分に気づいた。

 戻ってはきた。きたがはっきりとあの場所の記憶も残っている。

 身を起こして考え込んでいると息子が寄ってきてにぱあ、と笑った。

 さっきの子と同じように抱きしめると、もっと小さくてずっと温かい。


 たとえば弘徽殿が狡猾で残酷な女で、私たちにもっと危機感をつのらせていたのならこの子さえもあの場にいたのかもしれない。

 だが彼女も、他の後宮の女もそんな手には出なかった。だが、ずっとそれが続くとは限らない。いや女たちがそのつもりで、せいぜい気を晴らすためのいやがらせしか行わないとしても、その父や兄がそうだとは言えない。

「……宿命(さだめ)ってのはそう簡単には変わんねえな」

「なんのことです?」

 近寄ってきた女房が小袿をふわりと掛けてくれる。

「いや……ありがとよ」

「いえいえ」

 慣れ親しんだ女房のいつもの優しさが妙に胸に来る。

「ずっとみんながいてくれるといいな」

「あったりまえじゃないっスか!……じゃねえ、あたりまえですわ」

「まあ、いけませんわ、荒い言葉を使ったりしては」

 リーダー格が目でにらむ。言われた方もリーダーだってやらかすじゃないっスかと言いたげな目をした。


 私は乳母を呼び息子を散歩に出した。途端に他の女房がわらわらと集まって来る。みんな大事な私の仲間だ。

「何があってもここにいますよ!」

「………………本当だな?」

「「もちろんですっ!!」」

 声を出さなかったやつも熱くうなずいた。

「あつかましいから本気にするぞ」

「ぜひ、してくだせえ」

「一言おっしゃってくだされば、なんだってしやす!」

「手始めに弘徽殿に殴りこんできやしょうか」

「…………それはいいから」

 気持ちはあっても人数で負ける。いやもちろん人が多くてもやんないけどな。

「闘おうとは思わん。おまえたちがいてくれればそれでいい」

「もちろんです! たとえ追い出されてもここにいますよ!」

「婿をとっても子ができても仕え続けます」

「婆になっても頑張ります」

「彼氏ができても…………できるといいなあ」

「あきらめるな! 物好きはいるはずだ!」

「殴るぞてめえ」

 いつもどおりのこいつらだ。


 彼女たちがいてくれるなら何も怖くない。

 引き連れて困難なみちのりをたどってあいつのもとに行った。

「ほら見てください。きれいでしょう」

 清涼殿の東庭に灯明と香花が飾られている。

「来月の七夕の試しをやってみました。星合(ほしあい)ってのも素敵な呼び名ですね」

「ああ。当日はちゃんと晴れて、牽牛と織女が会えるといいな」

「会えますよ、私たちみたいに。そしてかささぎの橋をわたって永遠の愛を誓うんです」

「うわ、言ってて恥ずかしくなんねえ?」

「恥ずかしくなんかありませんよ。……本気だから」

 まるっきり嘘のない帝の瞳。私は黙って目を閉じた。


 闇夜を飾る灯明が風に揺れる。呉竹がかそけき音をそっと鳴らす。

 闇があるから光が美しいのだと、そう思った。 

 


初歩的なミスに気づいて訂正しました。七夕は秋ですねー。

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