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源氏物語:零  作者: Salt
第三章
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栄誉

弘徽殿視点

 殿舎に戻ったあとについうたた寝をした。昨夜の騒ぎのせいだと思う。御帳台にさえ入らず、茵の上で脇息に寄りかかって眠ってしまった。

 日が高くなった頃合に、なんだかやかましいので目が覚めた。


「はい、並んでください。整理券を出しますので順番に受け取ってくださいね」

 何事ならんと声のほうを見ると、御簾越しの孫廂にどこぞの女房らしい女たちが並び乳母子がそれを捌いている。別の者が文机を出し、小さな紙に何か書いている。

「なんなのです、あれは」

 近くにいた女房に尋ねると小声で答えられた。

「女御さまのお手蹟をいただこうと集まった人たちです」

 以前そのようなことを聞いたことがあるか、なにゆえ急にこんなに増えたのであろう。


「はい……それでは券をもらった方はお帰りください。順番に差し上げますから大丈夫ですよ」

「あの、この券一つにつき一枚ですか。部屋の者を代表して来ているのでもう少しいただきたいのですが」

「すみませんね。不平等になるのでその場合はもう一度後ろにお並びください。でも、心配しなくても大丈夫ですよ。うちの女御さまの書は霊験あらたかなので、一枚もあれば部屋中が救われます」

「そうですか。それではとりあえず一枚で」


 ばたばたと廊を踏んで別の女房が現れた。

「すみません、右大臣さまを通しての依頼ですが早めの札をいただけませんか」

 乳母子はそれを押し留める。

「いけません。みな並んでおります。順番を守ってください」

「え、でも右大臣さまのつてですよ」

「横紙破りは騒動の元です。桐壺の更衣の専横により後宮がいかに乱れたかご存知でしょう」

「しかし……」

「はいはい。すみませんがジャーマネのわたくしに従ってください。すぐに順番が来ます」

 呆然とその様子を眺めていると気づいた彼女が役割を他の者と変わって傍に寄ってきた。


「お目覚めですか」

「どうしてこんなに集まったのです」

 乳母子は眉をひそめた。

「実はですね、昨夜出たのです」

「なにがですか」

 仁寿殿の異常が他にも伝わったのであろうか。

「物の怪です」

 身構えるととくとくと語りだす。

「昨夜見た者がいるのですよ。二つの顔を持つ物の怪が、人ではありえない速度で駆けて行ったそうです」

「二つの顔?」

「は。一つは目を閉じて眠っているかのように安らぐ美しい観音様の顔、もうひとつは憤怒の形相の不動明王。普通ならありがたいことですが、体は一つに顔が二つ。やはりそれは仏の顕現ではなく物の怪であろうともっぱらの評判です」

「……どこに出たのですか」

「承香殿です」

 乳母子は少し膝を詰めた。


「あそこの馬道をとぶように抜けて行ったとか。見た者は腰を抜かして動けなかったのですが、朝になってから勇気を出して同輩と行ってみると、なんと道の先の仁寿殿の扉が開いていたのです」

「……………………」

「ただでさえ怪しいと評判の場所です。これは中の物の怪が内裏の中に逃げ込んだと騒ぎになり、みなが身を守るすべとして女御さまの書を求めて集まったのです」

「…………そうですか」

 乳母子は私の座の傍に敷かれた円座から立ち上がった。


「ですから、恐れ入りますがなるべく早くにお習字に取り掛かっていただきたいのです。支度をしますので」

「わかりました。でも一つ言い置きたいことがあります」

「なんでしょう」

 彼女はもう一度座りこちらを見つめる。

「これは……ほぼ直感ですが、目を閉じたものの方が邪鬼の一種で、もう一つが菩薩ではないかと思うのです」

「はて……それはまたなぜ」

「直感、というか天のお告げのような気がします」

「はあ。あまり聞かない考え方ですが女御さまがそうおっしゃるのなら」

 首を傾げつつ部屋の隅に置かれた二階棚のもとへ行ってしまった。



 午前中は字を書いて過ごした。最初のうちは華厳経だの法華経だのの一部を書いてやったのだが、なにせ数が多い。だんだん違ったものを書き始め、そのうち頭に浮かんだ言葉を一瞬のうちに書き写しだした。周りにいた者が寄ってきてそれを干したり眺めたりしている。

「心臓を捧げよ……はマズくありませんか」

「物の怪に言ってやってるのです」

「斬ーーーーっ! とは?」

「相手を斬ると脅しているのです。片目になる率も上がりますが」

「ボルガ博士、お許しくださいってどういう意味ですか」

「人であったものが自分の意志とは無関係に害のあるものに変えられてしまった際に退治することの許しを得、その魂を悼む鎮魂の言葉です」

「変わった名前の博士ですねえ……」

 女房が不思議がっている。


 昼過ぎになっても終わらなかったので、最後の幾枚かはイェーガーと書いて楽をした。

「…………意味がわかりません」

「乳母子の呼んだ陰陽師が口走った言葉なので私もわかりかねます」

「何かを駆逐するため言葉のようでした」

 なんでもいい、さすがに疲れた。

 筆を置いてくつろいでいると来客の知らせがあった。

「え、お疲れでしょう。相手はたかが更衣風情のようですし断ったらいかがですか」

 乳母子が進言するが受け入れる気はない。


「会います。人払いを……おまえも局に戻りなさい」

 乳母子が目を見張り唇を震わせる。

「そんな。どんな相手であろうとも女御さまがわたしを遠ざけるなんて」

「何かと事情もあるのです。さっさと行きなさい」

 恨めしそうな顔の彼女を追い払い、口の固い女房だけを控えさせて例の更衣を招いた。彼女の従者も細殿で待たせた。

 更衣は少し青ざめてはいたがおかしな様子はない。二藍に萌黄を重ねた小袿姿の私の前で、きっちりと唐衣をつけている。いくら更衣といえども女房ではないのに涼しい色合いの平絹で紋も入れていない。

 丁寧に頭を下げ先日の礼を述べた。


「この間のことを説明なさい」

「はい。女御さまのご指導を受けて音楽の道を開かれた私は、今まで気にも留めていなかった桐壺の更衣の音を聞いてみたくなり、仁寿殿に何とか誘い出して音を合わせました。……その時に何らかの異変があって共に意識を失いました」

 間の几帳は立てていない。じっと見つめるとその視線をまっすぐに受け止める。少しの歪みもないが私はその瞳の底を越えてもっと奥までたどり着く。

「害意はありましたね」

「………………はい」

 彼女は少しうつむき茵の縁を眺めたがすぐに視線を戻した。

「ですが、もう直接殺めようなどとは考えておりませんでした。ただ、体の弱いあの更衣に配慮するつもりはありませんでした。私は自分の思惑だけを優先してあの女を呼びました」

 そう告げる女の眼は澄み切っていた。何の濁りも見当たらず、崇高とさえ見える色を宿していた。

 なぜか。人を傷つけてそのことを快いと思う女には見えぬ。

 理由に思い当たって唇の端を噛んだ。

――――この女は、自分のためにそれをしたのではない

 更衣は満ち足りた表情で目の前に座っている。


 日はわずかに傾き始めていた。惜しまれゆく春の光がのどかに御簾内に差し込んでいる。

「………………わかりました」

 女の顔にほっとしたかのような表情が浮かぶ。

「体の調子はどうですか」

「女御さまに尋ねていただけるなんて光栄ですわ。今はとてもよい気分です」

 気を許した笑顔には邪気の欠片もない。

「そうですか。それはよかった。ならば、二度とこの部屋を訪れてはなりませんよ」

 言葉の意味を解するまでに間があった。

 笑顔が固まり、とけるやいなや驚愕、いや恐怖の形相に変わった。


「いったい、なぜです!」

 悲鳴のような声があがった。

「桐壺の更衣を害したからですか!?」

「………………馬鹿なことを」

 私は口もとに笑みを浮かべた。

「そんなことはあるはずがない。私は彼女の天敵ですよ」

「でしたらなぜ! 私はあなたの第一の弟子のつもりです」

 先ほどとは別人のような悲痛な色が浮かぶ。私は口の端に力を入れ、吊り上げたままの形を保った。


 御簾の向こうに鳥の影が現れ、すぐに飛び去った。

 それが空の果てへと消えるまで見送った。


 目を戻しても更衣の表情は変わらない。背後の鳥など気づいてもいないのだろう。食い入るような視線を避けずに言葉を与えた。

「あなたはここをどこだと思っているのです」

「え、最も栄えある殿舎、弘徽殿です」

 その答えはなかなか悪くない。しかし私の意図とは違った。

「そうです。内裏の後宮の一隅です。そしてあなたと私はその後宮の一員です」

「………………はい」

「馴れ合うべきではありません」

 傷ついたような顔で私を見る。唐衣までが急にくすんで見える。

「今まで、これほどまでに優しく迎え入れてくださったのに」

「あなたは誰にものを言っているのです。弘徽殿の女御ですよ。優しさなどあるはずがありません」

「いいえ! 私は知っております。あまた侍う女御・更衣の中で最も尊く最も優しいのがどの方であるかを!」

「………………それは誤解です」

「いいえ! 私はもうこの立場を捨てたっていいのです。ただあなたのために……」

「お断りします」

 自分の言葉が太刀に変わるのをこの目で見た。

 女はまるで打たれた犬のように私を見ている。


「あなたは……後宮での最高の栄誉は何か知っていますか」

 少しやわらいだ私の口調に、更衣はすがるような目で答える。

「…………中宮となることでしょうか」

 首をそっと横に振った。

「いいえ」

「では……東宮となるべき御子を生むことでしょうか」

「いいえ」

「……わかりません」

 途方にくれた女を見返して正解を与える。


「それは、憎まれ、そしられ、妬まれ、迫害の限りを尽くされることです」

 更衣が息を呑み目を見開いたまま凍りつく。


「他の女の恨みが最大の賞賛であるこの場で、表面だけ取り繕った社交に興じるなどこの私にはできません」

「ですが、私はそんな立場など捨てて女御さまのもとにいたいのです!」

「そんな者は女房で充分です」

「ですが…………」

「甘ったれるな!」


 離れた位置にあった几帳が倒れた。鈍い音がした。

 更衣は揺るがない。唇をかみしめて茵の端を掴み、今にも泣き出しそうだが必死に耐えている。

 この女は充分に強い。


「あなたがその程度の女なら、手を貸したりはしません。いえ、最初の状況だけならどうにかしましょう。それは後宮の平安のためです。しかし私はそれだけに留まらなかった。嫌がるあなたに強引に筝を弾かせました。なぜか。あなたがその価値のある女だからです」


 雷に撃たれたかのように目を見開いて、握った茵を離し、信じられぬことを聞いたかのように口を開く。

「そんな……私など一族のただのコマ。替えなどいくらもある存在だと……」

「それならばそもそもここにいません。確かに私の足元にも及びませんが、それでもあなたは一族中最も輝く最も優れた女で、更にそれ以上の価値を認められた女なのです」

「でも私は……」

「役目を放棄し、他者の下で満足しようとする女に敬意も友情も持てません。しっかりしなさい! あなたはそんな女ではない。この弘徽殿の女御が目をかけた更衣なのです」


 女の涙はついに留まらず、白い頬をしとどに濡らした。

 私は布さえ渡さない。女はしばらく涙を流した後、自分の袖でそれをぬぐった。

 それから私をじっと見つめた。


「………………私は手強いですよ」

「かまわぬ」

「いずれ女御となり、次には中宮を狙いますよ」

「その前にひねりつぶしてくれるわ」

 琴などなくとも青い焔が燃え盛るのがわかる。その小さく熱い焔はとても美しかった。

 更衣は微笑み、また涙を落とした。


「…………私が倒すまで誰にも倒されたりしないでくださいね」

「笑止」

「お体にはくれぐれも気をつけてください」

「あたりまえです」

 滂沱の涙は床にさえ流れている。すすり上げるので声さえ不明瞭だ。


「そういえば女童はいたのですか」

 尋ねると顔を袖で押さえながら答えた。

「おりました。なぜだが、その日もその前の時も供はしていないと言っていました。他にいなくなった子もおりませんでした」

 妙なことだが、一人で来たのに誰かといっしょだと思い込んだのだろう。


「そうですか。それではあなたも体に気をつかいなさい。線が細すぎるから、もっと身を養わなければ後宮で闘い抜けませんよ」

「はい。ありがとうございます…………先輩………………いえ、女御さま」

「最後に琴で見送りましょう」

 控える女房に命じると、すぐに琴の琴を用意した。

 生半可な者が弾くと災いを呼ぶとさえ言われ、そうでなくとも奏法が難しすぎてあまり弾く者のない楽器だ。もちろん私は得意としているし、わが技量を持ってすれば呼ぶものは違うに決まっている。


 行く春を惜しむ双調の調べが人々の心を乗せてどこか遠くへ運んでいく。細くつながる道筋。全ての者がいつかたどり着くその場所を垣間見せ、しかし踏み外さぬように守りながら流れていく。

 このたびの音に華やかさは必要ない。それは季節がすでに添えてくれている。矜持と品位、それだけを頼りに響かせる。

 音が女を取り巻いたとき、彼女から影が誘い出された。

 焔に影は付き物だ。私の音は細く優しくその翳りを受け止め、光の中に呑み込んでいく。

 更衣の闇は音に溶け、楽を支える陰影と変わった。

 女の顔は青ざめたままだが、唇がうっすらと色づいている。

 だが、悲しみは残った。

 それはすでに彼女の魂の一部で、青い焔を燃やす芯となっている。

 その悲しみが水の気配を呼び、あたりは霧が立ち込めた。

 全てがおぼろな殿舎の中で、深々と頭を下げる更衣の姿を見た。

 振り返らず消えていくその姿を美しいと思った。


 殿舎には泣き声が響いている。

 琴の余韻を台無しにするその声に私は眉をひそめ、倒れた几帳の下に声をかけた。

「いつまでそうしているのです。さっさと几帳を立てなさい」

「ふぁい…………」

「まったく、主人の命を聞かず覗き見をする従者はおまえだけです」

「すみましぇん」 

「だいたい何故泣いているのです。更衣は帰しました。二度とここには来ません」

 盛大に鼻を啜り上げる音がした。

「わたしの感情などはどうでもいいのです。ですが女御さまのお心は……」

「何か言ったら蹴り飛ばしますよ」

「はい…………」


 乳母子が几帳を持ち上げ、少し考えてそれを私の元に置いた。

 流石に付き合いは無駄に長い。彼女は黙って几帳の遠くに離れて座った。

 日が傾き薄青い夕闇が訪れるまで、そのままそこに座っていた。



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