目覚め
桐壺視点
月のない夜だったはずなのに、空にはぼんやりとした月が出ている。
辺りはまた、寒くもなく暑くもない。かすみの様なものでほんのりと覆われた薄い闇だ。
子供たちの声がする。今日は駆け回って遊んでいる。
なんだか丸いものを蹴りあったり奪い合ったりしている。
四つか五つに見える子の一人が私に気づいて駆け寄ってきた。
上品な顔立ちの男の子だ。全身で甘えかかるそのしぐさで、本当は生まれたての赤子だったのだろうとわかる。
子供たちは一番大きな子で十三歳ぐらい、小さな子で三つぐらいに見えるが、それが実年齢とは限らないようだ。
大人は一人もいない。元服した子もいない。数もはっきりとはわからない。
甘える子供を膝に乗せると、何人かが遊びをやめて寄ってきた。衣の裾にまとわりついたり自分も膝に上がろうとする。
「順番だ、順番。もう少し待ってろ」
次の子をたしなめ、先の子を揺すってやる。
その子は満足そうな顔で笑い、ほわっと煙って消えた。
「…………いなくなっちまった」
「すぐに行っちゃったんだ」
「いいなあ、また生まれ変われるんだ」
驚いて子供の一人に尋ねる。
「消えると生まれ変わるのか」
「十分満足したらね。でもあんな簡単にそうなる子は他にはいないよ」
「うん。ぼくも生まれてすぐ死んだけど、抱っこだけでそうなったりはしないと思う」
きりりと引き締まった顔立ちの子がそう告げる。見た目は十二歳ぐらいだ。
「じゃあ、どうすれば行ける?」
「よくわからないけれどさんざん遊んで満足したらかなあ」
「うん。それまでに別の方に行かずにすんだらね」
眉の濃い元気そうな男の子も答える。
「別の方って?」
「こわい方。この間一人行っちゃった」
「うん。女の子は少なかったのに残念だ」
「もういないよ」「うん。いないよ」
「日の光で溶けちゃった」
「……お前たちは日に溶けるのか?」
いっせいに首を横に振る。
「ううん、ぼくたちは違うよ」「こわい方へ行った子だよ」
「普通の光じゃダメだよ」「ものすごく強い光じゃなきゃ」
子供たちは口々に教えてくれる。断片的な言葉を合わせてみた。
皇の子供たちは十分に満足すると成仏(?)することができるが、たまに悪霊のようなものになってしまう場合がある。
ただし通常より強い日の光を浴びると浄化されて消える。人の持つ光でも稀にそうなるらしい。
「私はその光を持っているのか?」
「ううん。あなたは月の光」
「僕たちの光は両方。おなかの中でたくさん浴びたから」
それは息子のことらしい。
「おまえたちはこわい方に行くなよ。妙なやつになると困る」
伝えると子供たちは寂しげに笑った。
「なりたくはないよ」
「でもね、生きてる人は強いから」「生きてる人はこわいから」
「連れて行かれるんだよ」「変えられちゃうんだよ」
人の都合で闇に消えた子供たちが、人に巻き込まれて成仏さえできない身になってしまうことはとてもかわいそうだった。
「もしかして、こわい方に行った女の子って、この間の女童か」
あの更衣のつれていた色白で整った容姿の…………
「うん」「うん」「あなたが人って聞いた日まで仲間だったのに、次の日はもう行っちゃった」
「残念だね」「残念だったね」
さして残念でもなさそうに子供たちはつぶやく。感情は人よりもだいぶ薄いようだ。
息子と変わらない年に見える子が、まわらぬ舌で教えてくれる。
「あの子ね、琴しゅきだったの。とってもしゅきだったの。ひいてみたくてたまらなかったの」
「私もそうだ。私が連れて行ってしまったのか?」
ちびさんは首を横に振る。
「ちがうの。あなたはちがうの」
「暗い影がなきゃ連れて行けないよ」
「それにあなたは特別な人だもん」
「大人はここには来れないのに来れるし」
ほの暗くほの明るいこの地は、子供たちの楽園らしい。今も大勢が丸いものを蹴りあって遊んでいる。
「私じゃないのなら、もう一人の更衣か」
あの、青い焔を持つ更衣が何をたくらんでいたのか私は知らない。だが、彼女の琴にかける情熱は本物だった。
「こわいよ」「こわいよ」「すごくこわいよ」
脅えている様さえなんだかあっさりしていた。それがかえって痛ましくて、次の子を抱えあげて揺すってやる。嬉しそうにその子はしがみついている。
「ほい次。……おいで」
息子の年頃のちびさんがおずおずと膝に乗るから抱きしめる。温度は感じないがやわらかな子供の感触。
抱いてぽんぽんと背中を叩いてやっているとすやすやと眠ってしまった。
「じゃ次」
きりりとした顔立ちの子がそっぽを向きながらつぶやく。
「ぼくは別にいいんだけど」
つい笑ってしまって、くしゃくしゃと髪を撫ぜる。
「並んでるじゃねえか。お子ちゃまは素直になれよ」
「ぼくはあなたより年上だよ」
「関係ねーよ。私は子持ちだぞ」
がばっ、と腕の中に抱え込むとしばらく固まっていたが、静かに泣き始めた。
「赤ん坊だったんだろう? 泣くのが仕事だ。好きなだけ泣けよ」
「………………うん」
泣いて泣いて、次の子が焦れて地団太を踏み始めるまで泣き続けた。
順番を終えた子は薄い闇に紛れてしまって、どこに行ったかわからない。丸いものを蹴りあう遊びに混じったりもしているようだ。時たま歓声が近くで響く。
大人のいない世界。母の温もりも知らず、たぶん善悪さえもよくは知らずにさ迷う子供たち。なぜ私だけが招かれるのか知らないが意味があるような気がした。
大したことはできないが、膝を貸したり指遊びをしたり話したりして過ごした。
だんだん子供たちの姿がはっきり見えてくる。可愛い衵姿だが衣の色はなく指貫袴に到るまで全て白だ。
「こっち、こっち!」
蹴鞠のような遊びをしていた子供たちが駆け込んでくる。同じような白だが、よく見ると生地の白に桐竹の織りがあることさえわかる。
「こっちだよ! パス!」
鞠のようなものが軌道を外し私の傍まで飛んできた。投げ返してやろうと拾ってみて、思わず手から落とした。
「ダメだよ、こっち投げて!」
「ぼくにちょうだい!」
私は震える手でもう一度それを拾い上げた。
「これは………………」
完全に乾いたしゃれこうべが白く輝く。
息を吸い込んでなるべく落ち着いた声を出した。
「こんなもので遊んじゃいけない」
「え、だってここには何もないもん」
「そうだよ、それにそれはあの子のものなんだよ」
ちょっと目の間の離れた十歳くらいの子が片手をあげた。
「うん。僕のお父さんの骨だよ」
ぐっ、と声にならない声が漏れた。必死に息をとめて気を落ち着ける。
「お父さんを蹴っちゃいかん」
「え、会ったこともないし抱っこもしてくれなかったよ」
「うん。僕も顔知らない」
別の子がこちらの様子をうかがう。
「……お母さんならいいの?」
ふざけてる様子ではない。
「お母さんもダメ。人の骨なんか蹴っちゃいけない」
「犬は?」「馬は?」「猫は?」
「どれもいかん。死んだものはそっとしておいてやれ」
「え?」
子供の一人が不思議そうな顔でこちらを見る。
「僕たちだって死んでるよ」
「死んだらもう痛くないんだよ」
「それとこれでは話が別だ。人であろうと獣であろうと骸をおもちゃにしてはいかん」
決め付けるとしょんぼりされた。
「だってここ、なんにもないもん」「何ももって来れないんだよ」
一人がいいことを思いついた、といった感じで顔を輝かせた。
「自分の骨ならいいでしょ? 誰も困らない」
その子をぎゅっと抱きしめた。
「………………それが一番ダメだ」
人であり、人でなく、人に利用されて人に見捨てられた子供たちは玩具の一つもなく、得体の知れない恐怖と隣り合わせだ。
悲しみが心を満たす。それは私の心にある全ての感情をしのぐほど深い。
………………たぶん、恋心よりも
「ごらん」
子供たちの前に両手を差し伸べる。彼らはじっと見つめている。
私は目を閉じてそこに月の光を集めた。
ぼんやりとした光が集まって、氷のように固まる。
「うわあ」
彼らが口をあんぐりと開くのが目をあけなくてもわかる。
強く意識するとそれは蹴鞠よりもまん丸く月のような形に変わる。
「ほら」
目を開けて、一番年長に見える子に渡した。
「骨よりずっといい。これを蹴って遊べ」
大きな歓声があがる。さっそく一人が蹴ると大きく弾んだ。
子供が三人ほど残った。
「しゅごい」「すごい」「他のものも作れる?」
「さあな。よくわからんが試してみよう。何がいい?」
「琵琶!」「げんじょうみたいなの」
「玄象? あいつここ来るのか」
「うん」「うん」「たまーに」
月光で琵琶を作る。白く輝く形のいいものができた。
「あまり玄象には似なかったな」
「ううん」「うん」「これ、好き」
撥も作って鳴らしてみると冴えた音がする。慣れた曲を奏すると子供たちはとびはねて喜んだ。
「ぼくもひく」「ぼくも」「あたしも」
それぞれが飛びついて音を出す。初めてだからひどい音だ。
でも弾む気持ちがそのままに伝わって楽しそうに響く。
そのうちちゃんと教えてやらなきゃ。
だが今は好きに遊ばせた。
ああ、ひでえなあ。だけど本当に好きなんだな。
しかしこの曲何かに似てるな。
ええと、なんだっけ。あまり原形をとどめてはいないけど曲にこめた気持ちだけは伝わる。
これは……もしかして…………白露?
目を見開いてもしばらくは状況がわからなかった。見知らぬ女房たちに囲まれている。
「…………お目覚めになられたのね」
優しい声が頭上から響き、同時に花橘のさわやかな香りがした。
いや、まだそんな季節じゃない。これは、この方の魂の匂いだ。
「…………私はどうしてここにいるのでしょう」
様子からするとここは麗景殿らしい。
「仁寿殿に倒れていらっしゃったようです。覚えはありますか」
「はい」
「弘徽殿の女御さまが連れてみえたらしいのですけれど、そのことは?」
「…………いいえ」
あいつが? なんでまた。
麗景殿は優しく微笑んだ。
「いろいろお尋ねするとまた調子を崩しかねないわ。お休みになって。じきにお部屋の方が来ますわ」
「……これをお飲みください」
薬湯が運ばれてくる。頭を下げてそれを飲んだ。香りも味も穏やかだった。
迎えに来た女房たちは涙を流した。
ただ、誰も責めず何も聞かない。聞きたくて仕方がないだろうに事情には触れない。それは麗景殿の人たちも同じだ。
腹を決めて少しだけ話した。
「ある方と人知れぬ場所で存分に音を合わせようと決めてそうしたところ、場所の気配に押されて気を失ってしまったのです」
「それは弘徽殿の女御さまですか」
「いえ、違います……その方は無事かしら」
麗景殿は少し思案する顔で部屋の外に目を移したが、すぐに心を決めたらしい。
「弘徽殿に誰か行かせて尋ねさせます。あなた方は接触なさらないほうがいいでしょう。仁寿殿の確認はおやめくださいね。危険だわ」
「かえすがえすも……」
「頭をお上げになって。しばらく里にお戻りなったほうがいいと思いますわ。あ……」
彼女はふいに真顔になった。
「失礼とは思いますが一つだけ聞かせてください。その方は男の人ではないでしょうね」
目が点になった。
「……いえ。後宮の住人です」
すぐに彼女の顔がやわらぐ。
「それを聞いて安心しました。人目がなければあなたと交流したい方は他にもいるのですね」
ちょっと泣ける。
「ほんとにもう……」
「ごめん」
「ごめんですんだら検非違使はいらないですよ」
桐壺に戻って女房たちに叱られている。
「本当に弘徽殿に害されたんじゃないんですね」
「違う。って言うか、なぜ彼女が。見当もつかん」
連れて来られたと聞いても覚えがない。
「わかりませんが、どんな噂を流されるか知れない。麗景殿の方の言うとおりいったん戻ったほうがいいですね」
「………………うん」
本当は戻りたくない。少しでも長くあいつに会っていたい。
だけどしばらくほとぼりを冷ます必要がある。
「今夜、行ったら話すよ」
悲しみに耐える彼の顔を想像して胸が痛い。
ため息を胸の奥に飲み込んだ。
終わりかけた春の夜気が冷たく入り込むのを感じていた。