疾走
弘徽殿視点
今年の桜は少し早くて今朝はかなり散っていた。
大いに不満だ。この日ばかりは永遠の愛を祝うべく、今を盛りと咲き誇る義務があると思う。
「あの日はそうでしたね。花よりあでやかな女御さまがとてもお美しくて、吉祥天女とたたえられたほどでした」
乳母子が新しい衣を調えながら思い出す。今はより美しくよりあでやかとなった私だが、あの日はあの日で、まあ他者の数十倍は美しかったと思う。なのに。
怒りでこめかみがひくひくと動く。
当時の予定ではさっさと東宮となるはずの男の子を生み、今頃は国中に祝福されつつ中宮となっているはずだった。なのに。
いや、私は毛ほども悪くない。予定通り男御子も生んだ。健康で、容姿も優れ、知性もある立派な子供だ。その血筋に一切乱れもないことは、主上にクリソツなその顔でわかるはずだ。なのに。
尊い私の人生はたった一人の卑しい女のせいでせずともよい遠回りをさせられている。
いずれ必ず中宮にはなるっ。なるが何故に最短距離を突っ走れないのだッ。
だいぶ苛立ったが、このよき日に怒りをあらわにするのはよろしくない。なにせ私は理性的な女だ。完璧に自分を抑え、円座を差し出す女房にも扇を運んでくる乳母子にも首を横に振った。
特に許された禁色の唐衣を身につけ、普段より多めの女房をつれて威儀を正して馬道を渡った。いったんは上の局に身を落ち着けるが、大して間をおかずに主上のもとへ向かった。
「うわあ、華やかですねえ」
主上が目を見張った。そうだろう。傍仕えのものたちの衣装も新調させた。女童たちも揃いのものを得意そうに着ている。
「あの日のことを思い出します」
そういって少しうつむいた。慌てて彼の手を取った。
「変わらず今もお慕いしております」
「…………ありがとうございます」
当時は不慣れだった彼がコトを上手く運べなかったことを未だに気にしているらしい。この頃の話題が出ると少し顔色が悪くなる。私は、不慣れである彼がかえって嬉しかったのだが。
それでも毎年必ずこの日は私を呼んでくれる。彼にとっても私にとっても大切な日なのだ。
主上の笛に合わせて琴などを爪弾く。彼も当時よりだいぶ上達した。
「でしょう。達人技のあなた方に少しでも追いつこうと頑張ったのですよ」
複数にされていることにいらっとするが、気持ちを抑えて努力をたたえる。主上は嬉しそうににっこりと笑う。そこに陽が射し花が咲くかのような明るさ。
「二人で合わせるのも素敵だけど、ちょっと音が足りませんね。また音の遊びをしたいですね」
「ええ。それもいいですわね」
「今度はできるだけみんなが参加できる大がかりなものがいいなあ」
「…………麗景殿の方もですか?」
「一曲の途中まででもいいから参加していただきたいな。でも充分に練習する期間がないと気の毒でしょうか」
心配そうな顔で考え込んでいる。
「どうせすぐに暑くなります。そんな時に大勢集まるのは大変ですから期日を秋に決めて、麗景殿の方を早めにお誘いすればどうでしょう。さすがに一曲ぐらいはどうにかなさるのではないでしょうか」
主上の顔が輝いた。
「それはいい案ですね! そうしましょう。秋の月の美しい頃にしましょう。嬉しいな、虫の音と競い合うように素敵な音を響かせましょうね」
あの方が加わるのならそれは多少怪しいが、水を差すつもりはなかった。
「ああ、でも前回調子を崩された方々は大丈夫でしょうか。弘徽殿さんはどう思われます?」
箏に失敗した二人の更衣のことを案じているらしい。
「私は人前で音を外したことがないのでわかりかねますが、あの時の箏の弾き手のうち後涼殿に住んでいなかった者はなかなかの上達を見せたようです」
ちょっと嫌味を混ぜてしまう。ことさら後涼殿を強調した。
だが主上はまるで気づかずに無邪気にこちらを見つめ返す。
「そうなんですか。弘徽殿さんが誉めるからには相当ですね。じゃあ彼女は心配ないとしてもう一人の方は?」
「以前後涼殿にいらした方については知りません」
大事なことなので二度言った。けれど主上はまったく気づかない。
「あの時も途中まではちゃんと弾いていたのだから大丈夫ですよね。期間もこれまでになく長いし」
「………………ええ」
あの女に特別に上局を与えたことを反省していただきたいのに、今は心は全て音の遊びに向いているようだ。
内心ため息をつきつつ、それでも彼の全てがあの女に占められているのではない気がして少しほっとする。主上は一生懸命何事か考え、ふと顔をあげて私に尋ねた。
「弘徽殿さんは何の楽器を担当しますか?」
「どのようなものでも。特に苦手とするものはございません」
「大太鼓でも?……うそうそ、冗談ですからね」
また翳り一つない笑いを見せて考え込む。
「まだ聞かせていただいてないものは……琴ぐらいですけれど、人が多い場では琴は音が小さすぎるし難しいですよね」
ささやかな音ではあるが格調高く趣がある。ただし今では廃れかけているほど難易度の高い楽器だ。
「いえ、得意としております」
響かせ方にコツがあるが、他の音に負けずに奏することもできる。
「そうですか。でしたらお願いします」
あの白い花のようなかそけき音をどう活かそうかと思いを馳せた。なのに主上は余計なことまで言い出す。
「桐壺の更衣さんは何がいいと思いますか」
かっとなって、扇で拍子でも取らせておけと言い捨てたくなったが、そうなったらたぶんつまらぬので言葉を呑み込んだ。私の聞きたいのはまだ耳にしていない楽器……やはり琴だ。
「……琴を弾くことができるのでしょうか」
「大丈夫みたいです。となると合奏しますか、別の曲を弾きますか」
あのような見下げ果てた女と音を合わせることはご免こうむりたい。だが私は後宮で一の位を誇る身、そのようなわがままを言うべきではないだろう。
「………………合奏いたします」
彼はちょっと驚いて、でもどことなく嬉しそうだった。
「わかりました。更衣さんにそう伝えます。今度は……いっしょに練習してみたらいかがでしょう」
日輪のもと輝きわたる存在の私がそんな地を這いずり回る下等な生き物とまるで同列のような行為ができるかっ。
「………………考えておきます」
いくつかの遊びの時のあの女の音が、ふと耳によみがえった。
満ち足りた眠りの中に音が忍んできたのはこのときの会話が原因だと思う。
殿舎にいると人気もない時分でも誰かのかき鳴らす楽の音がこぼれてくることがある。だが清涼殿では笛の音は別として深夜に音を漏れ聞くことはなかった。
それもそのはず、一番近いのがわが弘徽殿なので主のいない場所から音がするはずもないのだ。
夢の中でさ迷いこんだ道はしっとりとした霧が立ち込めていた。時おり風がそれを払って、木の葉の積もった山路であることを示す。
月が出ている。薄絹をまとった女のように淡く儚い霧をまとわりつけて、憂いを潜めた光を投げかけている。
むせび泣くような筝の爪音がしどけなく優美に流れてくる。
――――聞き覚えがある
眠りの中でさえ聡明な私は音の主を判じることができた。あの、わが殿舎に時おり通う更衣だ。
懸命に女は琴を奏でていた。ちっぽけな魂の容量を越えるほどに燃やす、なかなか凄みのある音だった。
ただ、青みを帯びた炎は不吉なまでに妖しく、どこか遠くに通じるその道が鬼火に照らされ歪んでいる。
――――いけない
なぜだかそう思った。
冷たく青い鬼火が虚しく揺れる。水辺に群れ咲く桜を散らす。絢爛たる花吹雪。狂ったように乱れ飛ぶ花びら。
刃を振るったように音が途切れた。
不安をはらんだ沈黙の闇の中、別の音が流れ始める。
清らかで軽い春の音。以前聞いた音によく似たきらめくような音。桐壺の更衣だ。
宇陀の法師ではないためか以前よりも素朴で優しい音が響く。澄みきって早い小川の流れ。
桜はやはり散る。けれどそれは潔い。万物の道理と淡い悲しみ。それに加えられる慰藉の心。
山里の春。駆けていく少女を思わせる透明な響き。
そこに先ほどの筝が絡んだ。悩ましくこごった碧玉の光。少女を無理に大人にするかのように魔を含んで道を変える。それを加速する第三の音。
――――!
わずかな恐れを抱いたまま目覚めた。
まだ、夜中だ。
辺りはしんとしている。
しんとしすぎている。
時が止まったかのように。
主上は無心に眠っている。幼子のように。その姿を見ていると自然に微笑が口もとに浮かぶが、胸の奥の不安はそれでも消えない。
身を起こして帳台を滑り出るが、有能な私の女房が誰一人起きて来ない。
――――?
宿直の女房たちはみな眠っている。まるで世の中が静止したかのように。
目は覚めている。けれどこの奇妙な状況は変わらない。
そして外からは音の気配。いや、聞こえない。だが感じる。
夜着の上に袿を一枚はおり扇を掴んで夜の御殿を抜けてみた。けれど誰も現れず、私は孫廂に足を踏み入れた。
床はひどく冷たい。春のなやましい空気は変わらないのに、そこは凍てついたかのように冷え切っている。
普段はしたこともないことだが、孫廂を南に渡っていく。釣り灯篭の火影が揺れる。
生き物の気配は何一つない。それでも焔が揺れるわけだから時が止まったわけではないのだろう。
扇をさし開いて顔を隠したまま冷たい廊を歩きゆくが、夜居の僧も警護の者も気配さえない。
南端にたどり着いたので躊躇したが、思い切って階を下り鳴板を踏んでみた。確かに音が鳴ったが誰一人現れない。
首をかしげたまま長橋を渡る。いくら扇をかざしているとはいえ、供もつれぬ女御が深夜こんなところにいるのはおかしい。が、止まらない。
夜の仁寿殿は猛々しいもののふさえ恐れて近寄らない場所だ。かつては帝の起居する場だったが、今は古びてもの寂しい。
とある帝がここで人を殺めてしまい、そのためにほとんど使われなくなったと聞いたことがある。
入り口に手をかけると簡単に開いた。そしてそこから音が響いた。
水の気配を持った音が絡みついてくる。それは琴に似た何かの音で、全てを自分の中に取り込もうとしている。
中に入ると音はいっそう湿った触手を伸ばしてくる。
確かに非凡で冴えた音だ。しかし、まがまがしい闇の気配に満ちている。
憤然とした。清らかであるべき内裏の中で、このような音を立てるべきではない。
ムっとしたままずかずかと入り込み、音のもととなる塗籠にたどり着いてその戸を開いた。
一瞬間があり、音であったらしい何かは派手な響きを残して霧散した。私は呆気にとられた。
「…………なんです、今のは」
尋ねてみるが答える者はない。小さな明かりだけが灯っている。
見渡すと、女が二人倒れている。思わず扇を閉じて近寄った。
更衣が二人、気を失っている。腹がたった。何事か知らぬが、この私を巻き込むなっ!
桐壺の更衣など触れるのもイヤなので、もう一人を手ひどく揺さぶって起こした。
「これ! しっかりしなさい。何事があったのです!」
女はうっすらと眼を開いた。
「………………弘徽殿の女御さま?」
「そうです。これっ!」
再び瞼をとじ、今度は開かない。私は彼女の耳元に叫んだ。
「喝ッ!!!」
女は飛び上がり正気に戻った。
「な、何事……!? …………女御さま?」
「いったい何が起こったのです。……いえ、ここで長話はせぬほうがいい。すぐに出ましょう。……立てますか?」
何度か試みて女はようやく立ち上がった。そしてあたりを見回した。
「女童が……私の女童がいません」
「ちょっとそこで待ちなさい。ああ、明かりをいったん貸しなさい」
燭台を取り上げ仁寿殿を隈なく探す。女童はどこにもいなかった。
女は気を失ったままの更衣に寄り添い震えていた。もう一度立たせる。
「出ましょう……む…………」
桐壺の更衣をどうするべきかしばし考えた。このまま放っておきたい。だがそうすると、なんだか知らんがこちらの女が主上に責められるだろう。
「明かりを持ちなさい」
「…………はい」
「北から来たのですか」
「…………はい」
私が通ってきた道は人目につきやすいし遠い。北に進めば承香殿につながっている。そこを通る方が無難だ。
「先に行きなさい」
女の明かりを道しるべにする。
そして私はこの死ぬほど嫌いな女を抱えあげた。
「ぬ、ぬおおおおおおおおっ!」
非力な私が常にない力を出すのだ。出したこともない雄たけびをあげるのも無理からぬことだ。それでも前を行く女はびくついた。
思ったよりは軽い更衣の体を肩に引っ掛け、地を踏みしめてのしのしと歩く。見苦しいが仕方がない。
「人のいる承香殿は走り抜けます。深夜ですからみな眠ってはいるでしょうけど。そこからあなたは自室に戻りなさい。話は後で聞きます」
「女御さまは?」
少し考えた。このまま桐壺に行くのも弘徽殿に運んでいくのも変だ。
「…………麗景殿に行きます。貸しがあるから返してもらいます」
考えればそれもこの女のことだがしょうがない。今はそれが最良の手段だ。
「行きますよ…………走れっ!!」
戸口を開き、承香殿の中央を通る馬道を走り抜ける。われながら奔馬のごとき勢いだ。
まったく、記念すべき夜に、何ゆえ世界で一番大っ嫌いな女を背負って人の部屋の前を走り抜けねばならぬのだッ!!
憤怒の形相で道を通り抜け、麗景殿にたどり着いた。ほとほとと妻戸を叩いたがさすがに深夜、人が出てこぬのでがんがんと戸を殴りつけた。
寝ぼけた声の女房が現れる。
「いったい何事ですか…………うわっ!!」
女は腰を抜かしたようだがかまわず入り込み桐壺を下ろす。
「こ、こ、弘徽殿の女御さま?」
「そうです。この女を預かりなさい」
「え? これは…………桐壺の…………」
「仁寿殿に倒れていました」
気も動転したのであろう。その女房は極めて失礼なことを口走った。
「リンチの度が過ぎて殺してしまったのですか?」
「無礼なッ!! この公明正大な弘徽殿の女御に対してなんと言う言い種。そうではない、むしろ救ったのですっ!!」
まなじりを吊り上げると相手は平伏した。
「お、お赦しください、失礼を申し上げました!」
「わかればよろしい。さっさとこの女を介抱しなさい」
衣の乱れをなおし、胸に挟んだ扇を開き、もとの優雅な美しさを取り戻す。
「それでは私は帰ります。今宵は記念すべき夜なのです」
「お待ちください。事情だけでもお話しください」
「一切わかりません。たまたま救っただけです」
呆気に採られる女を置いてしずしずと廊を渡ってもとの場所に戻った。
夜の御殿では主上が邪気のない顔で眠っている。隣へ滑り込むとほんの一瞬目を覚ました。
「…………髪が冷たい。どこかに行かれたのですか」
「いいえ。どこにも行きません。ずっとお傍におります」
「そうですか……ありがとう…………」
ムニャムニャとつぶやいてまた眠ってしまった。その寝顔を見ていると、疲れが全て癒される。
黙って彼に寄り添って、そのまま眠りに戻ることにした。