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源氏物語:零  作者: Salt
第三章
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あやかし

桐壺視点

 風に乗ってどこからか桜の花びらが飛んできた。脆く儚い花びらが愛しくて、手の上に乗せて楽しんでみる。雪と違って溶けたりはしない。空ものどかに青く光に満ちている。


「……で、そのイケメン貴公子と語らっていた女は次の日無残な骸を晒したわけよ」

「ひ、ひいい」

「鬼だったのか、そいつ」

「たぶんな。だがこの話で一番こええのはそこじゃない。その女が喰らわれた場所は……宴の松原だ」

「えええええ」

「わ、バカ、怖くて二度と通れないじゃないか」

「身近なデートスポットが異次元空間にいい……」

 御簾内の女房たちは季節はずれの怪談に熱中していた。私も聞き入ってしまう。


「内裏は幽霊だらけらしいが、鬼はまた別種の怖さだな」

「幽霊も多少は怖いっスよ。近場にマジいますからね」

「夜のお渡りの際、付き添いの女房が一人増えてたなんてよく聞きやす」

「うちなんか少数精鋭だから混ざりようがないがな」

「たとえ混ざってても生きてる人間相手が大変でそれどころではないし」

「おまえ、その戸を押さえとけ! とかこき使っちゃいそうだ」


 他の方々やその女房たちは腰を抜かすだろうが、うちの者は幽霊程度ならそれほど怖がらない。イヤミもいわんだろうし汚物もまかない。それでも噂話のタネぐらいにはなるが。


「幽霊も人柄によっていろんなタイプがありますからね」

「基本殿方のはやかましそうですね」

「なぜ恨むのかしつこく説明されそうだし」

「もっと品よく雅な訴え方がいいな」

「あ、最近それっぽいのあったぜ」

 一人が言い出すと他が目を見張る。離れた位置にいた者が円座を抱えて近寄ってくる。


「和歌でも詠むのか?」

「いや違う。真夜中に怪しい音がするのを聞いた。鈴の音かな」

「あ、聞いた。だけど琴だったような気がする」

 円座ごと移動してきたやつは、なんだという面持ちでそれをおろして座り込む。


「麗景殿の方が人耳をしのんで練習してんだろ」

「ありゃ日中弾かれても何事かと思うもんな」

「夜だと音が響くから桐壺まで聞こえるんだろ」

「そんなわけあるかい。あの方の音だったら琴だとは思わん」

「おい、そりゃ失礼だろ。琴に似た何かには聞こえるぞ」

「お前のほうがひどくね」

 琴だと言った女房は他が静まるのを待ってから続けた。


「麗景殿の女御さまじゃねえ。けっこう上手いんだ、その琴」

 断定されてみんなはちょっと頬を緩める。あの方が琴を不得意としていることは有名だ。

(きん)? 筝? 和琴? 琵琶?」

「ほんの少しだったからよくわかんなかった。和琴かなあ」

「へえ。気の利いた幽霊だな」

「人じゃねえの」

「真夜中この内裏の端くれに聞こえるような位置で琴を弾くなんて尋常じゃねえぞ。幽霊というよりあやかしじゃね」

「納殿にある誰も使われてない琴が恨みを持ってもののけになったとか」

 つい口をはさんだ。人外の者がどんな音を出すか興味がある。


「なら聞いてみたいな。どんな神音か」

「身の障りになっちゃ大変だ。いけませんよ」

 途端にみな心配そうな顔になる。


「お方さまが琴のたしなみが深いことを知るよその者が、音によっておびき出そうとしているのかもしれません」

「そんなこった手をとるかい。内裏に巣くうもののけの一つが気晴らしに爪弾いているって方がまだわかる」

「和琴じゃねえが琵琶なんかけっこう逸話があるしな」

「あの、以前弘徽殿の弾いた玄象なんかだいぶやらかすって話だったな」

「え、音はよかったが普通の楽器だったじゃん」

「そりゃおめえ、あやかしよりこええお人が弾いてんだ。あたりまえだろ」

「書いた字だけでももののけがぴたりとおさまると言われてる御仁だ。無理もねえ」

「鬼だって従いまさあ、あの人には」

「上位種のもののけじゃねえの、あの人自身が」

 女房たちは腹を抱えている。ようよう一人がおさまってこちらを見た。


「そいつに脅えるでもなく渡り合える更衣さまも相当ですね」

「おう、わかるか。こっちも上位種狙おうかな」

「われわれがついていけないからダメです。大人しく人でいてくださいね」

 釘を指されてちょっと舌を出した。そうありたいんだがな、本当に。

 明るく振舞ったあとの憂いが滲み出たのか、一人の女房がそっと席を外した。忘れかけた頃に水盤を抱えて戻ってきた。重そうに私の前におくから覗き込むと、たくさんの桜の花が浮かべてある。

「枝を折るのもかわいそうな気がして」

「それもそうだ。きれいだな」

 帝が息子のために取り寄せてくれた早咲きの桜は儀式のあとこちらに飾られていたがとっくに散ってしまった。寂しくなったその枝は女房たちが片づけた。

 桜は淡い夢のようにはかない。だからこそ美しく人の心をうつ。


「あっしゃあ花より菓子ですね」

「ならばこちとら椿もち」

「青ざし、粉熟(ふずく)にかいもち、へいだん」

「まがり、麦縄、梅枝(ばいし)に桂心」

「橘、柑子(こうじ)に甘栗あけび、わたし好みの干しなつめ」

「こらこら、後涼殿に行かなくても腹減るじゃないか」

 みなで笑っておやつにした。



 世が更けると小さな手がそっと肩に触れる。闇の子供たちだ。気にしないで眠りとの狭間にいると、微かな音がした。


………………りいん


 遠くから聞こえる。鈴の音だろうか。


……………………りーん


 澄んだ音が空気を震わせてわずかに聞こえる。私は首をかしげて子供の一人に尋ねた。

「あれ、おまえたちの仲間か?」

「ううん」

 すぐに子供が答えた。

「あれは生きている人…………こわいよ」

「おばけが怖がってどうする」

「生きてる人がぼくたちをこわいようにぼくたちだって人がこわいよ」

「うん。人はこわいよ」

「あなたは別だよ」

「光も別」

「光って…………?」

 子供たちはくすくす笑うだけだ。


……………………りいん


 鈴の音は闇に溶けた。そのまま眠れないでいると、今度はわずかに琴の音が響いた。

…………和琴?

 一節足らずのわずかな音。だが弾き手は相当の手練の技の持ち主だ。

 水底から招く青白い手。霧の中にわずかに浮かぶ女の影。そんなものが見えたような気がした。

 耳をすませてもそれ以上音は聞こえず、私はまた眠りに落ちた。濡れそぼった女がじっとこちらを見ているような気がして、あまり心地よい眠りではなかった。



 次の日は午後からずっと清涼殿に詰めていて桐壺に戻ったのは翌朝だったから音は聞いていない。だけど慣れた殿舎で充分に手足を伸ばしたその夜、また音を聞いた。

 女房たちはみな眠っている。夜の闇になれた私だけが目覚めている。そして鈴が鳴るのを確かに聞いた。

――――行こう

 夜着の上に小袿一枚はおり立ち上がる。裾をつかんで、宿直する女房の間を通って部屋を出た。


 妻戸を開く時にちょっと肝が冷えたが、あまり音は立たなかった。日頃金具に油をさしたり気をつかってくれているのだろう。

 夜気は春の気配に満ちて悩ましい。人と行き会ったら困ると思いつつも、鈴の音を目指して歩いてしまう。

 人気のないはずの宣耀殿へ行きあたった。格子は降りている。人の気配は感じられない。だけど確かにその中から鈴の音は響いた。

 枢戸を押すと簡単に開いた。そのことにびっくりして立ちすくんでしまう。けれど戸の奥の女の影がゆっくりとこちらを向いた。


「………………いらっしゃると思ったわ。桐壺の方」


 床に流れる黒髪は艶々として長く、たった一つ置かれた灯台の小さな光を映して濡れたように輝く。その髪の黒さのせいか白い顔が闇に浮かぶ花のように見えた。

――――もののけ、じゃねえ人だよな

 闇の子供たちの言葉を思い出してしげしげと眺める。非礼に気づいて目を反らそうとしたが、女もこちらを食い入るように見ている。

 この顔は見たことがある。あの痩せた更衣だ。楽の遊びの頃と比べると痛ましいほどの細さが抜けて妖艶にさえ見えるほど女ざかりの姿だ。女子会でも顔を合わせたこともあるが大人しい性質の人なのか目立つようなこともなくあまり印象がなかった。が、今宵は何か魔のような魅力がある。

 女房もつれず、一人で座っている。


「なぜ、私が来るとお思いになられたの」

 穏やかに尋ねてみると白い顔の中の紅い唇が三日月の形を取る。

「……あなたは、とても音に長けた方ですもの」

 白い指先が絹紐に結いつけられた銀の鈴を微かに振る。涼しい音が響いた。


「もしかして毎夜ここにいらしたの?」

「まさか……。あなたはお呼ばれが多いから確実にいらっしゃる夜だけだわ」

 それにしたって、とあきれる私に彼女は微笑む。

「あなたの音が聞きたくて、何とかお呼びしたかったのよ」

 そういって扇で隠すこともなく見つめる瞳は切れ長く、美しいが何かに憑かれたような熱気がある。

「私こそあなたの音を聞いてみたかった。…………あの方に爪をもらわれたそうですね」

 向かい合った女の妖しく潤んだ瞳の熱が焔に変わったような気がした。


「…………ええ。確かに」

 私の瞳にも焔が燃え移る。あの弘徽殿が爪を与えた女が目の前にいる。今、いったいどれほどの技量なのか。知りたい。音が聞きたい。

 女は指先で和琴を示した。

「本当は筝の方が得意なのですが女房の助けもなく抱えてくるのは大変だったので」

 さすがにちょっとぎょっとする。

「たった一人で夜毎いらしたのですか」

「いいえ、女童を一人つれてきました」

 気づく遠くの方に十に満たない年頃の少女が座っている。体温をまるで感じさせない冷ややかな顔立ちで、女と同じように寒気がするほど白い。


「…………お聞かせ願えますか」

 女は首を横に振った。黒髪が揺れる。

「ごめんなさい。ここではわずかな音しか流せなくって」

 確かに横の麗景殿まで響くかもしれないし、貞観殿にも気づかれるかもしれない。

「それでは昼間尋ねましょう」

「他の方々の手前、それも無理です」

 私と付き合えば他者に省かれる。だけどどうしてもこの人の音が聞きたい。

「手はあります。が、かなりの覚悟がいります」

 見つめるとまた薄く笑った。

仁寿殿(じじゅうでん)の塗籠ならば音は響きません」

 あまりの大胆さに声をなくした。

 そこは昔の帝が暮らした場で、今も承香殿の南にある。だが大きなイベントの時ぐらいしか使われずいつも人がいない。軒先ほどの背の高さの怪しの者が夜にそこの東に立つなどの噂で、男でさえ暗くなってからは近づかない場所だ。


 二人の間に長い沈黙が訪れる。けれど女はやがて口を開いた。

「怖いのですか」

「ええ」

「私もです」

 その更衣はなまめかしい体を少ししならせた。握っている鈴がわずかに鳴る。

「だけど音のためなら鬼に食われても本望です」

 女の瞳に燃えるのは鬼火。青い焔。気味が悪いほど底光りする。

 唇をかんだ。女房たちが心配する。体調も崩すかもしれない。万が一あいつに知られたら心労で寝込ませちまう。

 なのに、どうして私の焔も燃えさかるのだろう。


「父の手の者を使って昼のうちに楽器を運ばせておくことはできます」

「あなたはいったい……」

 魔物のように女は微笑んだ。

「私は……弘徽殿の女御さまの弟子です」

 心は決まった。


 三日後は弘徽殿の入内記念日だ。毎年その日は必ず彼女が呼ばれる。だからこの日の夜に決めた。

「本当に楽しみですわ」

 主人と共にその女童が初めて赤い唇を歪ませてにんまりと笑った。


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