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源氏物語:零  作者: Salt
第三章
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先祖

弘徽殿視点

 結局おいさめすることが出来ぬまま盛大な袴着(はかまぎ)が終わった。胸が痛かった。

 お止めすることができればと儀に至るしばらく前に息子を呼び主上にも目合わせさせたが、重々しく扱っては下さった。”(おおやけ)”の長子として堅苦しいほどに。


「人の上に立つ者として心して学ぶように」

「はい。あの、お父さま」

「訓辞を受けている最中に親しげに話しかけてはいけない。君は態度がものやわらかにすぎて、下手をすれば下の者に侮られかねない。もう少し威儀を身につけるように」

「…………はい」


 主上によく似た息子の瞳は伏せられた。まだ小さな体がよりいっそう細く見える。震えたりはしていないが不安そうに身をすくめている。

 昨夜は違った。明日はお父さまにお会いできると、大人しい子なのに珍しくはしゃいで駆け回ったりしていた。

 主上は普段お会いする時よりも厳しい面持ちで、苦手な生き物を見るような視線をわが子に向けている。()御座(おまし)がいつもより暗い。


「学問に完璧に精通しなさいとは言いません。私とて君の母上と比べるとだいぶ劣ります。けれど未熟すぎてもいけません。何も努力せずともその年頃とは思えぬほど成果を出す者もいますが、君はそうではないらしい。よく努めるように」

「…………はい」

「それでは、下がってよろしい」


 息子は驚いてその父を見返した。彼は苛立ったように顎の先をわずかに動かした。息子は頭を下げその場を辞した。

 私は下がらなかった。彼は困ったようにこちらを見た。


「久しぶりに会った息子にずいぶんと冷たい対応ですね」

「…………ごめんなさい」


 いつもの、優しげな彼に戻っている。彼はまるで先ほどの息子のように目を伏せて身をすくめた。


「立派な人になってほしいと思っているんです」

「それに異存はありません。ですが」


 あの者の息と比べてずいぶんと冷たい。そういいかけて言葉を飲み込んだ。


「幼い者に対するにしては厳しすぎるお言葉だと思います」

「自覚の必要な立場だと思って焦りすぎたかもしれません」


 全身に打たれた犬のような気配が漂っている。傷つけられたのはこちらのはずなのに、主上自身のほうが痛みを感じているようだ。


「子供に対してはいつもあのような態度をお取りになるのですか」

「…………弘徽殿(こきでん)さん」


 彼の目は潤み始めている。驚いて見つめ返すと私の手の上に自分の手を重ねた。


「…………違うんです」


 何が違うというのだろう。気に障りつつ離そうとしたがその手は温かくて振りほどくことができなかった。

 苦いものを口に含んでいるみたいだ。私はそれを吐き出すことも飲み込むこともできない。苦いと思いながらそのままにしている。主上もそれ以上は何もいえず、目元を潤ませたまま私の手を握っていた。



 弘徽殿に戻るとあまり間をおかずに別の部屋の女から訪問の伺いがあった。うなずくとすぐに現れた。あの、やせた更衣(こうい)だ。


「身近におつかえする人がお留守だと聞いて女房代わりにしていただこうと押しかけましたわ」

殊勝(しゅしょう)なことを。確かに女房の一人が下がっていますが何のつもりです?」


 乳母子(めのとご)(けが)れに触れたとかで身を清めに行っている。獣の屍骸にでも出くわしたのだろう。

 更衣は口もとをほころばせた。


「あら、ばれてしまいました」

「ふむ?」

「今度は女御さまのほかの楽の技を盗もうときましたのよ。家に伝わる琵琶(びわ)を持ってまいりました」


 女童が織物の袋に入れられた楽器を取り出す。螺鈿(らでん)で飾られた美しい品だ。


「献上するつもりはありませんのよ。右大臣家と違って品のいいものはこれだけですから」


 女は楽しそうに琵琶を抱えた。


「さんざん練習してきましたの。それでも女御さまに近づけたとは思えませんので失礼して先に奏かせていただきます。そのあとぜひ一曲お願い致します」

「うむ」


 女房たちの一部は眉をひそめていたが私は了承した。

 あの憐れな女が歯を食いしばりおのれを鍛えて更に教えを請おうというのだ。応えてやらぬわけにはいくまい。


 さすがに女はよくさらった音を聞かせた。一節一節がよく磨いてあるし楽しんでもいる。されど凡庸。楽器は変わっても相変らず技巧が上手くなじんでいない。


「いかがですか」


 それでも評価できるとしたら、それはこの私の前でもめげない覇気だ。弱小の国を守るために打って出た若武者の気概がある。


「まあ、あなたにしては悪くありません」

「女御さま」


 女はずい、と几帳(きちょう)に寄った。


「身分ではなく立場でもなく楽の教えを請う者としてお願いします。言葉の飾りは一切不要です」


 布が切れそうなほど真剣だ。私はうなずいた。


「そうですか。ならば正直に言いましょう。…………食いたりぬわ!!」


 声の勢いに押されて転げそうになった女が(しとね)(平安座布団)の端をつかんで踏みとどまる。


「なぜですかっ!」とこちらも叫ぶように尋ねる。私はどなり返す。


「魂の火が足りんッ!!」


 間の几帳が吹っ飛んだ。私たちは直に顔を合わせてにらみ合う。


「燃えておりますっ!!」

「おまえはもともとキャパシティが少ないっ。しかし今回の不足はそれだけではないッ。もっとだっ、もっと燃やせっ。そのささやかな容量であってももっと熱い(ほのお)はできるッ」


 女も強く答えた。


「応っ! わが魂の奥底まで燃やし尽くしてみせましょう!」

「その意気やよしッ! (ばち)を取れ! 鬼神を招いて踊らせるほどに奏でよ!」

「押忍っ! 先輩の名に恥じないように頑張りますッ!」

「技巧などいらぬ! 基本に戻れ! それが一番の王道だっ!」


 飾りを全て捨てて響かせた撥音は、特に返しの時が澄み渡ってささやかながらも魅力ある音だった。大きな器は望めぬが、小作りな中にも繊細な焔が蒼くきらめく。それは霧の中、あるいは水底めいた気配を漂わさせる焔だった。


「……よろしい。次は私の番ですね」


 彼女の琵琶を受け取りかき鳴らす。先ほどの水を思わせる音を意識して奏でる。しかし私はしっとりと衣を濡らす霧の気配より、豊かに流れる水のほうが好みだ。

 今回は海よりも川を選んでみた。うら寂れた山里の地に激しい水音をたてて流れ行く川。魚を捕るために仕掛けられた網代が更に波音を響かせる。ひなびた景色の中、そこだけが激しく動いている。

 川の響きは時には女のむせび泣く声のように、時には強大な獣のうなりのように緩急の差を際立たせて遠くまで流れゆく。

 川風は荒く吹き月が霧の狭間に浮かぶ。木の葉がそこにはらはらと散りかう。晩秋の山里だ。


 そこに女の影がくっきりと二つ現れる。年若い方はおっとりと可憐な女。もう一人はかそけき風情ではあるが知性の高い顔つきをしている。どちらも申し分なく美しい。


 既視感(デジャブ)。女たちは線が細く上品な様子でその面影は誰かに似ている。


「誰なの、あなたたちは!」


 前に控えた更衣が叫ぶ。同じ幻を見ているらしい。

 女たちは応えず年若い方が撥を握って月を見上げている。年上の女は筝の琴にもたれかかりもう一人に笑顔を向ける。


――――姉妹か


 やわらかな表情が互いの信頼を語っている。

 しかし、けざやかに見えたのはほんのひと時ですぐに霧が立ちこめて女たちの姿は消えた。

 風が霧を晴らす。しっとりとした苔の匂い。けれど川沿いのその地はすでに消え、わが弘徽殿の広々とした母屋が広がるばかりである。

 もちろん今は夜ではなく月も空にはない。低く垂れそうな雲が覆っているだけだ。


「…………今のは?」


 尋ねる女に目をやって、抱えていた琵琶を下ろした。

 すかさず使い立てる女童(めのわらわ)がそれを受け、うやうやしく織物の中に戻した。


「音の遊びの最中に異界が招かれることはたまにあります」

「私は初めてです。まるで目の前にいるかのように女たちが現れて……」

「ただの夢です……いや」


 私は更衣の顔を眺めた。


「あの女たちはあなたによく似ている」


 彼女が顔色を変えた。思いあたることがあったのでそのまま続けた。


「思うに、あれはあなたのご先祖さまです」


 女はきょとんとした顔でこちらを見た。


「ご先祖……さま? いえ、あのような姉妹がいたと聞いたことはありません」

「そりゃそうでしょう。どんなに若く美しい娘であっても年を重ねれば変わるもの。きっと昔の美しさなど忘れられてしまったのでしょう」

「はあ……でもあのようにうら寂しい川沿いの地に住んでいたとは聞いたことがないのですが」


 論理的な私はすぐに理由を推理する。


「あそこはきっと別荘です。ちらりと見えた竹の透垣(すいがい)がひなびた趣をかもし出していました。川沿いの霧深き別荘地といえば……たぶん宇治。メジャーなリゾート地ではないですか」


 わが右大臣家の別荘もある。避暑地としても風雅なアウトドアを楽しむにしても人気の地だ。確かにうら寂しい場所ではあるが、雰囲気に合わせた別荘は多い。


「いえわが里はまだ、所有しておりません」


 少し恥ずかしそうに彼女が答える。


「遠いご先祖かもしれませんね。よく拝んでおきなさい。どうも楽を好んでいらしているようで心強いではありませんか」

「はあ……」


 釈然としない面持ちで彼女は首をかしげている。励ましてやった。


「あなたなどまだいい。私も縁のあるものの姿を見たいと望んだことはあるが、招かれた者は猫でした」

「猫……ですか」

「そうです。わさわさいました。私は獣にはまったく興味を持てないので困りました」


 一匹は特に愛らしい唐猫だったし何か血筋の者に縁があるようだったがただ困惑した。


「人であるだけましです。しかも美しく雅やかな女たちではありませんか」

「はあ……」


 更衣はなんとか気を取り直そうとしていた。私は充分に恩恵を与えたことに満足して穏やかにそれを見守った。



 二の宮の儀は盛大に執り行なわれた。胸が痛かった。

 それでも取り乱さずにいられたのは楽の音のおかげだ。

 ここは清涼殿(せいりょうでん)に程近い殿舎なので通常程度なら気づかないがことさら音を響かせた時は聞こえてくる。

 耳を澄ますと懐かしい音にまた出会えた。玄奘(げんじょう)が、牧馬が陽気に音を奏でている。宇陀(うだ)の法師が伶人(れいじん)(楽人)の手によって冴えた音を聞かせていた。

 私は目を閉じてその音を聞いた。幻は訪れなかったがほんの少し昔を思い出した。

 楽の音は素晴らしい。辛い時も嬉しい時も心を動かす。私は目をとじたまま調べに乗って、遠い地のことを考えていた。



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