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源氏物語:零  作者: Salt
第三章
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後涼殿

桐壺視点

 その日は雪は降らなかった。かわりにみぞれまじりの冷たい雨が降った。

 通り道にあたるところは全てしんとしていた。いつもなら悪意あるささやきがこれ見よがしに交わされるのに、人々は全て沈黙を守っていた。

 無関心なのではない。それははらんだように弧を描く御簾(みす)の様子でわかる。女たちは身を乗り出して私の方をうかがっている。


 鏡のように磨かれた床に映る黒い影が物の怪のように揺れる。

 雨よりも冷たい人の視線が刃のようにこの身を切り裂く。一足ごとに憎しみが絡みつく。

 プレッシャーパネエ。しかしそれだけなら耐えられた。


 とある部屋の前に通りかかった時のことだ。初めて人の声がした。

 高く細く途切れぬ泣き声。そしてそれを慰める声。


「…………もうお泣きにならないで。私まで涙が止まりませんわ」

「だって、あまりに理不尽で辛くって……」


 油断した。例の更衣(こうい)の新たな部屋の前は避けたのだが、彼女は別の女の元を訪れていたのだ。

 太った更衣は恨みをつづる。もう一人は優しくなだめる。

 足を止めたい。止めて平伏して謝りたい。

 けれど私はそうすべきではない。

 もう充分に謝罪したのだ。受け入れてはもらえなかったけれど。


 前回呼ばれた後すぐに太った更衣の元を訪れた。もちろん頭を下げて謝ったけれどすぐに上げさせられた。


「勘違いしないでくださいな。主上直接のお言葉ですので従っただけですので」


 憎々しげに言われることは仕方がない。


「主上のお気に入りの方に頭など下げさせたりしたら私が怒られてしまいます。あなたはこれ以上主上の気持ちを私から離したいのですか」

「いいえ、とんでもありません。謝罪の心をなんとかお伝えしたくって」


 その女の目が据わった。


「つまり、自分のお心をなだめるためにいらっしゃったというわけね。けっこうです。もう二度と私の前にその顔を見せないで!」


 それ以上は一言も語らずに奥に行ってしまい、私は彼女の女房に戻るように促された・


 身の内がきりきりと痛む。この泣き声は自分が贖ったものなのだ。

 それでも足を速めることはできない。帝の妃が見苦しく足早に場を去ることはふさわしくないのだ。


「あなたが泣くのをおやめになるのなら、私は何でも致しますわ」

「本当? それなら筝を弾いてくださる? 弘徽殿(こきでん)女御(にょうご)さまのあの爪で」


 わずかに足元が乱れた。

 あの狷介(けんかい)な女が人に物を与えただと? しかも楽に関わる品を。

 泣いていたほうが太った更衣なのはわかるが、誰だこいつ?

 あいつが爪を与えるほどの腕の女がいたっけ?


 互いの口調から察するに同等の者、とすると更衣だ。いつぞやいやげ物を持ってきた女とは声も口調も違う。とすると…………あの痩せた更衣か。

 あの女はそれほどの腕だったか? 実際、前回手ひどく失敗したし。


 しかし、人は変わる。不自然とはいえ高度な技術を身に付けることの出来た女だ。ほんの一押しで別次元の音にたどり着くこともあるかもしれない。

 聞きたい。その音を。どんな響きなのか。どう変わったのか。


「ええ、お弾きしますわ。後でゆっくりと」

「嬉しい。あなたは最もよき友だわ」


 え―と、あの二人は仲悪かったんじゃなかったけ? そのことさえ変わったのか。だけどそこはどうでもいい。音を。音を聞かせてくれ。


 渇望で身もだえしながらそれでも平然と前を過ぎ去る。

 今回は何も仕掛けられていなかったが、その道のりは地獄のように長かった。



「気に入ってくれました?」


 後涼殿(こうろうでん)を経由してあいつのもとへ行くと期待に満ちた眼差しで尋ねられた。


「…………場所は悪くなかった」

「でしょ。あそこなら落ち着けると思ったんです」


 嬉しそうな彼の心に影は射さない。その方がいい。

 おまえはそのままでいてくれ。人の心の裏なんか見なくていい。

 暗い部分は全て私が背負うから、おまえは笑っていてくれ。

 いつものようにその無邪気な瞳で。


「……更衣さん?」

「好きだよ、帝」


 とびっきり嬉しそうに輝く瞳。ああ、もうこれだけでいい。他に何もいらない。どんなものより大事な宝だ。

 そう思える相手に出会えただけで浮世に生まれた価値がある。

 だいたい、惚れた男の笑顔を守るのは女の甲斐性だ。少々辛くても仕方がない。



 朝方まだ辺りが青い闇に包まれている時分に、後涼殿の与えらた場所に戻った。

 少し眠って目覚めるとみんなが困った様子で顔を見合わせている。


「どうした? 何かあったのか」


 尋ねて首をひとめぐりさせる間もなく理由がわかった。


「…………なるほど」


 後涼殿はほぼ納殿(おさめどの)御厨子所みずしどころでできている。そして南廂(みなみびさし)御膳宿(おものやどり)だ。

 納殿はまあ宝物倉だが、御厨子所は帝の召し上がるものを調理するところで御膳宿はできた品を置くところだ。

 つまり…………


「ここにいると異常に腹が減るでやんすよ」


 今も食い物のにおいが漂っている。


「そういえばここに住んでいた人はえらくふくよかだったな」

「ああ。明らかに望ましい範囲を超えていた」


 みんなの肩が震えだす。このままじゃ帰り道やらかしちまう。

 私はわざと小声で言った。


「せっかく悲劇のヒロインのつもりだったのに、なんだよこの間抜けな状況!」


 全員が身もだえしたり床をひっかいたりしている。耐え切れずに扇を開いてぜえぜえ言っているやつもいる。


「…………お方さまの鬼畜っ」

「ここで笑い声なんか立てようものならエラいことに」

「いや帰りに噴き出すよりかはましか」

「おい、もっと寄れ。身を寄せ合って泣いているように見せかけるんだ」

「万が一垣間見られてもそれだったらなんとか」

「ちょうどいい、涙が出てきた」

「あっしゃあ鼻水が……」

「腹は減るし腹の皮はよじれるしなんてとこだよ、ここ」


 人は哀しみだけでは生きていけない。悲劇だって視点を変えれば滑稽譚(こっけいたん)だ。

 私たちは声を押し殺して笑い、袖で涙を拭きあった。


「じゃあ行くか」


 すました顔で立ち上がり、長く辛い廊を渡る。痩せた女の部屋の前も通ったが、音一つしなかった。



 早咲きの桜を求めてもまだどこにも見かけない頃だったのにあいつはどうにか珍しいそれを見つけさせた。


「ニの宮のためにどうしても飾ってあげたくて」

「梅の花なら遅いのが残っているじゃないか」

「いえ、桜の方がふさわしい気がして。だってこの花が咲くのは光が満ち溢れ始める頃でしょう。この特別可愛くて優れた子の門出を祝うためには、その季節を思わせる特別な花が必要ですよ」

「…………親馬鹿だな」


 でも嬉しくて、微笑みつつ花を眺めた。



 袴着(はかまぎ)内蔵寮(くらづかさ)や納殿の品を使って盛大に行われた。

 男たちの手で管弦も響いた。あの宇陀の法師や牧馬や玄象の音も聞こえてすごく懐かしかった。例の伶人が人を選んで弾かせたようで、女手とは違う音は晴れの門出を祝うにふさわしい華やかさだった。未練がまた一つ消えた気がする。

 一の宮を越えるほどの儀だったらしくそしる人も多かったようだが、息子自身をけなす人はいなかった。

 

「そりゃあ、容姿といい気立てといいうちの皇子さまに並ぶ者はいねえって」

「こんな方も現れるんだとびっくりでさあー」

「お方様も特別だけれど、彼もまた、特別な存在なのです」

「彼さえいれば、家督も安定して諸事も繁栄するでしょう」

「上出来のこの方を迎えられる家があまたあると思います」


 怨嗟の声もある中でその事実は素直に嬉しかった。

 彼は何があっても大丈夫だ。ずっと見守りたいし傍にいたいがもし私がいなくなったとしても誰もが愛しんでくれる。きっと。


 やがて本格的に桜の季節が来る。日の光もずっと強く人々を照らすはずだ。

 待ち遠しいような不安なような私の心をくすぐるみたいに名残りの淡雪が風に乗って桐壺の(ひさし)にまでたどりつき、ことさらゆっくりと溶けていった。



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