意地
桐壺視点
内裏に戻ってきてしばらくした頃だ。
桐壺で目覚めた私はさすがに呆気にとられた。
いつもなら匂い立つ梅の香に誘われるこの季節、およそ雅とは無縁の別種のにおいがしたわけだ。
ほぼ同時に起きた何人かの女房が首を傾げながら格子を上げに行って、腰を抜かさんばかりに驚いた。
「簀子に、不浄のものが……」
女房たちも固まってしまってしばらく動けなかった。
ようやく、気を取り直したリーダー格が叫んだ。
「ひすまし洗浄部隊、召喚!」
すぐにおばちゃんたちが呼ばれてくる。早朝から申し訳ないが放置もできない。
女房たちはすごい勢いで火取を二階棚からひったくってきて香を焚いた。いつもより量が多いため煙が富士の山を思わせる。
確かに、ケチってる場合じゃあない。
「いったい何者が……」
「どうせ周り中敵だけど、まさかここにまで遠征してくるとは」
「最低だ。最低なんだが……どんだけ主人に忠実なんだよ」
「ひすまし童に運ばせたらどこで口を滑らすかわかったもんじゃない。深夜、一人か二人で慣れない敵地まで筥を抱えてやってきてぶち撒けたな」
「誰かに見られたら人生終わるだろうに」
「たぶん……自分の人生より大事な相手に仕えてんだな」
「敵ながらあっぱれ……とは絶対に言いたくないが」
「だけどあっしでもできるかどうか」
一人が思案顔でつぶやき、それからはっと気づいて慌てて続けた。
「いえ、できます! じゃない、やります!」
「おまえを一人にはしねえ。わたしも行く!」
「てめえらだけに任せられるかい。混ぜろよ、こっちも」
「全員で行くかい」
「いいねぇ。倍プッシュで」
「おうよ。女房の意地を見せてやろうじゃねえか」
「おうっ!!」
「…………盛り上がってるとこ悪いんだが」
苦笑いして口を挟んだ。
「後世、この時代は女御・更衣あまたの者たちがばっちい物をぶち撒きあって争った、などと書き残されたらあいつが気の毒だ。勘弁してくれ」
女房たちは残念そうに矛を収めた。
「あっしの至誠の一心をお見せできると思ったのに」
一人がじれったそうに私を見つめて言うのでそれに応える。
「今更、言葉や行動が必要だと思ってんのか。怒るぜ」
みんなの瞳が輝く。どん底まで共有しあった仲だけが持てる深い連帯感が今朝は特に強く感じられる。
「しかし何にも返さないのはシャクだ。せめてこの怒りを大体こっちだろうと決めた方に向けて放とう」
「わかりやした。一、二の三でいっせいにやりやしょう」
みんなしとやかに扇を閉じ、胸にはさんで用意した。
「一、二の三…………ファ――――っク!!!」
全員がぴたりと南西のほうをむいて中指を立てた。
予想はしていたが嫌がらせが多い。周りの殿舎の方々にシカトされて情報弱者な私たちには正確な理由がわからないが、息子の袴着の件かなとは思う。
こちらの里で地味に準備を進めていたら、あいつが「今回は父である私に全て任せてください!」と主張して話を持っていってしまった。そしてどんな風に行うのかさえ教えてくれない。
「絶対ちゃんとやります。サプライズですよ」と内緒にされてる。
仕方なく右大弁を呼び出したが、なんと帝の女房が見張りについて来た。几帳の向こうから目で謝られたがどうしようもない。
従兄のにーちゃんを呼んだときも同じだった。
「帝は気の遣い方が間違ってると思うんですが」
「言うな。あいつ育ちがよすぎて下々の悪意なんてわからねえんだ」
お召しの後ようよう桐壺に帰り着いて、ほっとした気分で手足を伸ばす。
「お体の調子はどうですか」
心配そうに尋ねられる。
「最近割りにいい。寝込むのが癖になっちまってたからな、動けるのは嬉しい」
まあ、あいつにも会えるし。
「それならいいんですが……少しでも体調が優れないときはお部屋にいてくださいね」
「そうするよ」
長い道のりを歩いていくのは大変だが、一足ごとにあの笑顔が近くなると思えばのりきれる。むしろ帰りのほうがモチベーション維持が大変だ。
「飽きもせずによく嫌がらせを続けますよね」
「いったいどういうヤツなんだろ」
語り合う女房の中で年若い女房が微妙な顔をしているのが見えた。だから人気がないときに呼んでみた。
「今朝の件の心当たりがあるのか」
「ない……とは言えませんね」
促すとちょっと困ったような顔をした。
「なんだ。気の合うヤツなのか?」
彼女は首を横に振りかけ、そのまま止めて考えた。すぐに苦笑いしながら肩をすくめる。
「合うとは言えませんが、気持ちはわかる感じですかね」
「おまえに恨まれていたとは知らなかったよ……うそうそ、冗談だ」
体全体で必死に否定する動きを止める。
「接触のある女房なんだな。どんなヤツだ」
「一見普通なんですがね、やっぱり少し妙な人なんです」
「そうだろうな。そいつがおまえを使って私に直接攻撃をさせないのは、抜けてるのか変わっているのかと不思議に思っていた」
「いえ、その命はあったんです。だけど私は断りました」
「それですんだのか?」
「はあ、それがですね」
私を害することを命じられて彼女は断った。怒るその女に彼女は尋ねた。
『――――仮に、あなたが逆の状況でご主人のことを他にもらすことがあったとして、害することまでできますか』
するとその女房は何があっても主人を裏切ることはないと腕を振り回して憤慨したらしい。なのであなたには負けるかもしれないが、自分も主人への思いはあると告げると、しぶしぶうなずいたそうだ。
「……本当は負けませんよ。むしろわたしの方が強いと思っていますがこの場合は仕方なくそう言いました。相手はなかなかやっかいな方なんですけれど、それ以来手をかけるようには言われませんね」
強者には強者の理があり、弱者には弱者の理がある。それらはけして重なることはないが、それでも時には自分を通して相手の姿を見ることだってある。
その女房はとことん最低で迷惑でうんざりするやつだが、同じ人だと強く感じる。
だからといって親しみを覚えるわけではない。いや覚えたとしても向こうに拒まれるだろうが。
「まあ、おまえの負担がこれ以上のものにならなくてよかったよ。ただでさえ大変な役割を引き受けてくれているんだし」
年若い女房は黙って頭を下げた。
状況はまったく好転しない。嫌がらせは多いし情報を集めることに長けた女房さえ話を集めることが困難だ。それほど反感で他の方々が一つになっている。
どうやらあいつが盛大な袴着を企画しているらしいとは知れたが、帝は様子を教えてくれない。
そんな中、右大弁が動いてくれた。
後宮の女たちに人気がある彼に毎回助けられるとさらに恨みを買うからと伸ばされた手を拒否していたんだが、ついに業を煮やして帝にこっそりちくったらしい。
呼ばれていったら泣かんばかりにすがり寄られた。
「ごめんなさい。ちっとも気づかなくて」
「なんのことだ?」
閉じ込めのことか。まさかばっちい系の話をしてこいつの耳を汚したりしてないだろうな。
「控え室のことですよ。遠慮して使ってないんですって?」
清涼殿には控え室として弘徽殿と藤壷の上局がある。名はそうなっているがお召しがあったときは空いている限りどの人も使っていいことになっている。名目上は。
しかし後宮には言葉にならない暗黙のルールが多い。
まず弘徽殿の上局は彼女以外誰も使わない。そして現在藤壷には人がいないため藤壷の上局は使っていいはずだが、女御以下の者、つまり更衣が使うと陰でねちねちとそしられる。
「遠慮ってわけじゃあねえ。他の更衣も同じだよ」
多分右大弁は上局もないので大変だ、とかぼかした言い方をしたんだろう。普通なら、それでむやみに呼ぶなという意図を汲み取るんだが。
「他の方はともかくとして更衣さんが苦労するのはガマンできません。それで私は考えました」
「ほう」
「この清涼殿に桐壺の更衣さん専用スペースを作ろうと」
「嬉しいが場所がないだろう」
「なければ作ればいいと思ったんです。で、作りました」
目を輝かせて更ににじり寄る帝は子供みたいだ。
私は軽い気持ちで尋ねた。
「へえ、どこに」
「後涼殿です!」
しばらく考えた。あそこは御厨子所と納殿が主体で、今はその一部に太目の更衣が住んでいる。
「……え? あそこにあれ以上場所は作れんだろう」
「後涼殿の更衣さんにどいてもらいました!」
一瞬脳内が真っ白になって何も考えられなかった。
「………………ぐわはあっ」
「そんなに感動されると照れちゃいます」
にこにこと帝は勘違いをしている。こっちは血を吐きそうな気分で突っ込みを入れた。
「後涼殿の更衣が気の毒すぎるだろっ」
「大丈夫ですよ。人は正直にまっすぐ気持ちをぶつけると必ず応えてくれます。あちらの方に『ここを桐壺の更衣さんの上局にしたいので場所を移ってください』とお願いしたら『帝のお役に立てるのなら喜んで』と快く譲ってくれました。次にお呼びする時には使えますよ」
空気が読めないにも程があるっ。いや帝から直接言われたらどんなに理不尽でも断れんだろう! 泣きたくても叫びたくてもそんな様は出せんっ。それが帝の妃の意地だっ。
しかもなんと言うどストレートな依頼だ。もう少し言葉のつくろいようがあるだろっ。
こっちも怒鳴りたくなったが、得意気に微笑んでいるこいつは絶妙に可愛い! バカだけどっ!!!
それに今更遅い。
どんなに心を尽くして太目の更衣に謝り、どうにか場所を返そうとしたとしても受けるわけがない。
あまり人柄のいい女ではない。意地を見せて帝の前では取り繕ったようだが、これから先の毎日は今まで以上に大変なことのなりそうだ。ほんと、どこまでハードル上がるんだっ。
「……中指立てるだけですましてくれたりはしませんよね」
「せんだろうなあ……やれやれ」
扇をかざして長く冷たく暗い廊を渡りながらわれわれは嘆息した。今宵もまた、どこかに難所が設けられているに違いない。
春の淡雪がはかなく舞い散る。それでも根雪はまだ、溶けそうにもなかった。