水底
弘徽殿視点
積もった雪を見ていたときに大きなくしゃみが出て、たまたま近寄ろうとしていた乳母子がこけた。
巻き込まれて別の女房が倒れる。その手があたって女童がつんのめる。前にいた子が突き飛ばされ、倒れまいとして近くにいた女房の衣を掴む。
驚いた彼女がよろめいて、持っていた半挿(水差し)を振り回した。
「も、申し訳ありません」
頭から湯を浴びた私は無言でうなずいた。
慌てて衣を抱えてくるもの、手巾で顔や髪を拭いてくれる者などあたりの空気が急に動く。
故意の行動ではないので不愉快ではあるが苦情は言わない。直接湯をかけたものがとことん恐縮している。
「お風邪を召したのではありませんか。それなのにこんな目にあわせてしまって」
なぜか乳母子がまるで侮辱を受けたかのように眉を吊り上げた。
「女御さまは幼い時分より風邪などひかれたことはありません!」
「え、そうなのですか」
着替えも終わったことだし鷹揚にうなずく。他の女房たちもどよめいた。
当然のことだ。この私を誰だと思っている。
「日頃から鍛錬すれば健康を守ることなど容易いことです」
「……どのように鍛えていらっしゃるのでしょうか」
謙虚に教えを請おうとする姿勢はなかなか悪くない。
従者の指導は主人の務めだ。
「たとえば、これは私の編み出したものですが御帳台で夜着に着替える際、紅絹で体を十分に摩擦します。皮膚が鍛えられてなかなかよろしい。また、仰向けに寝そべったまま足を誰かに押さえさせて体を起こすことを繰り返します。腹ばいになり腕を床について上半身を持ち上げることもいいことです。このような生活は足腰が鈍りますから榻(牛車の乗り降りに使う台)などを階のように使って上り下りを繰り返して力を養います」
みな感心して聞いている。
「継続は力なりです。続けることが大切です。他、むやみに火桶に火を熾しすぎない、冬でも清らかな外の気を取り入れることなど様々な方法があります。要は自分の体を甘やかしすぎないことです」
「塗籠にいつも榻が置いてあるのを不思議に思っていましたがそのようなわけがあったのですね」
「そうです。有意義なことではありますが人目に付くのはさすがに困るのでそこでやっています。空いているときは使用してもよろしい」
恩恵を示したのだがあまり感謝はされなかった。
このように健康には気をつけているのでくしゃみさえも珍しい。何者かがどこかでわが才や美貌を語っているのかも知れぬ。冬場は程々にしていただきたい。女房たちを心配させる。
彼女たちが気遣うように、私にもただ一人気を配る方がいる。そのことを思うとため息をつきたくなってしまう。
このところ主上はあまり食がお進みにならないようだ。
大床子の御膳などもお取りにはなるが量が減っていらっしゃるらしい。嘆かわしいことである。
そのためか頬の線がいくらか鋭くなられた。態度も以前より大人びて、直接向けられた心配にはきちんと対応している。
各部屋で勧められた菓子などもある程度は召し上がる。
「女御さまはお勧めにならないのですか」
「そのようなことに向いた方は他におる」
それより日々の供御(帝のご飯)に気を配ることのほうが大事だ。
もう御厨の者に手配して特に気をつかったものを上納させている。他の方と同じことをする必要はない。
「それにしても主上はどうして……」
言いかけて一人の女房が口をつぐむ。
殿舎の中を冷たい気が抜けていく。
一人の女が均衡を崩し、内裏の安寧を脅かした。
後宮はその自浄能力で女を弾いたが、事態はより悪化した。
主上はどうにかその義務を履行しようとしてはいるが成功しているとはいえない。
こまめに各部屋を廻ってはいるが夜は一人ですごすことが多い。
更衣がいた時は数は少なくともそれぞれにお召しがあった。
彼女が里に帰った当初も変わらなかったが、戻りの遅い今、彼は少しずつ常態を失ってきている。
対処法は簡単だ。更衣を呼び戻せばいい。
だが私の心のうちが納得いかんッ!!
「…………投げます」
宣言すると詰めていた女房たちがさっと脇に避ける。
離れた位置に乳母子ともう一人が控える。
まずは扇を投げ、次に円座を投げてみる。
どちらも見事に受け止められた。
「なかなか鍛えてありますね。次は一気にいきます」
目にも留まらぬ早業で連続して円座を放つ。手首はよくしならせ、一つとして同じ軌跡を描かぬよう心がける。
利き腕以外も使用する。まるで螺旋を描くようにその物体は唸りながら飛んだ。
「お見事!」
「なんという修練の技!」
「女御さまも凄いですけどお二人もいまや達人の域ですわ」
女房たちも感嘆の声を上げた。
いくらかは気が晴れたが茵に戻るとついまた考えてしまう。
主上のために呼び戻すべきなのだろうか。
それともこのまま見守るべきなのだろうか。
まだ他の女たちはこの事態にはっきりとは気づいていない。
もしくはしばらく待てばあきらめて前以上のお召しがあるだろうと期待している。
そうなのかもしれない。
だが少しずつ憔悴していく彼を見ることはなかなかに辛い。
幼さを押し隠して、みなが理想とする振る舞いを仮面のように身につけようとする様は痛々しくさえある。
しかも、夜のお召しがない時点でそれは大いに破綻していることに気づきもしない抜けっぷりがまた、心を痛くする。
彼は寄りかかるものが必要だ。
以前の私は自分こそが最もそれにふさわしいと考えていたし、今もそれを否定できない。
なにせ私は、その美貌、出自、教養、才能において抜きん出た存在だ。
その上父の右大臣は最も有能な臣下であり、理想に傾きがちな彼の政をリアルにあわせて是正することに長けている。
行動力と速度において父を越える公卿などいない。
ベクトルは全て私を指すのに、彼の矢印はあの女に向いている。
夜は更けて、あたりは静まり返った。
名対面の声さえすでに終わり、弓弦の音も聞こえない。
女房たちは全て眠っている。それでも私は考察することを止めることが出来ない。
仮にあの女を呼び戻すとして、後宮の他の女たちの思惑はどうだろう。
それには否定的見解を出さざるを得ない。
彼女たちに理性的な行動は期待できないだろう。
零よりはましな分け前がなくなったとしても、自分の情感を優先すると思う。
わからぬでもない。
帝の訪れはわれわれの存在理由だ。
しかし私たちにはそれぞれ尊厳や誇りがあり、初めより「われは」と自負している。
他の女のおこぼれを貪ることはプライドが許さないわけだ。
序列に従った愛なら別だ。
それがシステムだからと、いくらでも自分に言い訳ができる。
だが明らかに下位の存在に根こそぎ愛情をさらわれて自矜の心が保たれるか。
いっそ全てがないほうが心が楽だと逃げたいかもしれない。
それに、あの女にとってはどうか。
推測でしかないが、他の女御・更衣たちは辛らつに振舞ったと思われる。
体の弱い更衣にとってはそんな生活は耐えがたいだろう。
もちろんそんなことは入内前に想定済みだろうし、あの女は弱者ではない。
むしろ内裏内で最強の女だと断言できるが。
だがもう皇子を得た今、無理に里から戻る必要が…………。
物音がして私は身構えた。
賊かも知れぬ。女房たちが危険に会うかもしれない。
太刀などないので円座を抱えて立ち上がった。
こんなものでも飛ばせば武器とならぬものでもない。
か弱い女の身であれば飛び道具は必須である。
気を引き締めて音のした東の妻戸を細く開ける。
「何者ぞ!」
低く鋭く誰何するが答えがない。
決意してばっ、と戸を開けた。
すかさず円座を投げようと構え、人影を見て驚愕した。
「…………主上」
そこに練絹の夜着だけをまとった彼が闇に溶け込むように佇んでいた。
「いったい、どうなさったのです! お呼び下さればすぐに駆けつけますのに!」
「………………」
見ると主上の足元は襪(足袋みたいなもの。平安靴下)さえはいていず、馬道を裸足で歩いてきたためか赤くなっている。なんという無茶をするのだ。
「…………とても寒いのです」
そりゃそうだろうっ。
「すぐに湯を用意させます!」
彼はふらり、と進み私の肩に手をかけた。
「いいのです。暖めて下さい、弘徽殿さん」
そのまま、強く抱きしめてくる。
「…………とにかく中へ」
いざなうと素直に従う。無防備に横たわる女房を避けながら御帳台まで彼を導き、握り締めていた円座をそこで離した。
すがりつくように抱きつかれた。
彼はずるい。
他の女の面影を胸に、紛らわすために私を抱くのか。
この、内裏一誇り高い弘徽殿の女御を。
憎しみの心が鎌首を持ち上げていくのにそこに情が絡む。
うなじを指先で締め付けたいのに気づけば優しく撫でている。
矛盾だらけの感情の波。
突き放したい憎みたい絞め殺したい愛したい。
気持ちは嵐の海に浮かんだ小舟。
揺れて揺れて揺れてそして呑まれる。
――――それでも、あの女のいないこの後宮で彼が唯一頼ったのは私だ
水底から招く無数の手を、なけなしの理性で突き飛ばす。
光を、日の光を求めて心が焦がれた。
水面はひどく遠かった。