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源氏物語:零  作者: Salt
第三章
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日常

弘徽殿視点

「また里下がり?」

「内裏に戻らなければよかったのに」

「さっさと帰って二度と顔を出さなきゃいいわ」


 廂の女房たちが喧しい。いつになく憤って声が高くなっている。

 無理もない。あの桐壺の更衣が内裏に戻って大した間もないうちに、また里に帰るのだ。その非常識を責めるのは正しい。

 行ったり来たりは人手もいるしそれなりの儀もある。親元に費用的な負担をかけることにもなる。こんな短いスパンで繰り返すことではないのだ。実に非常識だ。


 もしかしたら何か不愉快な目にあったのかもしれない。

 極めて理知的で冷静な私以外の女御・更衣たちはその怒りを隠せていなかった。

 だとしてもそれがなんだと言うのだ。

 内裏は女の戦場だ。自覚のないものは来なければいいのだ。引っ込んでおいて二度と顔を出すな。そうすれば攻撃を受けることもないだろう。


 彼の女がいかなる目にあっているか私は知らない。

 しかししょせん女同士の姑息な争い、立ち向かえないのなら入内などせぬがよい。

 女御・更衣は全て一軍の将だ。闘えぬ将など兵にとっては迷惑の極みだ。


「だとするとわたしたちは最も勇猛な将を頂く最も恵まれた(つわもの)ですね」

 その感慨を述べると近くにいた年若い女房が応えた。なぜだかあまり嬉しくない。

 横にいた乳母子もうなずく。

「ええ。女御さまは他の方々にはない二つ名までありますしね」

「…………聞いたこともありませんが、なんと呼ばれているのですか」

「「とてもかっこいいです」」

 二人が口を揃える。待っていると乳母子が得意そうに告げる。


「”ちはやぶる神の稲妻”と呼ばれています」

「あら、わたしが聞いたものとは違うわ。”天照らす日輪の覇者”でした」

 他の女房たちも集まってきた。

「わたくしの聞いたものは”(たま)光る武勇の誉れ”です」

「”天駆ける金色の獅子”」「”浮き世の中心で愛をわめいた獣”」

「”うちの女御さまがこんなに可愛いわけがない”」

「”私がモテないのはどう考えても桐壺が悪い”」

「”この中に一人弘徽殿がいる”」

「”誰もが恐れるあの弘徽殿さんが、私の専属女御になるようです”」

「”鬼だけど、愛さえあれば関係ないよね”」


 怒鳴ろうと思ったのだがタイミングを逃してしまい、拳を握り締めるだけに留めた。

 実にけしからん。私の偉大さは安易な言葉に閉じ込められる程度のモノではないのだ。


「それはそうと、あの更衣はいつの間にか息を吹き返しましたね」

 乳母子が何気なく口にした。桐壺のことではなく、琴に失敗した痩せた女のことだろう。

 こやつはしばらく里に戻って追ったので、その間の事情は知らぬ。

「周りのものもあれだけの失敗をしたあの女を受け入れているようですし、通りすがった折りに聞きましたが琴の腕もだいぶ上がったようですね」

 応えずにただ秋風の吹く御簾の外に目をやった。



「訪問は今日まででよろしい。明日は私の女房が戻ります」

 薬湯を口にしたあと横に控えていた女は黙って頭を下げた。

「最後ですのであなたの下手くそな琴を聞いてあげましょう。用意をなさい」

 途端に件の更衣は顔色を変えた。


「どうか、それだけはお許しください」

「なりません」

 冷たく突き放した。

「今更何を恥じることがありましょう。これだけ恥を晒したのです。かまわぬではないか」

「いえ、それでも。私は二度と琴など弾けませ……」

「臆病者っ!!」

 几帳が倒れた。


「そこに明確な(きず)があるというのに直そうともせずに逃げるのですか。今! まだその傷の生々しい今でしたら間に合います。たとえどんなにそれが痛んだとしても、あえてその傷を再び裂いて見せる覚悟さえあれば必ず癒せますっ!!」

 時に頼ったってダメだ。女房との合奏などはできるだろうが二度と大がかりな楽の遊びで奏することは出来ないだろう。


「筝を持てっ!!」

 女房に命じると一瞬のうちに用意された。

 更衣は震えている。爪を取ろうともしない。


「すでにその体は癒えた。一生このまま琴に怯えてすごすのですか。楽しみとなるはずの音の響きを忘れ、過去の失敗に捕らわれ、人目を避けてけして目立たずただこの内裏の片隅で暮らすだけなのか」

 痩せた更衣は不思議そうな顔で私を見た。

「音の遊びは楽しいのでしょうか。音をはずしてはならぬと気苦労だけで……」

 私はかっとなった。

「おまえは本当の遊びを知らぬっ」


 この女と遊びを共にしたことは何度かあった。だがそれさえも否定されたわけだ。

 なのに私は爪をはめ、筝を自分の前に運ばせた。


「わが音をその耳でとくと聴け!」


 怒りと裏腹に指先はやわらかく糸に触れる。

 この女は音を楽しいと思ったことがないらしい。

 つまり、生きること自体を楽しめていない。

 そんな女もいよう。だが、生まれてからただの一度も喜びを感じたことがないのだろうか。そんなはずはない。


 稲穂が金色に輝きその重みに頭を垂らしていく。それを風が揺らす。鳥の声。空は青い。

 鳥に身を移して空に駆け上がる。

 冷涼な空気が身を引き締める。人里を離れて山を行く。

 あせない常緑の中に花よりも鮮やかな紅葉が際立つ。

 水の音。風のかけたるしがらみを揺らす川の流れ。


 再び見慣れた場所に戻る。ありふれた邸の一つ。そこにいるのは幼い少女だ。

 乳母の目を盗んで彼女は母屋から逃れ廂をわたり御簾をくぐって孫廂を越える。

 寝殿の(きざはし)を駆け下り、ひんやりとした白砂を踏みしめる。

 その感触が面白くて、再び乳母の捕らわれ人になるまで手や足でかき回して遊ぶ。


 邸の中で育つ少女。時にはかんしゃくをおこし、円座を外に放り投げるありきたりの少女。

 彼女はいつしか御簾内の暮らしに慣れ、走り回る自由を失う。


 代わりに訪れる恋。

 初めは気づかぬほど忍びやかに。

 ほのかな光が胸もとに揺らめきやがて消せない焔となる。


 恋の陶酔、そして喪失。

 無理やり引き裂かれたその想い。

 絶望の中の栄誉。新たに訪れる恋。

 競い合う覇気。そして失敗。


「!」


 女が目を見張った。

 単体で出せる音ではないのでアレンジしてはいるが先日の彼女のミスを取り入れた。

 しかし女が気をめいらせる暇なく音を再び戻し再チャレンジ。

 同じテクを使ってほんの少し響きを変え、曲のよさを際立たせる。

 考える隙を与えずにもう一度別の色味を含み別の魅力を浮き立たせてみる。


 一度や二度の失敗がなんだと言うのだ。

 音は限りなく優しく人を包む。

 本気になって打ち込むのならきっといつかわが身を抱いてくれる。

 …………麗景殿の方においては保障は出来ないが。


 しかしこの更衣の音はもともとそうまずくはなかった。

 本気で打ち込むのならきっと音はそれに答えてくれる。


 また、空に駆け上がる。

 天空から見下ろす大地。廻る四季。積もった雪景色。あたりを霞ませるほど花開いた桜。

 青々と茂る楓の葉。女房を伴って耳をそばだてた時鳥。藤の花。

 満々と水をたたえた池に映る月の影。


 音をやめたとき、女は黙って静かに涙を流していた。


「……楽の音は全てを表します。音のない暮らしなど私には想像もできません」

「はい」

 涙を流しながら女は微笑んだ。


「楽しいことや素晴らしいことも思い出しました。すっかり忘れていた幼い頃のこともです。もちろん辛かったこともこの間の失敗も全てです。ですが、それはなぜかただ苦しいだけではなく、悲しくて切なくて痛くてだけどわずかに甘く胸を打つのです」

 私はうなずいた。

「それが音楽です」

 そして爪を外して彼女に渡した。女童が筝を女の前に運ぶ。

 彼女は私を困ったように見上げた。


「今、凄く琴が弾きたいのです。本当に。ですがこれほどの腕をお持ちの女御さまの前で気後れしているのも事実です」

「馬鹿なことを。音は腕ではない、その心根です」

 真っ向から女の目を見た。

「外してもかまいません。麗景殿の方が失敗しても許されるのは、みなあの人が音を本当に楽しんでいることを知っているからです。あなたもミスに怯えるよりも音を楽しみなさい」

 女は黙ってうなずき、見事に筝を弾きこなした。


「その爪はあなたに差し上げましょう」

「お心遣い、感謝いたします」

 一軍の将に戻ったその更衣は深々と頭を下げた。



「兵車行で女を生むほうがましだと言われてますが女子だってなかなか大変です」

「なんですかそれは」

 前栽から視線を戻してつぶやくと乳母子がきょとんとした顔で尋ねる。

「杜甫の詩です。以前読んでやったことがあるでしょう」

「ああ、わたしは杜甫の詩は聞き流すことにしています」

「?」

「辛気くさいものばかりですから。あいつは杜甫ではなくとほほとつけるべきです」

「詩聖に対して何を言う!」

 文句をつけると頭を下げる。その様を見て、やっと日常が戻ってきたような気がした。


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