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源氏物語:零  作者: Salt
第三章
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月見

帝視点

 今まで見たこともないほど大きな月が真上から私たちを見下ろしている。

 月光で彼女の全身が濡れているみたいだ。

 床になびく髪の先さえ煌めいている。すごく綺麗だ。


「…………昨日一緒に見たかったです」

 思わず愚痴ると更衣さんはいたずらっぽく笑った。

「だって昨日は公式の月見の宴じゃないか」

 不満いっぱいに更衣さんを見つめる。

「だから、さぼるって言ったのに」

「呆れた」

 額を細い指先で、ピン、と弾かれた。

「仕事さぼって女としけこむ帝なんてダメだろ」

「だってそれ、一番の仕事ですよ。あ、私仕事を愛してますからね!」


 彼女は目の端に涙を浮かべるほど笑い、それから優しく私を見つめた。

「んなこたぁわかってる」

「いえ」

 ずずっと近寄って指先を捕まえる。

「ほんとにはわかってませんよ! 私がどんなにあなたが好きなのか」

 涼しくってそれなのに甘美い瞳がわずかに揺れる。潤んだように見える。

 その瞳をうつむけてしばらく黙っていた彼女が何気ない感じで答えた。

「……嬉しいこと言ってくれるじゃあないか」

「本気ですよ」

 必死に言いつのると、いつもは他に配慮しろとかもっと間遠に呼べとか心にもないことを口にする彼女がひどく素直にうなずいた。


 不安になる。

 誰よりもいさぎよくてカッコいい人なのに、体はとても弱い。心根は強いのにその細い体は俗世の穢れに堪えられないようでよく熱を出す。

 私もいけない。

 壊れ物を扱うようにそーっと扱うべきなのに彼女を見ると抑えがきかなくって、自分自身を全力でぶつけてしまう。この人が脆くなった理由の一つは私なんだと思う。

 でも不安になってもやっぱり深く抱きしめてしまう。

 折れそうにきゃしゃな体。愛らしい姿。その心が一番魅力的だけど、顔や体だって私を惹きつけてやまない。


 腕の中の更衣さんは力を抜いて私に身を任せている。

 それがたまらなく嬉しい。

 彼女も私のことを好きでいてくれるのだ。


 私の奥さんたちはどの人もそれぞれに魅力があって美しい人ばかりだけれど、でも彼女たちの内心はわからない。

 それは彼女たちが悪いわけではない。システムの問題だ。みなそれぞれの親のロビイストとして入内している。彼女たちを愛することはその親を目にかけることで、長く続いた効率的な慣習だとわかっているのだけれど本当のところちょっと嫌だった。物語の主人公みたいにあちこちさ迷って自分だけの姫を見つけてみたかった。

 更衣さんにはそんな打算は皆目ない。だって父上が亡くなっていて後見がないのだもの。そんな人は今までいなかったしこれからもいないと思う。

 でもそんな背景など全然関係なく彼女に恋した。


 彼女が私を見出してくれるまでいつも不安だった気がする。

 帝なんていう最高にゴージャスな飾りを取っ払ってしまった素の私は何のとりえもないただの地味で無能な男だ。それぞれいろんな才に恵まれて美しい彼女たちはそんな男には興味を示さないと思う。

 だけど彼女は違った。飾りを外してわあわあ泣いていたみっともない私自身をまっすぐ見つめて、そのまま愛してくれた。

 いまだにその時のことを思い出すと胸が熱くなる。

 更衣さんは強い。あんな情けない男を自分の意志で好きになってくれるほど。

 他の人にそんな強さは望めない…………こともない方もいるかもしれない。


 別の方のことを思い出したまま彼女を抱きしめているのはなんだか嫌で、手を離して酒を飲んだ。

 昨日の宴のために用意したものの残りで、上質な品だ。

 土器(かわらけ)の中に月が宿る。


 弘徽殿さんは私の添い伏しとして選ばれた方だった。

 乳母やそのほかの女房たちが、高貴な姫君に恥をかかせたりしないために手ごろな者とお付き合いをして学んでおくべきだと助言してくれた。でも私はその言葉に従わなかった。

 だって私のためだけの清らかな姫君が来てくれるわけだから、私も清らかでいたかった。

 でもそれは私のあまたの政策と同じく机上の空論で、なんだか思いっきり失敗してしまった。

 落ち込む私にあの人は優しかった。髪をそっと撫でてくれて私の目を覗き込んだ。

「初めてお会いしましたが私はあなたのことが好きです。こんなこと、あろうがなかろうがあなたが好きです」

 そう言ってくれた。


 その時もすごく嬉しかった。

 私はそれからしばらくの間は自信があったような気がする。


 だけど弘徽殿さんはとても頭のいい方だった。

 漢籍も追いつけないほど読んでいて、政も人への指図も抜きん出たものがあった。

 だからすぐに不安になった。あの時ああ言ってくれたのは気を落ち着かせるためで本心じゃないのではないかと。

 不安が心の鬼を生み出した。わざとの様に彼女に逆らう政策を言い出してみたりした。

 彼女は決して怒らなかったが、諄々と私の非を諭した。

 不安は募るばかりだった。



「…………雲が出てきたな」

 更衣さんの声でわれに返り空を見上げた。美しい十六夜の月が薄衣のように黒雲をまとう。それが私自身の心の闇である気がしてぎゅっとこぶしを握った。


 すっ、とやわらかい手がその上に重ねられる。音を巧みに生み出す綺麗な指がやんわりと手の甲をくすぐっている。

 

「琴を弾いていただけますか?」

 尋ねるとうなずいて和琴を選んだ。

「曲は何がいい?」

 ちょっと首を傾ける更衣さんはめちゃめちゃ可愛い。別のことにお誘いしたくなるけど抑えて注文する。

「もちろん想夫恋。あの時は春でしたね」

「音は秋だったってみんなに言われたよ」

「ええ。今夜の月の予告だったのかもしれませんね」


 そういうと首を一つ二つ横に振った。

「いや。あれは別の月だ」

 驚いて尋ねる。

「え、そうなんですか。いつの月ですか」

 憂いを帯びて見える彼女の瞳。

「さあな。いつになるかわからねえよ」


 爪先がひらめいて冴えた音が生み出される。

 秋にふさわしい澄んだ音。

 月にかかった黒雲が静かに遠くに流れていく。

 夜風が音に絡んでいく。


 月と彼女と琴の音色。幸せなはずなのになんだか胸がいっぱいになっている。

 御簾の遠くで呉竹や河竹の揺れる音がした。

 最愛の彼女は傍にいる。いやなことは何一つない。

 なのに琴の音はひどく淋しく夜空に消えていった。

 更衣さんの横顔をただ見守ることしかできなかった。

 彼女を見つめながら、黙って音を聴いていた。


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