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源氏物語:零  作者: Salt
第三章
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闘争魂

麗景殿視点

 後宮は噂で騒然としていた。


「鬼です! 弘徽殿の女御さまは現人鬼(あらひとおに)です!」

「倒れそうなほど弱り果てた更衣を毎日呼びつけています」

「まさに鬼畜、とみなが言っています」


 よろめきながら人手を借りて歩く彼女の姿を私も見かけた。痛々しいほどやつれ果てているのに瞳だけがらんらんと輝く異様な姿だった。

 おいさめするべきかしら、と考えてみたけれど、あの方がただ人をいたぶり辱めるなどとは思えなかった。

 だから黙って見守った。


 その前の口止めに不満のあった人々は、代わりになるこの話に飛びついた。間近であの方にお会いして射すくめられたようになった屈辱のせいでもあると思う。

 弘徽殿の女御さまは恐ろしい御方。誰もがそう語りくだんの更衣に対してはやや同情的な空気が作られた。


 それはとても脆いものだったと思う。誰かのちょっとした言動で右にも左にもすぐに動いてしまうほど。

 針の上にのった薄い紙のような危うい均衡。よろめき歩くその人の姿が見られたのはほんの数日のことだったけれども、くぐもった形でみんなの心に残った。


 そこへ人の心を決定的に動かす一つの事件が起こる。

 いえ、事件と呼ぶには当たり前すぎること。

 つまり桐壷の更衣が内裏に帰還したのだ。


「なぜこんなに早く……」

「もっと間を置けばみなの気持ちも落ち着くでしょうに」

 私の女房たちもささやき合った。

 他の方々やそこに仕える者たちはもっと露骨にその話に喰いついた。それは新たな生餌のようだった。噂をむさぼる獣のような姿がそこかしこで見られた。


 太刀を握った更衣にとっては得なことだった。

 桐壷の人へ向けた悪意の表面を飾るため、その更衣に対する共感という形をとったからだ。

 乾ききらない生木を燃やした時のように、桐壷の人への反感がくすぶっている。

 ただ、それはまた連れてこられた彼女の息子へは向けられなかった。


「本当に天人にさらわれてしまいそうなほどお可愛らしい」

「いえ、天人そのものですわ」

「こちらの方を向いてにっこり笑ったのよ」

「あら、こっちを見たのだと思うわ」


 乳母に付き添われてとことこと歩く姿が様々なところで目撃されたけど、みな相好を崩してした。

 だけどその感情は決してその母への好意を引き出したりはしない。

 むしろ妬みを誘ったかもしれない。


 最初に帝との間に男皇子を設けていたのは弘徽殿の女御さまだったけれど、それはなんだか当然のこととして受け入れられていた。

 けれど桐壷の更衣に対してはそうは思えない。悪い想像だけどもし一の宮さまに何かあって二の宮さまが東宮の地位にたどり着いたとしたら、彼の人は国母となりかねない。私たちよりずっと上の存在になるのだ。


 そうなってしまったとしたら帝の目は決して私たちに向くことはない。

 この推察は確固としていて、あまたいる女御更衣の心をむしばむ。

 私だってたまにダークサイドに堕ちる。

 だけどそこにずっといるのは居心地が悪い。

 闇落ちラストは体質に合わないみたい。



「それにしてもひっきりなしにお召しがありますねえ」

 女房の一人が向こうを通る集団を恨めしそうに眺めた。


「一応気をつかって毎回通る道筋を変えているらしいけれど、こうしょっちゅうじゃ気に障ります」

「なまじそうするからまんべんなく皆が不満を抱いてしまうのですわ」

 あまり派手ではない行列の端を見ながら苦笑いをする。

 

「だけど毎回必ずここを通ったとしたら、さすがにわたくしも切れて校舎裏……じゃなくって物陰に呼び出して文句を言うかもしれませんわ」

「すでにあの方の女房を台盤所に呼び出して苦情を言った方があるみたいですよ」

「でも、必死に謝りながらどうしても帝のお許しが出ないと言われてなおさら腹を立てたとか」

「なに、それ自慢?」

「そのつもりはないでしょうけどいらっときますわね」

「まさにミサワですわ」


 互いに交わす言葉しか気を紛らわせなくって、それなのにその言葉にかえって煽られてちょっと疲れてしまう。

 でも、こんな気分の時は普段は好きな絵や書も心を慰めてくれない。

 結局は耳をそばだてて女房たちの言葉に耳を傾けている。

 そんな日々を過ごしていると状況が少し変わってきた。


「騒ぎを起こした更衣がまた他の方々に受け入れられつつあります」

「いいことだと思うけれど、何かきっかけがあったの?」

「ここには先に来ましたが、他の方々のところへもあいさつに回られたようです」

「みなさまが桐壷の更衣の早い戻りに怒ってらっしゃったのでなんだか自然に受け入れられて」

「それと弘徽殿の方のところへ何日も呼び出されていたこともあって」

「他の女御さまはもちろん、一番怒っていた後涼殿の更衣も床に頭を擦り付けんばかりにされて許さざるを得なかったみたいです」

「あの後から入った更衣など手を握って『一緒に闘いましょうね! あのずうずうしい女と!』とか言ったようですよ」

 好き勝手言ったことなど忘れたみたいに手のひらを返したらしい。

 

「体も心も回復されたようね」

「なんだか肝が据わった感じと言いましょうか」

「どん底まで落ちた女の凄味でしょうか」

「わたしはむしろ桐壷の更衣よりあの方の方が危険な気がしているのですけれど」

 一人が不安そうに私を見た。


「もともとあの方は決して悪い方ではなかったのですが、お父上はすさまじいまでのやり手でいらしゃるからその血を継いでいると思うとなんだか胸が騒ぐのですよ」

「桐壷の方への過剰なまでの対応は確かに気を苛立たせますが、あの方は後ろ身のない方ですから」

「もしもの話ですけれど、あちらの更衣が寵愛されて皇子をお生みになったとしたら桐壷の方よりももっとやっかいなことになりませんか」


 女房たちの心配を杞憂と笑い飛ばせる自信は私にはなかった。

 帝の愛は偏ることもあるとすでにあの方が身をもって示してしまっていたから。

 そしてその相手も変わる可能性さえあると思うとなんだか寒気がした。


「……ファイテングスピリットを奮い立たせるべきなんでしょうけれどね」

「女御さまがそう決めたのならもちろんわたくしたちもついていきますけど……」


「想像もつきませんね」

「取っ組み合う桐壷と弘徽殿の方と割り込んでいくあの更衣」

「そこにうちの女御さまがいきなり参戦」

「弘徽殿の女御さまに『邪魔!』と蹴り飛ばされかねません」

「気がついたらわれもわれもと他の方々が加わっていて……」

「そうして帝を賭けた内裏バトルロワイアル」

「それなら勝利者は弘徽殿の方に決まっていますわ」

「いえ。人々が倒れ伏す大地に最後まで雄々しくそそり立つのは確かにあの方だと思いますけれど……」

「でも最後の最後まで闘ったあの方が凄まじいまでの笑いを浮かべてふり向くと……」

「……源典侍が隙をみて帝をさらって逃げているような気がします」


 みんなおかしくて身を折って笑ってしまう。

 ほんと、笑い事じゃないのはわかっているけれどちょっと笑うしかない。

 胸の不安を打ち払う。

 笑えるうちはまだ大丈夫。

 私は自分を励まして、心優しき戦友たちに共感の視線をあてた。

 みんなも同じ思いでにっこりと見つめ返してくれた。

 

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