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源氏物語:零  作者: Salt
第三章
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消閑

弘徽殿視点

 例の夜の後に(みかど)からのお召しもあった。

 私は私の綺羅(きら)たる暮らしに戻る。ゴミクズの一つなどさして重要ではないのだ。

 ほんのちょっと気が滅入って愚かなことを考えた時もあったが、なに、単なる気の迷いだ。

 あまりにも偉大な存在である自分自身の重さに疲れていただけだ。


 そう。私は後宮の頂に輝く星のような女。唯一無二の絶対的な勝利者。覇者として生まれ、覇者として在り、覇者として死すべき宿命(さだめ)を背負った女。


 迷いを振り捨てて手習いに励む。会心の出来である。


「…………あの、女御(にょうご)さま」

「はい」

「お書きになられた“東西南北中央不敗”とはどういう意味でしょう」

「そのままの意味です」


 首を傾げる女房とは別の者が、鮮やかな色の(うちき)を抱えて近寄ってきた。


「新しい小袿(こうちき)が届きました」


 わが心の(うち)が燃え移ったかのような真紅である。紋もくっきりと浮き出ている。


「きっとお似合いになりますわ」

「今度のものは特に上手く染まったようですわね」


 他の者も集まって鑑賞している。


「この間あの更衣(こうい)に与えたものよりも色合いがいいですわ」


 衣架(いか)に掛けると室内が華やかになった。次のお召しの時までしまわずにここに置こうと思う。


「そう言えば、その者はどうしている」


 一人が答える。


格子(こうし)も上げずに昼夜閉じこもっているようですわ。身内の者にも知らせぬためつまらない品で申し訳ないとささやかな礼を届けてきましたが、女御さまのお目にさらすほどのものではなかったためそのまま持たせて返しました」


 別の者が更に告げる。


「果物さえ咽喉を通らないようで、いっそうやつれたとか」

「時たま死人のように眠るけれども、ふいに夜中に目覚めて泣き濡れているとか」

「このままでは、長くはないでしょう」


 太刀(たち)を握り締めた女の叫びを思い出して嫌な気分になる。

 やつれ果てた女の顔に死相が浮かぶさまが脳裏に描かれる。不快になって筆を置くと、彼女たちがすぐに片づけた。


 琴をさらう気にも漢籍(かんせき)に目を通す気分にもなれず、しばし考える。

 太陽はだいぶ南に寄り、しばらく後には中天に輝きわたるであろう。


 視線を一人に向けると、すぐにいざり寄ってきた。


「例の更衣をここに呼びなさい」


 その女房は驚いた顔をしたが、すぐにもう一人を伴って部屋から出て行った。


 前栽(せんざい)(植え込み)に咲く白萩や青い実をたわわにつけた柿の木を眺めていると、その二人が年かさの女を伴って戻ってきた。

 彼女は平伏し謝罪の言葉を述べる。くだんの更衣の乳母(めのと)らしい。


「……先日より大そう心身の様相が芳しくなく、大恩ある女御さまには申し訳のないことではありますが、どうかご辞退させていただきたいと…………」 

「わかりました」


 応えるといくらか顔が緩むが、続く私の言葉を聞いて真っ青になった。


「それでは見舞いに行きます。女房を全て連れて」

「めっそうもない! 高貴なお方自ら足をお運びになるなど恐れ多くて……」


 視線を外さずに続ける。


「かまいません。乗りかかった船です。…………ところで今女房はどれほどの数がいますか」


 かしこまった一人が答える。


「里に戻っている者を除いて四十人ほどかと」

「そうですか。その者たち全てを連れてそなたの主人を訪れましょう」

「いえ……そんな…………」


 乳母は腰を抜かしそうになっている。


「それでは敬意を表して充分に装いますわ」


 身近にいた女房がうっすらと微笑む。なかなか勘の良い女だ。


「訪問となりますと相応の装束(しょうぞく)でお伺いすることになります」


 乳母は視線を巡らせた。ここに詰めている女たちは圧倒的にきらびやかな衣装を身につけている。そしてそれはただの普段着にすぎない。

 確実に、その更衣は私の女房の端くれよりも見劣りがする。


 なんとか逃れようと視線をさ迷わせたその女は、衣架に掛けられていた小袿に目を止めた。

 ひときわ目を引く紅の色。彼女は大きく息を吸い込む。そこへ先ほどの女房が優しく声をかけた。


「こちらにおいでになられた方がよろしいかと思いますよ」

「わたくしどもが手をお貸ししますわ」


 ようやく理解したらしい別の者が加わる。

 乳母はしばらく逃げ道を探したが私はそれを許さない。

 ついに、先ほどの女房たちに付き添われて重い足取りで戻っていった。


「……少し抑えた衣装を」

「わかりました」


 女房たちも露骨にならないほどに地味なものに着替え、掛けられていた小袿は御衣櫃(みぞびつ)にしまわれた。



 やがて幽鬼のような女が皆に支えられながら、ようよう姿を現した。

 私は彼女を目の前の茵に座らせた。


「先日は大変にご迷惑を…………」

()びの言葉など不要。大きな騒ぎを起こした女がどのような顔で生きているか見てみたいと思ったまで」


 女は唇をかみしめてうつむく。彼女の配下の者がきっ、とこちらを睨んだがむろん言葉を発することなどできない。


「なるほど。実に見苦しい。もとはそう悪くもないのに衰えたものだな。安堵(あんど)した。このような姿の女に主上は見向きもせぬであろう。安心しろ、他の女御や更衣たちはそなたに優しく接するはずだ。もはや競い合う相手とは思えぬから」


 女がわずかに顔を上げる。薄く笑ってそれを見返す。


「しかしせっかくご足労願ったわけだ。もてなさずに帰すわけにもいくまい。さあ、わざわざ用意させた薬湯だ。実にエグい色合いであろう。見た目よりかは味がいい。存分に飲むがいい」


 私の女房が無表情に捧げ持った提子(ひさげ)を傾け、銀の杯に薬湯を注いだ。色もにおいもすさまじい。


「まず、わたくしが先に……」


 付き添った乳母が割り込もうとするが、そちらの方には目を向けず更衣のみを見つめる。


「そうやって逃げるか。太刀を振るって邪魔者を取り除くほどの気概のある女が、なすすべもなく朽ち果てるのを待つのか」


 湯気のたつ杯を前にはさんで女を睨む。


「腑抜けるな! 漫然たる死が望みか。ぐずぐずと朽ち果ててウジ虫のようにみじめたらしく地を這い死んでいくつもりか。今のお前より先日のおまえの方が数倍美しいわ。もちろん、それでさえも私以下だがなっ」


 黙って聞いていた更衣はじっと私を見つめると、乳母が止める隙もなくさっと杯を取ると一息にあおった。


「姫さまあっ!」


 乳母がおんおんと泣く前で、くだんの更衣が不思議そうに杯を眺めた。


「……甘い」

「甘みをつけた毒なのですね! おのれ弘徽殿(こきでん)っ、この怨み、姫さまの後を追って死霊と化してはらしてくれようぞ!」


 呆れて女に嘆息する。


「あなたの乳母は相当に無礼ですね。この私が毒など盛ると思っているのですか」


 乳母はその目を白黒させる。


「今の汚らしい液体は……」

「失礼な。薬湯だと言っておるであろう」


 更衣は何とも形容しがたい表情でこちらを見ている。


「言葉に反応するほどの気力はあるようですね。よろしい。では明日、同じ時間にいらっしゃい」

「またこのような辱めを与えるつもりですか!」


 割り込む乳母を一睨みすると、腰を抜かして怯えまくる。

 年寄りには少し、刺激が強すぎたかもしれぬ。


「使いだてる女房の一人が里に戻っていて退屈していたところです。気晴らしにちょうどいい。当分毎日来なさい」


 更衣は私をまっすぐに見つめると少し微笑んだ。花が咲くかのようだった。


「…………はい」

「体調を理由に現れないのはつまらぬ。いきなりは無理でしょうから今日は重湯でも口にしなさい」

「はい」

「それでは長居は無用。さっさと部屋に戻るように」


 更衣は深々と頭を下げた。立ち上がるのを女房たちが手助ける。


「お、お待ちください。こ、腰が……」


 動けなくなった乳母を私の女房が何人かで支えた。



 殿舎(でんしゃ)は元の静けさを取り戻し、御簾(みす)越しの白萩の花は光を集めて輝く。

 柿の木の根元で何かをついばんでいた鳥が、ふいに大きく羽ばたき飛び去った。


「よろしいのですか」


 ふん、と鼻を鳴らす。


「消閑の具として何を使おうが私の勝手です」

「しかし……父親のいる更衣は女御に進む可能性さえありますわ」

「そのくらいのことは判っておる」

「行き来を見る者どもが取りざたすると思われますが」

「かまいません」


 人の噂で行動を抑制される趣味などない。


 女房たちは微笑んだ。先ほどの更衣に勝るとも劣らぬ笑顔だった。


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