解散
桐壷視点
里の暮らしはいつも気楽で、内裏の日々とは大違いだ。
疲れ果てて二日ほど寝込んだが、今は起きられる。
伝い歩きに慣れてきた息子と遊ぶのも楽しい。今日はついに何もつかまらずにてててっと歩いた。
「こんなに成長なさって……」
お母ちゃんは涙ぐむ。息子は不思議そうにそれを見返した。
帝への文にそのことを書いてやると、すごい速さで返しが来た。
ぜひ見たいから、すぐに息子ともども戻るようにと書いてある。帰ったばっかりじゃないか。
断りの文を書いていると、また文が届けられた。
添えてある品に見覚えがあって、急いで開くと源典侍からだ。
「………………?!」
琵琶の礼にと届けた品が返された。文には丁寧な断りが書いてある。私は首を傾げたが、最後の一言で理解した。
『…………内裏では最近花を揺るがす秋の風の勢いが強いようです。御身をいたわって充分に里でお休みくださいますように』
つまり、私からの品を受け取るとヤバい程の状況になっていると忠告してくれているのだ。
「ううむ」
唸っていると弘徽殿方の者の里へ出向いていた年若い女房が戻ってきた。
暗い表情で話を告げる。
「ちょうど相手方も戻ったところで内裏の様子が垣間見えましたが、なぜか更衣さまが憎悪の的となっているようです。理由はよくわかりませんが、楽の遊びの際の遺恨の押しつけもあるようです」
その後、留守番組の一人が二条に来た者との交代に現れた。
「内裏では妙な空気が漂ってますぜ。キナ臭いにおいがプンプンしやすが、よその女房たちは決してわれわれには話そうとしません」
聞いていたリーダー格の女房が眉をひそめた。
「何か、突破点はないのか」
「こっちもそう思いやしてね、下働きのおばちゃんたちに頼んでみました。あの人たちは上の事情には関係ねえもんで。だけど今回の情報規制はすげえ。どの殿舎も一糸乱れず語らねえ」
「…………弘徽殿がかんでるな、たぶん」
「ああ。人ってぇのは表面で意見を一致させても数が増えれば別口の意見を漏らすやつが出てきますからね。その辺上手く汲みとれば大抵どうにかなるんですがね」
「敵は情報戦を挑んできたのか」
「そんな感じでもなくって。ただ一つ掴めたのは、更衣の一人が閉じこもって部屋から出ないってことだけっス」
「どの更衣が?」
「琴で失敗した痩せた人。格子も上げずに閉じこもっているから掃除がやりにくいっておばちゃん情報」
「ああも派手にやらかしちゃ、引きこもりたくもなるわな」
「立ち直れないなら、いったん里にでも戻ってリセットすりゃあいいのに」
話を伝えた女房はちっちっちっ、と立てた人差し指を左右に振った。
「そこんちも戻れと言ってるらしいが、当の更衣が戻りたがらない。いくら親だからって帝の嫁の一人をかっさらうわけにもいかないので、苦虫をかみしめつつ毎日伺候してるってわけでさあ」
別の女房が円座のほつれからわら縄を一本むしり取った。それを弄びながら同輩に目を向ける。
「あの人の親父さんってさあ、冷酷とか有能とかで評判の殿上人じゃなかったっけ」
「ああ、聞いたことあるぜ」
「あの人か。上の引立てがあればもっと出世するって言われてんぞ」
「じゃあ他の人は今度の失敗にほっとしてるんだろうな」
すでにお父ちゃんのいないうちと違って、父親が上に這い上がれば更衣から女御へステップアップの可能性がある。
「筋は大したことないって聞いたが」
「と言っても北家の者だしさかのぼりゃあ別に悪くはねえ」
「でもあれだけミスれば目はないだろう」
一人が険しい顔をして腕を組んだ。
「正直、先のことはわからん。たとえばこの失敗に同情して帝が気を向けることだって…………いや!ありませんよ!」
こちらを見て慌てて言いつくろう。
自分がどんな顔をしているのか、ちょっと想像したくない。
うやむやにしてしまったが心の中にしこりは残った。
だが夕餉の後にまた届いた文を見て、大分気が晴れた。
いつもの通りの言葉に添えて、たがいに向き合った一対の魚の絵が描いてある。なんだ、これは。
魚の描線は紅で、少し丸みを帯びた形だ。
…………もしかして鯛か。
顔を合わせた二匹の鯛……って会いたいって意味か?!
噴き出しそうになって、あいつを思う。
会いたい。私も。せっかくの忠告に逆らいたくなる。
胸が震える。その奥に甘美さのある疼痛が居座っている。
私はその下手な絵を、長い時間眺め続けた。
夜の眠りは薄皮を剥ぐように何かを奪っていく。
ほんの少しずつ人から離れ、残された時間をまた少し失う。
夜の狭間に目覚めたときは、日の光にさらされると薄れていく記憶をすべて持っていて不安と焦燥で青ざめる。
死ぬことは恐くない。
それは川の流れが海にたどり着くように自然な気がする。
だけどそうなったら二度とあいつに会えない。
勝手にこの世をさまよい、あいつの傍にまとわりついたとしても二度と抱き合うことはできないのだ。
自分の涙が自分の頬を濡らす。
まるで泣き虫のあいつみたいだ。
朝の光がだいぶ鮮度を失ったころに起きると息子がすぐに寄ってきて抱きつく。
回らぬ舌で私を呼び甘えかかる。
答えるとにぱぁ、と満面に笑みを浮かべる。
あいつによく似た笑顔。顔立ちはけっこう違うのにな。
あやしながら彼のことを思う。
そこに最初の文が来た。
『昨夜眠れずに空を眺めていたら、月がだんだん満ちてきましたよ。ねえ、せっかくの秋の月をずっと私一人で眺めさせるつもりじゃないでしょうね。そんなの絶対イヤですよ。早く二人で眺めたい。できれば更衣さんの琴を聞きながらお月見をしたい。早く戻ってきてください!寂しくって死んじゃいそうです!』
と、まあそんなことを書いてきている。
息子から離れ、返しの和歌を書いて朝食をとる。食卓にはいつもの品のほか、氷魚が盛り付けてある。
「これは?」
「内裏に届く分を帝がこちらに回してくれたようですぜ」
美しく透き通った鮎の稚魚。
以前好きだと話したことがあった。
…………今、味がわからない。
「あの、更衣さま、泣くのか食べるのかどっちかにした方がいいですぜ」
「…………うん」
お母ちゃんが傍にいなくてよかった。ゆっくりさせてやろうと、息子と乳母を連れて牛車で散歩に行っている。
泣きながら飯を食らう私はひどく滑稽だったと思う。
だけどダメだ。会いたくて、切なくて涙が止まらない。
会いたい。残り少ない日々なら、なおさらあいつの傍で過ごしたい。
どんな目にあったっていい。隣にいたい。
朝食を終えて皆を集めた。
戻るつもりなら、逃げられないことがあった。
「……みんな、今までありがとう。言葉では言い切れないほど感謝している」
微笑む彼女たちに告げることは辛かった。
「だけど、これまでだ。チーム桐壷を解散する!!」
驚愕するみんなの顔を見ることが辛かった。
「…………どういうことですか」
詰め寄る女房に苦い視線を返す。
「どうもこうもない。解散だ」
「理由を話してください」
絶対に言えない。
黙って下を向く私を皆は取り囲む。
が、リーダー格の女房がそんな彼女たちを少し下がらせた。
そしてさっさとその理由を看破した。
「……内裏での風当たりが強くなることを予想して、わたしたちを里に帰らせようとしていますね」
あっさりと見破られてしまった。思わず顔を上げると片頬を歪めて笑っている。
「わたしたちを甘く見ないで下さいよ」
「そうですぜ、水くせえ」
「なに寝ぼけたこと言ってんですか。誰が聞くと思ってんですか」
「チーム桐壷の結束力を舐めんじゃねーですよ」
みんなを睨みつけた。
「いままでよりずっとひどい扱いを受けると思う。下手をすると親兄弟にも関わる。私から離れてくれ。本気だ」
一人がふいに胡坐をかいて目の前に座りこんだ。
「そんなん恐かったら、とっくに離れてますよ」
「つーか、うちの家族ずーっと不遇な貧乏王家なんでこれ以上下がりようがねえんですわ」
「おう。うちは藤原だけど北家筋じゃなくて貧相の極み。なにを今更」
「みな似たようなもんです。一人ひとりならいいように扱えるだろうが、全てのメンツを全部下げるのはさすがに目立って右大臣殿でも無理でしょう」
「左大臣も止めるんじゃないかな」
皆も次々に胡坐をかく。
「それにですね、今や親兄弟よりあなたの方が大事なんです」
おい。私の体内の水分を枯らすつもりか。
「逃げようたってそうはいきませんぜ。逃がしゃしません」
「あきらめて大人しくかしづかれていろってんでぃ」
「だいたい女房全員解雇して、内裏にいられると思ってんですか」
小声で答える。
「……更衣から退いて帝の私的な女房の一人になろうかと」
それなら、いじめられるのは私一人ですむ。
「むちゃくちゃだなあ、無理無理」
「だいたい二の宮さまがどうなると思ってんです」
「皇子さまの身分をはく奪される可能性がありますよ。下手すりゃ将来暮らしに困ります」
私はなおも言いつのろうとした。
「これから先はおばちゃんたちにも頼れない。下手すれば下の身分のあの人たちが井戸に浮く」
「じゃあ頼りません。まさかわたしたちに直接的な暴力は振るわんでしょ」
「腐っても王家筋ですからね、うちは」
「それでもかまいませんよ、あなたに仕えていられるのなら」
「本望です」
彼女たちは不敵な笑みを浮かべて私を見つめる。
「だから以前言ったでしょうが。我らチーム桐壺は金も力もないが、結束力の強さは内裏一イィィって」
「強引に離そうとしたって無駄無駄無駄無駄ァーッ」
幼い時から育った二条の邸は典雅で優しく私を安らがせている。
だがその邸よりよほど優しい存在が、私の周りを取り囲む。
全くの他人として育って、入内までは顔も見たことがなかった相手がほとんどだ。
だが彼女たちは今や私自身の一部だ。
「全くおまえたちときたら…………やれやれだぜ」
なんとか虚勢を張ってみるんだが、困ったことに視界が歪む。
私の顔に当てられた女房たちの袖が濡れていくのをただ、感じていることしかできなかった。
なされるがままに世話をされて、それをそのまま受け入れいていた。