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源氏物語:零  作者: Salt
第二章
42/65

女子会

麗景殿視点

 雷が落ちたのかと思った。

 それほど弘徽殿の女御さまの声は威を放った。

 彼の方に慣れた女房たちでさえこけつまろびつしていたから、そのお声の内容まで聞き取った者は意外と少ないと思う。


 私も床に腰を落としてその凄まじさに身をすくめていたが、言葉だけはまっすぐに胸の裡まで届いた。


「ならばこの、わが身の惨状をどう見る! 最弱の更衣に寵を奪われた最強の女の体たらくをっ!!」


 明晰な頭脳をお持ちだと評判の女御さまが現状をご理解されていないわけがないのだ。


 疼痛が私の胸にも宿る。いえ、もとから巣くっていた痛み。ここに住む誰もが逃れられない苦しみ。

 勝者であるあの桐壷の更衣でさえこれと無縁だとは思えない。

 だからこの方が乱心の更衣に衣を与えた時、体が激しく震えた。


 その人が去って私もようやく立ち上がれた。女御さまはしばらく彼女の消えた方角を眺めていたが、ひどく苦い表情で視線を戻し、女たちを集めることを命じた。


「ならば清涼殿と離れている方がいいですね。とすると、女御さま、申し訳ありませんが殿舎をお貸し願えませんか」

 渡された太刀を抱えた女房が、何事もなかったように立ち上がり私の方を見た。


「散らかっていますけれどかまわなかったら、どうぞ」

 目元で笑って見せた。私の女房の一人が言葉と同時に殿舎の方にすっ飛んでいった。きっと部屋を片付けてくれるのだろう。


「感謝します」

 女御さまが面持ちを変えずにわずかに頭を下げた。



 連絡の女房が散り、女御さまはそのまま麗景殿に足を運ばれた。

 廂にたどり着いた頃に彼女の女房の一人が何ごともなかったかのように、そっと小袿を着せかけている。さぞかし焦って駆けたことだろうと思うとちょっとおかしくなった。

 でも、それは私の女房も同じ。母屋に戻ったら、わずかな間に御帳台が姿を消している。塗籠に運んだに違いない。みんななんて気が利くのかしら。


 まだ使ってない高麗の青地の錦で縁取った茵があったのでそれを勧める。そのままお座りになったが表情は固いままだ。私も何となく声をかけにくくて黙って隣に座った。


 いつもは弘徽殿の女御さまは女子会には参加なさらない。

 帝が東宮で会った時からいらっしゃった一の方なのでみんな低姿勢でお誘いしたけど、丁寧にお断りされた。

 そのことを陰でそしった方もいるけれど、いらっしゃったらなんだか緊張しそうだからこれでいい、と大半の人は納得していた。

 実際においでになった今、その圧倒的な迫力にかなり気おされている。


 虫の声が響く中、わずかに間をおいて女たちが集まった。

 人々を見てから、あら、茵の数は足りたかしらと焦ったけれど、弘徽殿方の人たちが表情も変えずに持ってきたものを配ってくれた。


 いくらかのざわめきの後、弘徽殿の女御さまが視線を向けた。途端に静まり返る。


「突然の招集、驚かれた方も多いでしょう。どう隠そうとも噂になるでしょうので言いますが、正気を失って騒ぎを起こした人がいます。その処遇について語り合いたいと思います」

 先ほどのいかずちのような声とは違った落ち着いた声で開始を宣言なさる。詳細の説明は女房が請け負った。

 みんな発言をためらって彼女の顔色をうかがっている。

 女御さまは再び口を開かれた。


「陣の座では下位の者から発言をしていきます。安易に上の者に追従することを避けるためです。ここではまず更衣、それも入った時期が新しい者より意見を述べることにしましょう」


 みんなは困惑したまま頷いた。もしこの場にいたならば桐壷の更衣が最初になるが里に戻っているので別の更衣が口を切る。


「同じ更衣として恥ずかしいわあ。その人は里に帰して二度と内裏に来ないようにしてほしいと思います」

 更に冷たく付け加える。

「そんな危ないことをする人と今後もお付き合いできるとは思えないし」


「まったくです!!」

 ふくよかな更衣が吐き捨てる。例の方と一緒に筝を弾いた方だ。

「定められたことも守れずに逆切れするような方ですよ! 顔も見たくありませんっ」


 幾人かが語った後に女御の順番が来る。


「……お病気なんでしょう。お気の毒ですわ。だから里でよく療養できるようにこちらも気を配るべきですわ」

 和琴を弾いた女御の一人が柔らかな声を出した。

「だから、私も父に話しますわ。みなさまもそうすれば当分内裏に顔を出すことはできないと思いますわ。……もちろん、その方のためですのよ」

 急に気温が下がったような気がする。


「それはいい考えですわ。対処なさった方々も滝口を呼べばよろしかったのに。そうすれば今ここで集まる必要さえなかったと思いますわ」

 別の女御が毒のある花のような笑顔でおっしゃる。


「……麗景殿の女御さまはいかがお思いになります? やはりその方のことはお父上に話すべきではなくて」

 他の人が私に声をかけた。

 女たちの視線がこちらに集まる。


「…………私はそうは思いませんわ」

 強い言葉だから、できるだけ穏やかな笑顔と共に発してみた。

「殿方に伝えたらあっという間に広まってその方がいたたまれない思いをするのではないかしら。だから私は話しません」


「綺麗ごとを」

 一人がいまいましげにつぶやく。

「和を乱し人々を危険に陥れた女ですよ! 二度とこちらに顔を見せるべきではない!」


「私もそう思います。だって恐いわあ。閉じこもっていてほしいもの」

「主上のくつろぐこの場で刃を振りかざした罪は大きいわ。断罪すべきよ!」

「閉じこもらなくてもいいと思いますわ。ただ、この内裏にさえ戻らなければ」

「因果応報と言うものじゃなくって」


 悪意が部屋を覆うほどに立ち込める。いつもの殿舎が普段より暗く見える。


「…………弘徽殿の女御さまはどうお思いになるの?」

 一人が尋ねるとみんながざっ、とそちらを向いた。


 女御さまはその視線を受け止めて少しも揺るがない。

 むしろ、数に頼った人たちの方がその凛とした姿勢を見てたじろいだ。

 彼女は黙って皆を見渡し、それからおもむろに口を開いた。


「黙っているべきだと思います」

「まあ、麗景殿の方はともかく弘徽殿の女御さまらしくもない弱腰ですわね」

 一人が薄ら笑いを浮かべながら言ったけれど、女御さまがわずかに視線を流しただけで急にぱくぱくと口を開け閉めし、ずり下がって女房の影に隠れた。


 大きな声を出したわけでも睨んだわけでもない。それでも空気の色が変わった。

 凍りついた空気の中で彼女は一人一人に視線を当てた。


「……この中で、絶対にあの方のようにならないと自信のある方はいますか」

 誰も答えない。弘徽殿の方は終始苦い表情のままだ。


「私にもその自信はありません」

 彼女の声が陰鬱な雲で覆われた空のような色を含んでいる。

「今までは自分の矜持で自分を守れると信じていました。あんな見苦しい様は絶対に見せないと思っていました。だが実際この目でその女の乱心を見た時、私は自分自身の姿を彼女に見ました」


 憐みではなかった。機嫌の悪そうな表情に内心の動乱はちっとも現れてはいなかったけれど、見下している様子はなかった。


「あの惨状はあの者だけのこととは思えない。薄衣一枚を透した自分のようです」

「あら、弘徽殿の女御さまともあろうかたがそんなわけがないじゃない。お戯れを」

 別の者が追従とも皮肉とも取れる言葉を口にして彼女の視線を招き、やはり後ずさった。廂から衣の裾が出るほどだった。


「でも、どうしてこんなことになってしまったのでしょうね」

 つい口にすると他の方が勢い込んだ。


「決まっていますわ! あの、桐壷の更衣のせいですわ!」

 ……いけない、誘い水になってしまった。


「それまではまだ落ち着いていられました。確かに弘徽殿の女御さまだけが重く扱われていらっしゃったけれど、そのことは納得できましたわ。でも、あの卑しい更衣が!」

「夜が明けても居続けるような見下げ果てた女!」

「弘徽殿の女御さまが時めくことはまだよかった! だけどあの桐壷だけは許せないっ」

「ぬけぬけと皆の殿舎の前を……私の前を…………っ」

「切り殺されればよかったのです! なぜ止めたのですかっ」


 人目もかまわず耳をふさぎたくなる。でも私の中にもこんな鬼がいて時々その眼を薄く開く。


「なぜ、私ならまだよかったのですか」

 冷たい声で弘徽殿の方がおっしゃった。途端に殿舎は静まり返る。

 一人が震えながら小声で答えた。


「……女御さまならお父上の威光から言ってもそれにふさわしく…………」

 もともと凄味のあった女御さまの形相がいっそう苦くなり、全員が微妙に腰を浮かせた。

 でも私はお気持ちはわかる。権威で愛されたって嬉しくない。でもそう逃げたいみんなの気持ちもわかる。

 女御さまも本当は理解していらっしゃるからそれ以上口には出さなかった。


「それでは、騒ぎを起こした更衣のことは家族にも沈黙を守ることにしていいですわね。それぞれの女房にも口止めをするということで」

 沈黙を幸いにさっさと話しをまとめてみる。拒否する方はいなかった。


「そう言えば桐壷の者はこの騒ぎを知っているのですか」

 一人の更衣が尋ねると、私の女房が答えた。

「その時、裏からまわってお知らせに上がりましたがちょうど里へのお見送りに全ての女房が出ていていらっしゃいませんでした」

「留守番の者もお見送りに行かれたようでした」

「騒ぎの素因であろうに気楽なことね」

「本当に。あの女は私たち全てを狂わせるつもりだわ」


 また一人が弘徽殿の女御さまに詰め寄った。

「今回の件は黙っています。女房たちにも語らせません。しかし、元凶の桐壷に対しての対応まではお止めになりませんでしょうね」


 みんなはかたずをのんで彼の方を見守っている。表情は全く動かない。

 虫の声がふいに止んだ。

 夜気がわずかに滲み、じっとりとした嫌な湿気を帯びたような気がする。


 女御さまは口を開かれた。


「それぞれの行動はそれぞれが責を負うこと。どうして私が止めることなどできましょう」


 風が灯台の灯影を揺らしている。見慣れた室内がどこか遠い異界の影を映しているような気がする。

 りん、とまた虫の声が響いた。いつもと違ってうすら寒い声だった。


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