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源氏物語:零  作者: Salt
第二章
41/65

その夜

弘徽殿視点

 遠く廊の端よりも更に向こうから人の駆ける音がする。

「はて」

 いぶかしんだ。白砂の音ならともかくも、内裏の木の床を走り抜けそうな者は一人しか知らない。


「どうかしましたか?」

 乳母子が不審げにこちらを見返す。

 こやつはここにいる。

 とすれば廊を駆ける者はいったい誰ぞ。


 音は次第に近づいてくる。

 その者は弘徽殿の孫廂にたどり着くと、ぜえぜえ言いながら平伏した。


「申し上げます! わが主、麗景殿の女御がどうしても弘徽殿の女御さまのお手を借りしたいとのこと、お願いに上がりました!!」


 麗景殿はここの東に位置する。

 非常に調子のよい時に円座を投げると、そこの境を越すことがあるのでわが女房たちはそれなりに付き合いがある。


「どのようなご用でしょうか」

 女房の一人が尋ねている。


「あのっ、更衣が……」

 ひどく息を切らしていてなかなか言葉を継げない。


 業をにやして立ち上がりかけると乳母子が止めた。そしてその女房に対峙する。


「わが主が危ない目に合うようなことではないでしょうね」


 その女は答えられない。ただ、悲痛な目をこちらに向けた。

 すがるようなそのまなざしを見た時、心は決まった。


「行きます」

 簡潔に告げると女の目が輝く。

 乳母子が口を開きかけ、すぐに閉じ私の横に立った。

 その手を取る。


 麗景殿の女房は必死に礼を述べている。


「いえ、それより何が起こったのです」

「正気を失った更衣が太刀を抜いて人を殺めようとしています」

「誰をですか」

「…………桐壷の更衣を」


 ふいに乳母子が止まったので腕がつりそうになった。

「これ、何事です」

「いい機会です。ほおっておきましょう!」

 睨みつけて先を急がせた。



 そういえば先ほど女の悲鳴が聞こえていた。

 しかし私は、後宮での女の悲鳴には反応しないことにしている。

 以前も、絶叫が聞こえたので慌てて駆け付けたところ、イケメンの殿上人に喜びのあまり絶叫する女がいて恥をかいたことがあるのだ。


 麗景殿を過ぎ宣耀殿の辺りまで来ると、その女の姿が見える。

 白い単衣に朱の袴姿で、小袿さえ身に着けていない。

 程よい背丈で髪も長く、なかなかに美しい女だ。

 その女が抜身の太刀を握り締め、凄まじいまでの笑みを浮かべている。


「滝口には?」

 その場にいた麗景殿の女房に尋ねると、首を横に振る。

「いえ」

「私が止めました」

 麗景殿の女御が、凛とした声で答えた。


「……賢明なご判断です」

 そういうと、ほっとしたようにうなずいた。


 私が一歩前に出ると、その場を囲んでいた女たちが割れた。

 その更衣も顔を向ける。

 私も扇を外し顔を晒した。


「弘徽殿です」

 名乗ると、女の瞳がぎらぎらと獣のように輝いた。


「……権勢はなはだしい女御さまが、この無力な更衣に何のご用でしょう」


 細い三日月の形を模したかのような唇は幸薄さを表しているかのように薄い。


「後宮の女はみな心配しています。太刀を置いて、気を落ち着けてください」

「心配?!」

 乾いた笑い声が響く。

「まさか。さぞや喜んでいることでしょうよ。女が一人自滅して更にもっと気に障る女まで排除しようとしているわけですもの。嬉しいでしょう、女御さま」


 初秋の宵の口としては冷たすぎる気が女のいる辺りから暗く立ち上る。まがまがしくどす黒い瘴気。


「ねえ、弘徽殿の女御さま」


 女は妖しく微笑むと、蛇のような舌先を出して光に映える刃を舐めた。薄物しか身に着けていないのでくねらせた体の線も露わだ。

 魔に捕われ、他者を引きずり込もうとする悲しい姿だ。


「いっしょに殺しに行き……」

「くだらんっ!!」


 一喝すると周りの者がバタバタと転げたり尻もちをついたりする。

 件の女はさすがに動かなかったが、驚いてこちらを見た。


「武力であの女を取り除いてどうするっ! 主上の心に永遠に刻み込むだけではないかっ。そんな愚かな手段をこの弘徽殿がとると思うのかっ! バカにするでないっ」


 だん! と一つ床を踏むと女は後ずさり、ふいにその眼に涙が溢れた。


「……あなたにはお分かりにならないわ。お父上の力も充分におありになって、様々な才に恵まれていらっしゃるあなたには!」


「やかましいっっ!!」


 ひっ、と女が身をすくめる。たたみかけた。


「ならばこの、わが身の惨状をどう見る! 最弱の更衣に寵を奪われた最強の女の体たらくをっ!!」


 …………音のない夜は嫌いだ。目を背けていた真実を灯りの下に暴き出すから。


 何事もなかったかのように表情を取り繕って女を見つめる。

 拠り所を失くした女は幼い子供のように震えている。

 私は手を差し伸べた。


「……太刀をよこしなさい」

 彼女は素直に言葉に従った。

 受け取った太刀を、横で尻を床に着けたままの乳母子に渡し、それから再び視線を戻した。


 女は両腕を交差させ、自分の体を抱きしめるような形で震えている。

 ひどくやつれていて、それでもなお美しい。

 私は自分の小袿を脱ぎ、彼女の肩にかけてやった。


「…………どうして……」

「あなたは、私だ」


 滂沱の涙が彼女の頬を濡らす。

 私は黙って、その背をさすってやった。



 更衣は彼女に属する女房に連れられて御座所に戻っていった。

 麗景殿の女御が礼を言おうと近寄ってきたが、扇を振ってそれを止めた。


 彼女と私の女房に向かった。

 皆、神妙な顔でこちらを見ている。

 私は不機嫌な顔で命じた。


「これから、緊急女子会を開催するっ!! すぐに女たちを集めよっ!」


 麗景殿が呆然とこちらを眺めるのが目に入った。


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